第10話「真実の誓礼」
(――私は、いつの間にかこんなにも温かい場所に立っていたのだわ)
公爵城の大聖堂、色鮮やかな光を落とすステンドグラスの下で、私は卓上に置かれた一枚の羊皮紙を見つめていた。
祭壇の前に置かれた白樺の机。そこに広げられていたのは、かつて王宮の門前で交わしたあの「契約再婚書」ではなかった。
帝国皇帝の黄金の公印と、教会首長による厳粛な祝福の文言が刻まれた、本物の『永久婚姻誓約書』。
「テオドールは立ち直り、領政も軌道に乗った。十年の年限を待つまでもなく、契約の目的は君の手で完璧に果たされたのだ。……君が望むなら、今この場で契約を円満に終了させ、約束通り領内での自由な余生を選ぶ権利は君の手にある」
机を挟んで立つクラウス公爵が、低く落ち着いた声で私に告げた。 漆黒の正礼装に身を包んだその姿は、初めて会った日と同じように威厳に満ちている。
だが、私を見つめる灰青色の瞳には、あの冷徹な氷の色は欠片も残っていなかった。溢れんばかりの切実な祈りと、隠しきれない情熱が揺らめいている。
「だが、私は望んでいる。君に、生涯我が妻として……私の隣にいてほしいと」
卓上には、インクを満たした一本の羽根ペンが置かれている。
そこに私の署名を書き加えれば、名目上の契約は完全に消滅し、私は正真正銘、クラウス・フォン・ライゼンハイトの生涯の伴侶となる。
私の指先が、ペンの前で微かに躊躇した。
前世の記憶を取り戻してから今日まで、私は常に「能力」と「結果」だけで己の居場所を確保してきた。
役に立たなければ捨てられる。理不尽な要求に応え続けなければ価値を認めてもらえない。
アルスター王国での三年間のブラックな使役は、その呪縛をさらに強固なものにしていた。
誰かから純粋な好意を注がれること。無償の愛を受け入れ、守られる側に立つことへの、拭いきれない戸惑い。
私は本当に、この幸せを対価なしに受け取ってよいのだろうか。
「母上!」
重厚な静寂を破り、大聖堂の静謐な空気を揺らして駆け寄ってくる小さな足音があった。 テオドールだった。
端正な礼服の裾を翻し、少年は迷うことなく私へと飛び込んでくると、私の腰に力いっぱい腕を回した。
「母上、行かないで! ずっとここにいて! 僕、もっと勉強して、母上が誇れる立派な領主になるから……だから、ずっと僕の母上でいて!」
見上げる少年の瞳には、大粒の涙が光っていた。 かつて世界を拒絶し、孤独の檻の中で牙を剥いていた少年が、今や私の温もりを求めて全身で縋りついている。
「テオドール……」
「君が背負ってきた痛みを、これからは私が半分背負う。いや、すべて私が引き受ける」
クラウス公爵がおもむろに歩み寄り、私の前で片膝をついた。 帝国の至宝と謳われる筆頭公爵が、一介の追放令嬢の前に傅く。
彼は私の強張った左手をそっと両手で掬い上げると、ポケットから小さなベルベットの小箱を取り出した。
中に収められていたのは、細密な彫金が施された白金の指輪。中央には、ライゼンハイトの家督を示す黒曜石と、それを護るように煌めく一粒のダイヤモンドが嵌め込まれている。
「君の手腕に救われたのではない。君の誠実さと、その魂に……私は心奪われたのだ。エレノア、私の生涯をかけて君を愛し、守り抜くと誓う」
武人の節くれだった指先が、微かに震えていた。 不器用で、飾らない、魂の底からの求婚。
胸の奥底で、頑なに張り詰めていた最後の防壁が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。 有能な道具である必要など、もうどこにもないのだ。
私はこの人たちに必要とされ、愛されている。
「……はい、閣下」
視界が涙で滲む中、私は溢れる笑みを抑えきれずに頷いた。
「喜んで、お受けいたします」
クラウス公爵の顔に、今まで見たこともないほど眩い、少年のように無防備な歓喜が広がった。 彼は震える手で、私の左手薬指へと指輪を滑り込ませた。
ひんやりとした金属の感触が、すぐに私の体温と、彼の熱い掌によって温められていく。
私は迷うことなく羽根ペンを手に取り、誓約書の末尾に自らの名を刻んだ。 エレノア・フォン・ライゼンハイト。
インクが乾いた瞬間、クラウス公爵の逞しい腕が私の腰を引き寄せた。
「あっ……」
驚く間もなく、彼の顔が間近に迫る。 クラウス公爵は私の額に、慈しむような熱い口づけを落とし、そして――そのまま私の唇を、深く、熱く塞いだ。
「ん……っ」
吐息が重なり合い、唇の隙間から彼の抑えきれない情熱が流れ込んでくる。 公爵としての仮面を完全に脱ぎ捨てた、一途で烈しい抱擁。
背中に回された彼の腕は、骨が軋むほど強く、決して離すまいと抱きしめられていた。
「もう二度と、君を離さない」
唇を離したクラウス公爵が、掠れた声で囁いた。 その灰青色の瞳は潤み、頬は熱情に染まりきっている。
テオドールが歓声を上げて私たちの足元に抱きつき、大聖堂のパイプオルガンが、二人を祝福する荘厳な旋律を奏で始めた。
◇
その日の午後、公爵城の執務室に、帝国情報部からの最終公電が届けられた。 隣国アルスター王国における、罪人たちの最終処分確定報告である。
『――元王太子エドワードは、北方の極寒の国営鉱山へ護送完了。泥と煤に塗れ、重い岩石を運ぶ過酷な強制労働に喘ぎながら、泥濘の中でかつての栄華を叫び散らすも、監視兵の鞭に打たれて地に伏す日々を送っている。
共犯のマリアンヌ・レヴィは、四方を石壁に囲まれた修道院の薄暗い独房へ幽閉。擦り切れた粗末な修道服をまとい、鏡も装飾品も奪われた冷たい床の上で、二度と戻らない贅沢と己の浅慮を呪い、後悔の涙を流し続けている――』
私はその報告書を一瞥すると、何の感慨も抱くことなく、机の引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
因果応報の報いを受けた愚者たちの末路など、もはや私の視界の隅にすら入らない。
◇
大聖堂を出た私たちは、青空が広がる公爵城の中央バルコニーへと歩み出た。
扉が開かれた瞬間、割れんばかりの歓声と拍手が地鳴りのように湧き上がった。
眼下に広がる広場を埋め尽くした数万の領民たちが、色とりどりの旗を打ち振り、新しい公爵夫人の誕生を心から祝福している。
見上げる空はどこまでも青く澄み渡り、吹き抜ける北風は、驚くほど柔らかく私の頬を撫でていった。
「母上、見て! みんな母上を呼んでるよ!」
テオドールが誇らしげに私の右手を握りしめ、身を乗り出して手を振る。
そして私の左手は、クラウス公爵の無骨で温かい掌に、指を絡めるようにしてしっかりと包み込まれていた。
「行こう、エレノア。私たちの領民が待っている」
「はい、クラウス様」
私は隣に立つ夫を見上げ、そして手を取り合う愛息に微笑みかけた。
理不尽に捨てられた過去の闇は、疾うに晴れ渡っていた。 愛する家族とともに歩む、光り輝く未来の扉が、今ここに開かれたのだ。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし楽しんでもらえたなら★★★★★ボタンをぜひ押していただけると嬉しいです!
ブックマークやリアクションなどもとても活力になっています!




