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三年尽くして冤罪で捨てたくせに、今さら謝られても。 あれ? もしかして私がいなくなってお困りですか?  作者: 月雅


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第3話「乾いたインク」



(――このままでは、城全体の呼吸が止まってしまう)


 公爵城に身を落ち着けて二日目の朝、私は冷え切った廊下に立ち、静かに息を吸い込んだ。


 館を包む空気は、外の寒風以上に重く沈んでいる。

 三階の東翼、テオドールの部屋の前には、昨晩に続いて手つかずの朝食盆が置かれていた。銀の覆いを取れば、冷えて固まったオートミールと乾いたパンが、昨日の配置のまま残されている。侍女たちは扉の向こうからの怒声に怯え、息を潜めて足早に通り過ぎるばかりだった。


 一方、階下の主執務室に籠もりきりのクラウス公爵もまた、限界を迎えているのは明らかだった。

 北方防衛軍の補給線管理に加えて、本領の春季税務監査。特使としての王国出張から戻ったばかりの身体に、数週間分の決裁書類が容赦なく降りかかっている。朝餉の席に現れた彼の灰青色の瞳には、濃い隈と隠しきれない過労の色が刻まれていた。


 親子そろって、他者を頼る術を知らないのだ。  傷つき、疲れ果て、それでも頑なに殻の内側へ閉じこもり、独りで擦り切れていく。


(なら、強引にこじ開ける必要はないわ。外側から整えていくだけ)


 私は腕まくりをし、準備を始めた。


 最初に向かったのは、テオドールの部屋の前だった。

 私は侍従に頼んで小さな木製の作業台と丸椅子を廊下に運び込ませると、昨日の嵐の中で見繕っておいた一冊の書物を広げた。

 表紙の革が擦り切れ、背表紙の綴じ糸が緩んだ古い『北方高山植物図鑑』。

 昨日、少年の足元に落ちていた際、見返しの隅に前公爵夫人の名が優美な金文字で記されているのを確認していた。彼が荒れる部屋の中で、これだけは踏みつけないようベッド脇のチェストの上に大切に置いてあった私物だ。


 私は扉をノックすることすらしない。  ただ、廊下に腰を下ろし、細い筆と植物性の糊、極薄の和紙を取り出して、淡々と本の補修作業を始めた。


 破れかけたページの縁に、薄く糊を伸ばす。  乾いた紙が水分を吸い、ピンと張っていく微かな音だけが、静かな廊下に規則正しく響く。


 十分ほどが過ぎた頃、扉の奥で気配が動いた。  警戒に満ちた足音が、慎重に内側から扉へと近づいてくる。  やがて、わずか数寸ほど、軋んだ音を立てて扉が開いた。


「……何をしてるんだ」


 隙間から覗くテオドールの瞳は、相変わらず針のように尖っていた。だが、その視線は私の顔ではなく、私の手元にある古びた図鑑に釘付けになっていた。


「おはようございます、テオドール様。本の背綴じが傷んでおりましたので、補強をしております」


 私は作業の手を止めず、視線も本に落としたまま淡々と返した。


「勝手に触るな! それは母上の……!」


「ええ。とても大切に扱われてきた本であることが、ページの擦れ具合からよく分かります。ですが、このままではあと数回開いただけで、夾竹桃の図版が完全に脱落してしまいます。大切な記録を失うのは損失ですから、最低限の処置を施しているところです」


「あっ……!」


 テオドールは思わずといった様子で、半身を扉の外へと乗り出した。

 私がピンセットの先で、破れた繊維を一本ずつ噛み合わせるようにして整えていく手元を、息を詰めて凝視している。

 取り入ろうとする媚びも、過剰な同情もない。ただ、そこにある傷ついた本への正確で敬意ある処置。

 少年は侮辱されたと憤ることも忘れ、母の形見が手際よく蘇っていく光景に、完全に目を奪われていた。


「糊が完全に乾燥するまで、半日ほどこのまま圧をかけて平らに保ちます。修復が終わりましたら、元の場所へお返しいたしますね」


 私がそう告げて静かに顔を上げると、テオドールはハッと我に返ったように身体を強張らせた。  だが、今度は花瓶を投げることも、罵声を浴びせることもなかった。

 唇をぎゅっと引き結び、信じられないものを見るような複雑な視線を私に投げかけたまま、ゆっくりと、しかし音を立てずに扉を閉めた。

 内側の鍵は、もうかけられなかった。


◇


 午後、私は主執務室へと足を運んだ。  重厚な扉を開けると、室内には乾いたインクと羊皮紙の匂いが濃密に立ち込めていた。


「……エレノアか。何か用か」


 机の上にそびえ立つ三つの書類の山越しに、クラウス公爵が眉間を指先で押さえながら顔を上げた。

 机上は凄惨な戦場そのものだった。帝国軍の輜重台帳と、領内鉱山の採掘権更新願、さらには春の融雪期に伴う街道修繕の予算書が、分類される間もなく無秩序に重なり合っている。


「閣下のお仕事を拝見に参りました。契約に基づき、領政の補佐を開始いたします」


「気持ちはありがたいが、ここは帝国の軍政と機密に関わる。他国の……いや、外部の者に軽々しく触らせるわけにはいかん」


 クラウス公爵の眼差しに、冷徹な執政官としての警戒心が宿る。  当然の反応だ。どれほど皇帝の特認があるとはいえ、私は昨日今日やってきた隣国の元令嬢にすぎない。


「では、書類の内容を見る必要のない作業だけをお手伝いいたします。機密事項の閲覧は一切いたしません」


 私はクラウス公爵の返答を待たず、机の端に歩み寄った。  両袖をカフスで留め、素早く書類の束へと手を伸ばす。


「なっ……何を」


「閣下、右の山はすべて赤色の封蝋が押された北方防衛卿宛ての急電、中央は青色の青銅印が押された領内代官からの定例報告、左は黄色の上質紙で統一された民間の請願書でございます。内容を精読するまでもなく、外装の様式だけで優先順位の峻別が可能です」


 私の指先は、まるで熟練の職人が織物を捌くように淀みなく動いた。

 前世の組織改革の現場で培った動線管理と、アルスター王宮のブラックな執務室で三年間にわたり毎日数百枚の代決をこなしてきた経験が、指先に完全に染み付いている。


「至急の軍務指示書は手元へ。定例報告は日付順に並べ替え、未決と既決を色分けした紐で結束。請願書は金額の桁数別に三段階へ分類いたしました。これで、閣下が『今この瞬間に目を通さねばならない書類』は、全体の五分の一まで圧縮されます」


 ほんの十五分ほどの間に、机を埋め尽くしていた混沌とした紙の山が、整然とした四つの区画へと姿を変えていた。  クラウス公爵はペンを握ったまま、硬直していた。

 書類の山から解放され、広々とした執務机の木肌が露出している。


「……君は、いったい」


「アルスター王国において、王太子の決済印が押される書類の九割は、わたくしが事前にこの形式へ整えておりました。書類仕事の要諦は、決裁者に『選ぶ手間』をかけさせないことにございます」


 私が淡然と告げると、クラウス公爵は深く息を呑んだ。

 書類を他人に触られたことへの警戒感は、目の前で起きたあまりに合理的で完璧な作業手腕の前に、完全に吹き飛んでいた。

 彼は手元の軍務書類を一枚めくり、信じられないほど滑らかにペン先を走らせた。

 迷う余地が削ぎ落とされたことで、彼の持つ本来の卓越した決裁速度が一気に引き出されていく。


「……驚いたな。丸二日かかると見込んでいた案件が、今日中に片付く」


「お役に立てたのであれば光栄です。お茶を淹れ直してまいります」


 私が一礼して執務室を退室する背中に、クラウス公爵の視線がずっと注がれていた。

 それは単なる有能な事務員を見る目ではなく、己の理解を超えた存在に対する、底知れない動揺と熱を孕んだ眼差しだった。


◇


 深夜、静まり返った公爵城の執務室で、私は一人、翌日の領内物流データの整理を行っていた。

 城内はすでに寝静まり、壁の燭台がチリチリと微かな油の爆ぜる音を立てている。


 ふいに、執務室の重い扉が静かに開いた。

 見上げると、上着を脱いでシャツの袖をまくったクラウス公爵が立っていた。その手には、湯気を立てる二つの陶器のカップが乗った小さな銀盆がある。


「まだ起きていたのか」


「はい、明日の鉱山輸送の数字を照合しておりました。……閣下自ら、お茶を?」


「従僕たちは休ませた。私が淹れたものだ。口に合うかは分からんが」


 クラウス公爵は机の端に盆を置き、湯気を立てるカップのひとつを私の手元へ差し出した。  ベルガモットの香りが、夜の乾いた空気にふわりと広がる。


「無理をさせてすまない」


 手渡される瞬間、彼の低く掠れた声が耳朶を打った。  受け取ろうとした私の指先が、カップの持ち手の上で、彼の節くれだった硬い指と微かに触れ合う。


 ――ピクリと、互いの動きが同時に止まった。


 指先から伝わってくる、熱い茶の温度と、武人特有の皮膚の熱さ。  クラウス公爵は息を呑み、視線を私の手元から微動だにさせない。

 私もまた、動悸の理由を頭で処理しきれないまま、その触れ合った指先を見つめていた。

 ほんの数秒の沈黙が、永遠のように引き延ばされる。


「……冷めないうちに飲んでくれ」


 クラウス公爵は掠れた声でそう告げると、硬直を解き、逃げるように自らのカップを取って執務机の反対側へと歩を進めた。

 椅子に腰を下ろすことなく、彼は立ったままカップを傾け、机越しに私の背中を見つめていた。

 その瞳の奥には、困惑と、これまで誰にも向けたことのない複雑な光熱が静かに揺らめいていた。


◇


 その頃、アルスター王国の王宮では、怒気を含んだ乾いた紙の破裂音が響いていた。


「隣国の商人団からだと!? 関税の決済が三日遅れているから通商路を封鎖するだと!? 無礼な連中めが!」


 エドワード王太子は、手渡された抗議文書を床へ激しく叩きつけた。  これまで一度として滞ることのなかった定例決済がなぜ止まるのか、彼には理解すらできていない。

 散らばった書類の隙間から、彼が無視し続けていた膨大な滞納請求書が、不気味に白く口を開けていた。

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