第1話「御意、喜んで」
「エレノア・クロムウェル! 貴様の悪辣な本性には、もう我慢がならん!」
王宮の大広間に、エドワード王太子の金切り声が響き渡った。
豪奢な大理石の床を踏み鳴らし、彼は自らの胸元に縋りつく小柄な少女――マリアンヌ・レヴィを片腕で抱き寄せている。
「昨日、マリアンヌが中央階段から転落したのは貴様が突き落としたからだな! か弱き者を妬み、あまつさえ危害を加えるなど言語道断! もはや王太子妃の器ではない!」
マリアンヌはエドワードの胸板にすり寄り、涙で濡れた瞳を震わせてみせる。 包帯の巻かれた彼女の右足首には、腫れひとつ見当たらない。
「エドワード様、もうおやめになって……。わたくしさえ我慢すれば、エレノア様はお怒りにならないはずですもの……」
「マリアンヌ、お前が怯えることはない。俺が貴様を許さん!」
エドワードは昂然と胸を張り、周囲を取り囲む近衛や貴族たちを睥睨した。
その背後に控える若手の文官たちが、嘲りを隠そうともせずに私へ冷ややかな視線を投げかけている。
私は、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、静かに礼をとった。 動悸すらしない。怒りも、悲嘆も、欠片ほども湧いてこなかった。
湧き上がったのは、胸の奥底から込み上げる涼やかな確信だけだ。
(ああ――やっと、辞められる)
三年前、傾きかけた伯爵家を支えるため、私はこの男の婚約者兼「教育係」を引き受けた。 過労死した前世の記憶を思い出したのは、まさにその激務の最中だった。
朝駆けから深夜まで、遊興に耽る王太子の代わりに積まれた未決書類を代決し、各部署の予算折衝をまとめ、貴族院への根回しを完璧に整える日々。
礼儀作法も、経済の基礎も、何度教え込もうとしても馬耳東風。 そのあげくが、この絵に描いたような冤罪劇である。
「聞いておるのか、エレノア!」 怒号を飛ばすエドワードに対し、私は微塵の乱れもない標準敬語で応じた。
「はい、殿下。しっかりと拝聴しております」
「ふん、罪を認める気になったか。ならば申し渡す! 貴様との婚約を破棄し、今この瞬間をもってアルスター王国からの国外追放を命じる!」
大広間が息を呑む静寂に包まれた。 王太子の側近文官たちが、勝ち誇った笑みを浮かべて頷き合っている。
彼らは私が執務室から消えれば、自分たちの地位が安泰になるとでも思っているのだろう。
私は一切の躊躇なく、懐から革表紙の書類挟みを取り出した。 そこから、あらかじめ用意しておいた一枚の上質紙を抜き取る。
「殿下。仰せの通り、婚約の破棄ならびに国外退去の処分、謹んでお受けいたします」
「……あ?」
エドワードが拍子抜けしたような声を漏らし、間抜けに目を丸くした。 泣き崩れ、許しを乞う姿を期待していたのだろう。
「つきましては、法的な手続きを完了させる必要がございます。こちらは貴族院の規定書式に基づきます『有責婚約破棄に伴う誓約解除承諾書』、ならびに『国政補佐官引継完了承諾書』でございます」
私は淀みない所作で歩み寄り、呆然とするエドワードの従僕へ書類を差し出した。
「王族の一方的な口頭追放は、貴族院法規において重大な契約不履行となります。ですが、わたくしがこの場で即座に承諾の署名捺印を行えば、双方合意のうえでの合法的離脱が成立いたします。殿下の直筆署名と、殿下の佩く王家の指輪による捺印をいただけますでしょうか」
「な、なんだと……? 貴様、なぜそのような書類を……」
「殿下がいついかなるご決断を下されても、国政に滞りを生じさせぬよう準備を整えておくのが補佐官の務めですので。どうぞ、ペンをお取りください」
私は胸元からインク壺と羽根ペンを取り出し、流れるような動作で書類に自らの署名を走らせた。 エレノア・クロムウェル。
インクが乾くのを待つ間、私はエドワードを真っ直ぐに見据える。
「殿下、サインを。それとも、先ほどのお言葉は偽りであられたと、貴族院および列席の皆様の前で前言撤回なさいますか?」
「だ、誰が撤回などするものか! よこせ!」
見栄と苛立ちに顔を真っ赤にしたエドワードは、奪い取るようにペンを握ると、乱暴にサインを叩きつけ、印章指輪を押し当てた。 法的に有効な、公的連署の完成である。
「これで貴様はただの罪人だ! 衛兵、この女を叩き出せ!」
エドワードが叫ぶと、側近の文官が進み出て、いやらしい笑みを浮かべて私を遮った。
「お待ちを、殿下。この元令嬢が王宮の機密文書や金品を盗み出していないとも限りません。門をくぐる前に、私物の徹底的な捜索と、別室での身体検査を行うべきかと存じます」
卑劣な侮辱に、広間の空気がわずかにざわめいた。 だが、私は眉ひとつ動かさず、身に纏う薄手の外套を軽く払って見せた。
「その必要はございません。わたくしが今身に着けているのは、生家のクロムウェル伯爵家から持参した私物のみ。執務室の机には、過去三年分の決済目録、各部署への引継書、保管庫の鍵すべてを番号順に揃えて施錠し、書記官室へ正鍵を預けてございます」
私は袖口をめくり、身の潔白を示すように両手を広げた。
「どうしても検査とおっしゃるなら、帝国との犯罪人引き渡し条約および貴族院監察法に基づき、正式な監察官の立ち会いと記録書の作成を要求いたしますが……手続きに半日は要します。殿下、今すぐわたくしを追放なさりたいのではなくて?」
「ぐっ……」
文官が言葉を詰まらせ、エドワードは忌々しそうに手を振った。
「ええい、目障りだ! そんな小娘の身ぐるみなどどうでもいい! とっとと消え失せろ!」
「御意。長きにわたり、お世話になりました」
私は完璧なカーテシーを捧げ、誰よりも優雅に踵を返した。 大広間を出るまでに要した時間は、わずか十分足らず。 背後で、エドワードの高笑いが木霊した。
「ははは! ようやくあの煩わしい小言女から解放されたぞ! 今夜は宴だ!」
その足元、執務机の上に積み上がったままの膨大な未決書類の山に、彼が気づく気配は微塵もなかった。
◇
王宮の重厚な鉄門をくぐり抜けた瞬間、冷たく澄んだ外気が私の肺を満たした。 見上げる空はどこまでも高く、青い。
(ああ……終わった。本当に、終わったんだわ)
肩に食い込んでいた重石が、跡形もなく消え失せたような解放感。
もう二度と、常識の通じない王太子の癇癪に付き合う必要も、深夜に及ぶ書類仕事で目を充血させる必要もない。
手元には、合法的な国籍離脱の権利を記した承諾書がある。
クロムウェル家にはすでに十分な資産を残してきたし、勘当同然に出ていく手はずも整えてある。どこか辺境の地で、小さな塾でも開いて静かに暮らそうか――。
そう思考を巡らせた、まさにその時だった。
門外の石畳に、黒塗りの重厚な馬車が一台、静かに停まっていた。 車輪には金泥で精緻な紋章が刻まれている。 双頭の黒鷲――隣国ライゼンハイト帝国の国章だ。
馬車の前に、長身の男が一人、背筋を微塵も崩さずに佇んでいた。
漆黒の軍礼服に身を包み、帯剣したその姿からは、周囲の空気を凍りつかせるほどの威圧感が放たれている。
彫刻のように整った冷徹な顔立ち。氷を溶かし込んだような灰青色の瞳が、門を出てきた私を逃さず捉えた。
クラウス・フォン・ライゼンハイト公爵。 帝国の北方方面軍総司令官であり、通商条約締結のために特使として王国に滞在しているはずの、大陸随一の実力者。
なぜ、このような場所に彼がいるのか。 私が足を止め、身分差を弁えた完璧な礼をとろうとした瞬間、クラウス公爵が自ら大股で歩み寄ってきた。
「エレノア・クロムウェル嬢だな」
低く、深く響く重厚な声。感情の起伏を一切感じさせない、武人特有の簡潔な響きだった。
「はい、閣下。アルスター王国の元臣民、エレノア・クロムウェルにございます」
「単刀直入に用件を告げる。私の妻として、ライゼンハイト公爵家に来てもらいたい」
……はい?
私は内心の動揺を瞬時に押し殺し、表情を平然と保ったまま彼を見上げた。 追放宣告を受けてから、まだ十五分も経っていない。
事態の推移が突飛すぎる。だが、この男の目に狂気や衝動の色は一切ない。完全に計算された、冷徹な理性の光だけが宿っていた。
「突然の無礼は承知している。だが、時間がない」 クラウス公爵は懐から、一通の羊皮紙を取り出した。
そこにはすでに、帝国皇帝の直筆署名と、公爵家の蝋封が押されている。
「通商交渉の過程で、この王国の政務が誰の頭脳によって回されていたか、帝国情報部はすべて把握している。君の実務手腕と、教育者としての並外れた才覚を高く評価している」
「恐れ入ります。ですが、妻として、とはどういうことでしょうか。公爵閣下ほどの御方が、他国の元追放令嬢を娶る理由がございますまい」
「名目上の、形だけの契約再婚だ」
クラウス公爵は淡々と、しかし一点の曇りもない事実として告げた。
「私には八歳になる嫡男テオドールがいる。先の妻を亡くして以来、荒れて家庭教師をことごとく追い出し、手がつけられん。私自身も軍務で領地を空けることが多く、家庭は崩壊寸前だ。息子を導き、公爵領の政務を補佐できる、真に有能な人間を求めている」
なるほど、と私は頭の中で算盤を弾く。 彼は最初から、私という「人材」を狙い撃ちにして門前で待ち構えていたのだ。
王太子が私を排除する瞬間を見計らい、合法的に刈り取るために。
「契約期間はテオドールが成人するまでの十年間。対外的な公爵夫人の務めと、息子の教育、領政の代決を委ねたい。君の身の安全は、帝国の全軍をもって保証する」
クラウス公爵が、羊皮紙を私の方へと差し出した。 私の視線は、契約条項の末尾に記された一文に吸い寄せられた。
『――報酬:執務外における領内での完全な自由の付与、ならびに契約満了時の莫大な生活年金の支給』
完全な自由。 誰の理不尽な命令にも縛られず、尊厳を脅かされることもない、確固たる生活基盤。
「悪くない条件ですわね」 思わず、私の唇から乾いた呟きが漏れた。
「受けてくれるか」
「喜んで、閣下。お引き受けいたします」
私が即答すると、クラウス公爵の眉がわずかに動いた。驚いたというよりは、こちらの決断の早さを測るような眼差しだった。
「話が早くて助かる。乗ってくれ」
クラウス公爵が自ら馬車の扉を開き、私を促す。 乗り込もうとステップに足をかけた私の横で、彼の手が差し伸べられた。 無骨で、剣蛸の残る骨張った硬い手。
その手が、礼節を尽くした目礼とともに差し出されている。上位の公爵でありながら、一介の追放令嬢に対して向けられる、一切の侮りのない敬意。
私はその手に一瞬だけ視線を留め、小さく頭を下げて馬車へと乗り込んだ。
扉が重々しい音を立てて閉まる。 車輪が軋みを上げ、乾いた石畳を蹴って加速していく。
窓の外を流れるアルスターの王宮が、みるみる小さくなっていく。 私はいっそ清々しい気持ちで、二度と戻ることのないその古びた城影を見送った。




