第四枝章 共に過ごす正月
一月一日。
朝。
妾にとって、主様と共に過ごす正月は、これが初めてである。
もっとも。
朝そのものは、いつもとさほど変わらなかった。
「タマちゃん、お餅いくつ?」
「二つ、いただきとうございます」
「二個ね」
台所から主様の声が返ってくる。
妾は居間の卓の前に座り、並べられた料理を眺めていた。
黒豆。
かまぼこ。
伊達巻。
栗きんとん。
昨夜、主様と一緒に用意したものもあれば、買ってきたものもある。
それでも、いつもの朝餉とは少し違って見えた。
やがて、主様が小鍋と二つの椀を運んでこられた。
卓の上へ鍋敷きを置き、小鍋を載せる。
蓋を開けると、湯気がふわりと上がった。
「主様」
「んー?」
「人の正月とは、甘いものが多いのでございますね」
主様が、卓の上へ並んだ料理を見る。
「そうかな」
「この黒き豆も甘うございます」
「黒豆ね」
「こちらも」
「栗きんとん」
「こちらも」
「伊達巻」
主様が笑われた。
「言われてみれば、甘いの多いね」
「やはり」
妾は納得する。
昨今の正月とは、甘いものを食す日でもあるらしい。
おそらく。
その間に、主様が小鍋から雑煮をよそってくださった。
「はい」
差し出された椀から、白い湯気が立つ。
餅と野菜の入った、澄んだ汁。
妾は箸を取った。
「これが、ぞうに」
「うん」
「地方によって異なるのでございましたね」
「そうそう。うちの実家だとこんな感じだった」
主様の故郷の味。
そう聞けば、少しだけ姿勢が正される。
一口いただく。
温かい。
「……美味しゅうございます」
「よかった」
主様も食べ始める。
外は静かだった。
数日前の大雪はだいぶ片づけられていたが、日陰や屋根にはまだ白いものが残っている。
新しい年。
そう言われても、空が急に変わるわけではない。
家が変わるわけでもない。
主様も。
妾も。
昨日と同じ場所にいる。
されど。
悪くない。
むしろ。
それがよい。
*
「初詣、行く?」
朝餉を終え、片づけも済んだ頃。
主様がそうおっしゃった。
「初詣でございますか」
「うん。せっかくだし」
「では、お供いたします」
初詣についてなら、知っている。
年の初めに人々が社寺へ参る習わしであることは、テレビやパソコンで幾度か見ていたし、外で耳にする人の話にも出てきた。
賽銭を入れ。
頭を下げ。
手を打ち。
新しい年の無事や願いを託す。
作法も意味も、知っている。
されど。
こうして主様と並んで参るとなると、少し勝手が違う。
「主様も、何かお願いなさるのでございますか?」
「まあ、そんな感じかな」
妾は少し考えた。
主様が、神へ願う。
何故か。
少し妙な気がした。
何が妙なのかと問われれば、上手く答えられぬが。
外へ出る支度を整える。
妾は人の姿を取り、上着を羽織った。
猫の姿でも参れぬわけではないが、正月の人混みを主様と並んで歩くなら、こちらの方が都合がよい。
主様も上着を羽織られ、妾はそのお隣で家を出た。
*
近所の神社は、それなりに賑わっていた。
大きな社ではない。
それでも元日の今日は、鳥居の外まで人が並んでいる。
家族連れも。
老人も。
若い男女も。
寒そうに身を縮めながら、皆おとなしく列へ並んでいた。
「すごいね」
「人が多うございますね」
「毎年こんなもんじゃない?」
主様は何でもないように列の最後尾につかれた。
妾も、その隣へ並ぶ。
主様のお隣を、そのまま歩ける。
それも悪くない。
列は、少しずつ進んでいった。
境内には、人ならぬ気配もいくつかあった。
古い木の陰。
屋根の上。
石灯籠の裏。
このような場所であれば、さほど珍しいことでもない。
こちらを見て、すぐに目を逸らすものもいる。
妾は気にしない。
害意がなければ、それでよい。
しばらくして、拝殿が近づいた。
「やり方分かる?」
「作法は存じております」
「やったことは?」
「こうして参ることには、あまり慣れておりません」
「あ、そっか」
主様が少し笑われる。
「じゃあ、前の人見ながらやろっか」
「はい」
前に並ぶ者たちの作法を確かめる。
作法を知っていることと、主様と並んで実際に行うことは、やはり少し違う。
やがて、妾たちの番となった。
前の者が離れたのを待ち、主様と並んで拝殿の前へ進む。
主様が賽銭を入れられる。
妾も倣う。
二礼。
二拍。
主様が目を閉じられた。
妾も正面を向いたまま、わずかに頭を垂れる。
さて。
何を願えばよいものか。
そう考えかけた、その時。
拝殿の奥から、一つの気配がこちらへ向いた。
妾は顔を上げない。
ただ、意識だけをそちらへ向ける。
いる。
この社に根づいている何か。
神と呼ぶべきものなのか。
土地に宿る古いものなのか。
妾にも判じきれぬ。
ただ、ここで人々の祈りを受けている側の存在なのであろう。
その気配が、主様へ向いている。
しばらく。
じっと。
やがて、そこから困惑にも似たものが伝わってきた。
妾は、わずかに眉を寄せる。
何じゃ。
気配が妾へ向く。
主様へ戻る。
再び、妾へ向いた。
声ではなかった。
されど、意味だけは妙にはっきり伝わってきた。
――いや。
――その願いは、ちょっと。
妾は瞬いた。
何を願われた。
主様は。
何を願われたのじゃ。
拝殿の奥へ、意識を向ける。
向こうも困っている。
何やら、大層困っている。
そして今度は、妾へ。
――そちらのことを、こちらへ頼まれても。
そのような意味まで返ってきた。
妾は眉を寄せた。
妾のことか。
その時。
「よし」
隣で主様が目を開けられた。
妾も意識を拝殿へ戻す。
一礼。
どうやら、これでよいらしい。
「行こっか」
「はい」
人の流れに沿って拝殿の前を離れる。
少し進んだところで、妾は一度だけ振り返った。
社の奥。
先ほどの存在が、まだこちらを見ている。
妾と目が合う。
そして。
何故か。
深く頷かれた。
妾は、よく分からぬまま小さく頷き返した。
*
「主様」
「ん?」
参道脇の、人の流れから外れたところまで来て、妾は尋ねた。
「先ほどは、何をお願いなさったのでございますか?」
「さっき?」
「はい。お参りの折に」
「ああ」
主様は少し考えられた。
金銀。
仕事。
健康。
そのようなことであろうか。
「今年もタマちゃんと元気に暮らせますように、かな」
足が止まった。
「……はい?」
主様も足を止められる。
「どうしたの?」
「いえ」
今。
何と。
「もう一度、お聞かせくださいますか」
「今年もタマちゃんと元気に暮らせますように」
「…………」
「タマちゃん?」
なるほど。
妾は社の方を振り返った。
人の間から、拝殿が見える。
そして何となく、先ほどの存在がまだこちらを見ているような気がした。
――その願いは、ちょっと。
左様か。
そういうことであったか。
主様と妾が、今年も共に暮らせるように。
そのことをこの社へ頼まれても、向こうとしては困るのであろう。
すると遠くから。
――そなたがやれ。
そのようなものが返ってきた気がした。
妾は黙る。
そう言われれば、否定はできぬ。
「タマちゃん?」
「……何でもございません」
「そう?」
「はい」
妾は主様の隣へ戻る。
ほんの少しだけ、先ほどより近くへ。
「甘酒あるみたいだけど、飲む?」
「いただきとうございます」
「じゃあ行こう」
「はい」
主様が、甘酒を出している方へ歩き出される。
妾も、その隣を歩く。
主様は、先ほどのことなど何も知らない。
いつも通りである。
今年も。
主様と。
元気に暮らす。
左様か。
それが、主様の願いであったか。
ならば、どこぞの神へ任せきりにするわけにもいくまい。
妾も、力を尽くさねばなるまい。
いただいた甘酒は温かかった。
飲み終える頃には、指先の冷えも少し和らいでいた。
主様と並んで、神社をあとにする。
*
家へ戻ったあと。
「はい」
主様が、小さな袋を差し出された。
赤い模様の入った紙の袋である。
「……これは?」
「お年玉」
妾は袋を見る。
「妾にもくださるのでございますか?」
「そう」
「ですが主様。妾は子供ではございません」
「まあ、お正月だし。タマちゃんにもあげたかったから」
そういうものなのであろうか。
お年玉なら知っている。
大人が子供へ渡すものだということも。
だからこそ、少々おかしい。
「いらない?」
妾は即座に袋を受け取った。
「では、いただきます」
「早いね」
「主様が妾にくださるものを、断る理由はございません」
「そっか」
主様が笑われる。
妾は袋を両手で持つ。
中身よりも、今は袋の方が気になった。
折らぬよう、そっと指先で支える。
「使っていいからね」
「はい」
返事だけする。
使うかどうかは、また別の話である。
「タマちゃん?」
「何でもございません」
妾は袋を大切に影の中へとしまった。
窓の外。
新しい年の空は、昨日までと変わらず広がっている。
雪が少し残っている。
家の中は暖かい。
主様がおられる。
昨日までと、そう大きくは変わらぬ。
ふと、社でのことを思い出す。
妾は結局、何も願っておらぬ。
何を願えばよいか決める前に、あれこれと気を取られてしまったからである。
されど。
今ならば、もう決まっている。
今年も。
主様とここで暮らす。
主様がお健やかで。
妾も、そのお傍にいる。
それでよい。
それが、主様の願いでもあるのなら。
妾にとっても。
悪くない年になりそうであった。




