第5話「夜雨の微熱」
叩きつけるような豪雨が、公爵城の頑丈なガラス窓を激しく揺らしていた。
遠雷が地の底を震わせ、黒曜石の尖塔に冷たい飛沫が打ち寄せる。 三階の東翼、薄暗い寝室には、規則的な雨音を裂くように苦しげな喘ぎ声が響いていた。
「……う、あ……っ、置いて……いかないで……!」
天蓋付きのベッドの上で、テオドールがシーツを掻き抱きながら身を捩っていた。 青白い額にはびっしりと冷汗が浮かび、頬だけが異常な熱気に赤黒く染まっている。
今日は、彼が五歳の時に病で世を去った実母の命日だった。昼過ぎから降り始めた冷雨とともに急激に体調を崩し、日没を迎える頃には意識を混濁させるほどの高熱に倒れたのだ。
「坊ちゃん、しっかりしてください……! ああ、神よ……」
初老の侍医が調合した解熱の薬湯を盆に乗せ、狼狽した手つきで匙を近づけようとする。
だが、悪夢の淵を彷徨う少年は「触るな!」と激しく腕を振り払い、薬湯を床に撒き散らしてしまった。
侍女たちが青ざめて後ずさり、寝室に充満する重苦しい焦燥感に息を詰める。
「先生、解熱の湿布薬と乾いたリネンをあと三組。それから、薄めた塩水と蜂蜜を用意してください」
私は静かに歩み寄り、侍医の背後から声をかけた。
「奥様……! しかし、坊ちゃんは錯乱されております。近づけば奥様にまで危害が及びかねません。ここは我々にお任せを……」
「任せていては、この子の体力が朝まで保ちません」
私はドレスの袖をピンで留めると、ベッドの脇に置かれた丸椅子を引き寄せ、腰を下ろした。 迷うことなく、ベッドサイドへと手を伸ばす。
暴れるテオドールの手首を、痛まないよう注意しながら優しく、しかし確固たる強さで包み込んだ。 少年の掌は火のように熱く、指先は氷のように冷え切っていた。
「……っ、離せ! 誰だ、僕を……僕を置いていくな……母上……!」
譫妄状態の少年が、私の腕に爪を立てる。 鋭い痛みが走ったが、私は顔色ひとつ変えず、もう片方の手を氷水に浸した手拭いで冷やし、そっと彼の熱い額へと当てた。
「ここにいますよ、テオドール様。どこへも行きません」
低く、一定のリズムを保った声で語りかける。 耳元に届くよう、呼吸の波に合わせて言葉を落とす。
「置いていったりいたしません。私はここにいます」
暴れる少年の小さな身体を支えながら、私の胸の奥に、遠い前世の記憶が鋭く疼いた。
過労で倒れる前の世界。 家庭の不和と親からの過度なプレッシャーに押し潰され、荒れ果てていた一人の教え子がいた。
助けを求めるサインを出していたのに、私は日々の激務と数字の追跡に追われ、そのSOSをすくい上げることができなかった。少年が教室から姿を消した日の、冷たい雨の匂いが今でも鼻腔に焼き付いている。
(あの時、私は大人の理屈を優先して、踏み込むことを恐れた)
だが、今は違う。 契約結婚だろうと、形だけの継母だろうと、そんな肩書きはどうでもいい。
目の前で、小さな命が孤独の闇に溺れ、必死に誰かの温もりを求めて叫んでいるのだ。
「大丈夫です。怖くありませんよ」
私は氷水で絞った布を何度も取り替え、少年の汗ばんだ首筋やうなじを丁寧に拭った。
握りしめた手の力を決して緩めず、熱が引くまで、ただひたすらに体温を分け与えるように寄り添い続けた。
窓を打つ雨脚は、夜半を過ぎても衰える気配を見せなかった。 遠くで時計塔の鐘が三度、四度と鳴り響く。
テオドールの荒い呼吸が、少しずつ、途切れ途切れの寝息へと変わっていく。
私の指を握る少年の爪の力が抜け、代わりにすがるような微かな温もりが掌に伝わってきた。
東の空が白み始めた頃、吹き荒れていた雨音が不意に遠のいた。
分厚い雲の切れ間から、冷たく澄んだ朝の光がカーテンの隙間を縫って差し込んでくる。
テオドールの額に触れると、皮膚の熱さはすっかり引き、穏やかな平熱に戻っていた。
胸元が規則正しく上下し、深い眠りについている。
「……ん……」
微かな擦れ音とともに、長い睫毛が震えた。 ゆっくりと開かれた灰青色の瞳は、もはや悪夢に濁っておらず、元の澄んだ光を取り戻していた。
テオドールはぼんやりと天井を見上げ、それから自らの右手に意識を向けた。
一晩中、その小さな手を両手で包み込み、ベッドの縁に凭れて額を預けていた私に視線が止まる。
私の袖口には、夜中に彼が立てた爪の跡が赤くにじんでいた。
「……あ……」
少年は何かを思い出すように息を呑んだ。 自分が悪夢に叫び、暴れ、そしてずっと誰かがその手を離さずに抱きしめ続けてくれていた記憶を、手繰り寄せるように。
テオドールの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。 彼は両手で私の冷え切った指をぎゅっと握り返し、顔を枕に押し当てて、しゃくり上げた。
「……母上……」
それは、掠れた、だが魂の底から絞り出されたような呟きだった。 虚勢でも、反発でもない。
孤独の檻に閉じ込められていた八歳の少年が、初めて見せた本物の甘えと、剥き出しの情愛だった。
私は小さく微笑み、もう片方の手で少年の乱れた黒髪をそっと撫でた。
「よく頑張りましたね、テオドール」
形式上の契約など、疾うに吹き飛んでいた。 冷たい雨の夜を越えて、私たちは確かに、魂で結ばれた家族になったのだと実感していた。
「テオドール……」
不意に、部屋の入口から低く震える声が響いた。
見上げると、半開きの扉の前にクラウス公爵が佇んでいた。 軍服のボタンも留めぬまま、息を切らして駆けつけてきたのだろう。
その顔は青ざめていたが、平熱に戻って泣きじゃくる息子の姿と、その手を握る私の姿を視界に収めた瞬間、彫刻のような男の全身から力が抜けた。
クラウス公爵の灰青色の瞳に、光るものが浮かんでいた。 妻を亡くしてから三年、決して他人に心を開かなかった愛息が、誰かを「母」と呼んで涙を流している。
その奇跡のような光景を前に、帝国最強の武人は立ち尽くし、呆然と息を詰まらせていた。
彼はおもむろに歩み寄ると、ベッドサイドに膝をついた。 そして、徹夜で疲労困憊の私の肩へ、大きな腕をそっと回した。
「……閣下?」
驚いて見上げる私の耳元に、クラウス公爵の低く掠れた囁きが落ちた。
「もう休め。……頼むから、休んでくれ」
引き寄せられた彼の腕は、鉄のように硬く強張っていた。
震えるほどに力を込められたその抱擁の奥に、言葉にはならない深い感謝と、隠しようのない烈しい情愛が滲み出ていた。
武人の熱い体温が、私の冷え切った肩を通して胸の奥へと染み渡っていく。
その不器用すぎる抱擁の温もりに、私の意識は吸い込まれるように心地よい闇の中へと沈んでいった。
◇
一方、アルスター王国の南部を流れる大河沿いでは、濁流が唸りを上げていた。
前例のない長雨が降り続く中、本来であれば先週までに完了しているはずだった堤防の補強工事は、予算の枯渇によって完全に中断していた。
泥水を巻き込みながら猛烈な勢いで増水する河川は、すでに堤防の天端まであと数寸という警戒域を易々と突破し、下流の農村地帯を呑み込もうとしていた。




