第2話「閉ざされた城」
馬車のステップに足をかけ、私は冷たい朝の空気の中へと降り立った。
見上げるライゼンハイト公爵城は、黒曜石を積み上げたかのような厳めしい威容を誇っていた。アルスター王国の白亜の宮殿とはまるで異なり、装飾を極限まで削ぎ落とした、堅牢な軍事要塞そのものの佇まいである。冷え込みの厳しい帝国の北風が吹き抜けるたび、城壁に掲げられた黒鷲の軍旗がバサリと重い音を立てていた。
「長旅、ご苦労だった」
すぐ背後で、クラウス公爵が短く声をかけてくる。
国境の関所を越える際、彼が提示した皇帝直筆の「特認婚姻許可書」と魔導身元照会により、入国審査は驚くほど迅速に完了した。追放された罪人としてではなく、帝国の筆頭公爵夫人として迎え入れられたのだ。
「いいえ、閣下。快適な道中でしたわ」
私は衣擦れの音を小さく響かせ、軽く頭を下げた。
道中、クラウス公爵はこちらの体調を気遣い、宿の手配から食事の配慮に至るまで完璧な差配を見せていた。ただし、口数は極端に少ない。余計な世間話は一切なく、交わしたのは領内の治安状況と、これから向き合うべき問題についての事務的な報告だけだった。
「テオドールは三階の東翼にいる。……覚悟はしておいてくれ。この半年で四人の家庭教師が城を去った」
「承知しております。教育の現場において、拒絶は最もありふれた最初の反応にすぎません」
私はそう答え、出迎えの執事が差し出す案内を受け入れた。
重厚な絨毯が敷かれた廊下を進み、東翼の突き当たりにある重々しい樫の扉の前へと至る。案内役の若い従僕が、あからさまに青ざめた顔で扉の取っ手に手を伸ばした。その指先が微かに震えている。
「ぼ、坊ちゃん、テオドール様……。旦那様がお戻りになられました。新しい……その、奥様をお連れして……」
従僕が震える手で扉を押し開けた、まさにその瞬間だった。
甲高い風切り音とともに、白磁の花瓶が部屋の内側から凄まじい勢いで飛来した。
「うわあっ!」
従僕が悲鳴を上げて床に身を縮める。 花瓶は扉の縁をかすめ、私の足元からわずか半歩手前の石畳に激突した。
硬質な破砕音が廊下に炸裂し、飛び散った陶器の破片と冷たい水が、私のドレスの裾を容赦なく濡らす。
「寄るな! 入ってくるな!」
開かれた扉の向こう、荒れ果てた部屋の奥から、張り裂けんばかりの鋭い声が飛んできた。
「どうせお前も父上に取り入るための偽善者だろ! 優しいふりをして僕を言いくるめようとするな! とっとと出て行け!」
部屋の中は凄惨を極めていた。 床一面に散乱した書物、へし折られた羽根ペン、引き裂かれたカーテン。その中央に、一人の少年が仁王立ちしていた。
八歳。クラウス公爵と同じ漆黒の髪と、鋭く尖った灰青色の瞳。華奢な身体を怒りで震わせ、床に落ちていた金属製のペーパーナイフを構えるようにして私を睨みつけている。
テオドール・フォン・ライゼンハイト。
「坊ちゃん、なんてことを……! ひ、控えてください、お怪我をなさいます!」
従僕が狼狽して立ち上がろうとするのを、私は右手をわずかに挙げて制した。
「下がっていなさい」
静かな、だが一切の反論を許さない声で命じる。 従僕は息を呑み、弾かれたように背後の壁際へと退いた。
私は濡れたスカートの裾に目もくれず、割れた花瓶の破片の前へゆっくりと膝をついた。
悲鳴も上げず、怒声も返さず、ただ無言で床に散らばった陶器の大きな破片をひとつずつ拾い集めていく。刃物のように尖った断面に注意しながら、丁寧に、音を立てずに集め、持参していたリネン地のハンカチの上へと乗せていく。
部屋の奥で、テオドールが息を呑む気配がした。
罵声を浴びせれば、大人は二通りの反応しか示さない。激昂して手を上げるか、あるいは過剰に怯えて機嫌を取ろうと媚びを売るか。
そのどちらでもない私の行動に、少年の張り詰めた空気がわずかに揺らいだ。
「……な、何をしてるんだ。気味が悪い! やめろ!」
震える声を無視し、私は大きな破片を拾い終えると、静かに立ち上がった。 破片を包んだハンカチを従僕の手元へ手渡し、室内へ向けてまっすぐに足を踏み入れる。
床に散らばる本を踏まないよう、慎重に歩幅を選びながら、少年の手前三歩の位置で足を止めた。
見下ろすのではなく、背筋を伸ばしたまま視線だけを少年の瞳に合わせる。
間近で見ると、その幼い肩は小刻みに波打っていた。ペーパーナイフを握る細い指先は白く鬱血し、瞳の奥には激しい敵意と同じだけの、剥き出しの怯えが渦巻いている。
私は彼の構える凶器にも、飛び交った罵詈雑言にも一切触れず、ただ少年の全身を上から下へと丹念に観察した。
乱れたシャツの袖口。素足のままの足元。破片が飛んだ形跡。
「足元に破片は飛んでおりませんね。お怪我はございませんか」
私の問いかけに、テオドールは呆気にとられたように唇を半開きにした。
怒られるでもなく、宥められるでもなく、ただ怪我の有無だけを淡々と確認されたことが、理解できないようだった。
「……は? な、何言って……」
「怪我がないのであれば結構です」
私はそれ以上の追及をせず、乱れた室内の床を一瞥した。
「破片を踏めば危険ですし、大切な書物が汚れてしまいます。まずは清掃の者を呼び、室内を整えさせましょう。ご挨拶は、足元が安全になってから改めて伺います」
「な……っ」
「それでは、失礼いたします。テオドール様」
私は完璧な角度で腰を折り、公爵家の世子に対する非の打ち所のない礼を捧げた。 そして、一切の未練も戸惑いも見せず、踵を返して部屋を出た。
取り乱しもせず、機嫌も取らず、業務の段取りだけを済ませて去っていく背中に、テオドールが言葉を失っているのが背中越しに伝わってきた。
扉の外へ出ると、私は小さく息を吐き出した。
(虚勢、ね)
前世のコンサルタント時代、荒れ果てた教育現場で何度も見てきた光景だった。
自分を傷つけまいと、先に相手を威嚇して遠ざける。信じて裏切られる恐怖に耐えられない子どもが取る、最も古典的な防衛反応。
母親を亡くし、多忙な父親に顧みられず、取り入ろうとする大人たちの薄っぺらな笑いと陰口に晒され続けてきたのだろう。彼の荒れようは、救いを求める悲鳴そのものだった。
ふと視線を感じて振り返ると、半開きになった扉の隙間から、テオドールがこちらを覗き込んでいた。 怒りでも警戒でもない。
信じられないものを見るような、動揺と困惑に染まった瞳が、まっすぐに私を捉えていた。
目が合うと、バタンと激しい音を立てて扉が閉ざされた。内側から鍵の掛かる重い金属音が響く。
「……すまなかった」
廊下の陰から、クラウス公爵が姿を現した。 息子の暴挙をすべて見ていたのだろう。彫刻のような顔には、苦渋と疲労の色が濃くにじんでいた。
「あの子は……もう誰の言葉も聞かない。私の顔を見れば逃げ出し、他人が近づけば今日のように暴れる。君に怪我はなかったか」
「平気でございます、閣下。陶器が割れただけで、実害は何もございません」
「だが、ドレスが……」
クラウス公爵の視線が、私の濡れたスカートの裾へと落ちた。 泥の混じった水滴が、薄い生地を汚している。
彼は眉根を険しく寄せると、自らの肩にかかる重厚な軍用外套の留め具に手をかけた。漆黒の毛皮がついた外套を脱ぎ、私の肩へ掛けようと――その腕が、中空でピタリと静止した。
冷徹な軍司令官の顔に、わずかな躊躇がよぎる。
契約上の妻とはいえ、初対面の令嬢にいきなり男物の外套を羽織らせることが、無礼に当たるのではないかと考えたのだろう。
不器用な逡巡の末、彼は伸ばしかけた手を所在なげに引き戻し、再び無言で拳を握りしめた。
「……着替えを用意させよう。まずは休んでくれ」
「お心遣い、感謝いたします」
私はそのぎこちない手の動きを見届けながら、そっと会釈を返した。 感情表現は壊滅的に下手だが、この男の根底にあるのは冷酷さではなく、不器用すぎる生真面目さだ。
この親子に必要なのは、嘘や甘言ではない。筋の通った誠実さと、決して揺らがない防波堤なのだと、私は胸の内で覚悟を定めた。
◇
同じ頃、国境を隔てたアルスター王国の王宮中央執務室では、怒号が飛び交っていた。
「どういうことだ! なぜ国庫から金が出せない!?」
豪奢な執務机を激しく叩き、エドワードが顔を真っ赤にして主計官を怒鳴りつけていた。 その足元には、決済印のない請求書や陳情書の束が無造作に散らばっている。
主計官は青ざめながらも、頑として首を横に振った。
「で、殿下……! 規定により、貴族院への支出申請には国政補佐官の公印と連署が必須でございます! エレノア様の印のない書類では、金庫の鍵を開けることすら法的に不可能なのです!」
「チッ……! あの融通の利かん小娘めが……!」
エドワードは忌々しそうに舌打ちし、乱暴に椅子を蹴り飛ばした。
これまで自分が無造作にサインするだけで金が動いていたのは、すべてエレノアが裏で完璧な法的根拠と連署を揃えていたからだという事実に、彼はまだ気づいていなかった。




