第9話:政界からの刺客
「真相を確かめに来た。営業許可を取り消す」泥川駅のホームに降り立った、黒塗りの高級車と政界の死神・鷹司政務次官。国家の権力が、ついに小さなボロ私鉄を圧し潰しにかかる!
「大変です、宗次さん!! 本当に、本当に今度こそ泥川電鉄は終わりかもしれません……っ!!」
若き社長の千代ちゃんが、これまでに見たこともないほど顔を真っ青に硬直させ、涙目で事務所に駆け込んできた。
その小さな手はガタガタと激しく震えており、着物の袖が擦れる音すら部屋中に響くほどだった。
彼女が握りしめているのは、どこで手に入れたのか、政府の公印が押された「緊急査察通告書」の写しである。
「どうしたんだい、千代ちゃん。そんなに慌てて、また扉を壊しそうな勢いじゃないか。ほら、深呼吸をしてごらん」
私は自作の木製ベンチに腰掛けたまま、いつもと変わらないのんびりとした調子で声をかけた。
手元にある鉄瓶からは、シュンシュンと心地よい湯気が立ち上っている。
「深呼吸なんてしていられませんわ! 泥川駅に……いま、政府の『鉄道省』の、ものすごく偉くて恐ろしい人たちが大勢到着しました! なんでも、官営鉄道の馬場局長が『泥川電鉄は国に無許可で勝手な街を作り、無秩序な運行をして国家の交通網を混乱させている危険な業者だ! 直ちに営業を停止させるべきだ!』って、政府の最高幹部たちに嘘八百の密告をしたみたいなんです……!」
千代ちゃんは机にすがりつき、今にも泣き出しそうな声を上げた。
彼女の言う通り、普段はのどかな警笛の音と鳥のさえずりしか響かない泥川駅の駅前広場には、明らかに場違いな冷たい空気が漂っていた。
泥川電鉄が敷設したばかりの砂利道の前に、漆黒に磨き上げられた高級な黒塗りの自動車が数台、威圧的に横付けされていた。
ドアが開くと、そこから降り立ってきたのは、仕立ての良い黒い三つ揃えのスーツに身を包んだ、厳格な表情を浮かべた政府の高官たち、そして査察団の面々だった。
彼らは手にした書類鞄を固く握りしめ、泥川駅の素朴な木造改札口を検閲官のような鋭い目で見つめている。
その査察団の先頭に立ち、周囲に圧倒的な威圧感を放っている一人の男がいた。
政界や官僚たちの間で「鉄の監察官」と恐れられ、不正や規律違反を絶対に許さないことで有名な、政府鉄道省の政務次官・鷹司であった。
彼の眼鏡の奥にある鋭い眼光は、まるで獲物を狙う鷹のように冷徹で、一分の隙も崩さない。
彼の仕立ての良い高級な靴が泥川の土を踏みしめるたび、周囲の空気がピリピリと張り詰めるのがわかる。
「……ふん。ここが、噂の泥川電鉄か。実に貧相な駅舎だな」
鷹司政務次官は、白手袋をはめた手で駅の木製の柱をなぞり、冷ややかに言い放った。
その指先にわずかについた木屑を忌々しそうに払う。
彼の背後には、彼らの国家権力をカサに着て、ニヤニヤと下品な勝ち誇った笑みを浮かべている馬場局長の息のかかった官営鉄道の部下たちも何人か控えていた。
彼らは「これで泥川電鉄も終わりだ」と、小声で囁き合っている。
鷹司を先頭にした査察団の一行は、ドタドタと音を立てて泥川電鉄のささやかな事務所へと踏み込んできた。
狭い室内が、黒いスーツの男たちで一気に埋め尽くされる。
「君が、ここの運行責任者であり、一連の奇妙な開発を主導しているという黒田か」
鷹司は事務所に足を踏み入れると、机を挟んで私の前に立ち、その鋭い眼光で私を真っ向から睨みつけた。
その声は低く、重く、部屋中の古い木製の壁を振動させるかのようだった。
常人であれば、その視線だけで気圧されて平伏してしまうほどの凄みがある。
「は、はい! 私が社長の黒田千代で、こちらが……っ」
千代ちゃんは恐怖のあまり声が裏返り、私の後ろへ隠れるようにして身をすくませた。
私の背中を掴む彼女の小さな手が、小刻みに震えているのが伝わってくる。
一方、事務所の隅で大人しく控えていた雑用係の霧島は、かつて官営鉄道の隠密(刺客)だった頃の鋭い目付きを完全に失っていなかった。
彼は気配を消したまま、いつでも動けるように腰の短刀(元隠密の悲しい癖である)の柄へ、じわじわと手をやりかけていた。
(まずいな……。あの男は中央政界の本物の大物、鷹司政務次官だ。官営鉄道の馬場局長がどれほど悪知恵を働かせようとも民間同士の争いで済んだが、
あの人が一言『営業停止』と書類に公印を押せば、泥川電鉄の線路は明日からすべて封鎖されてしまう。
黒田様がどれほど無敵の天才軍師であろうとも、国家という巨大な権力そのものを力ずくで相手にしては、さすがに分が悪すぎる……っ!)
霧島は最悪の事態を想定し、額から冷たい汗を流しながら、
いざとなれば黒田様と千代社長を逃がすための脱出経路を必死に計算していた。
そんな泥川側の緊張感などどこ吹く風で、政府の高官たちは、威圧的な態度を崩さないまま、冷酷な通告を口にした。
「官営鉄道の上層部から、『泥川電鉄は無許可で沿線の開発を行い、安全基準を無視した危険な運行を続けて交通の安全を脅かしている』との重大な報告を受けてな。我々鉄道省の査察団は、その真相を厳しく確かめに来た。本日の査察の結果次第では……泥川電鉄の営業許可を即座に取り消し、全線運行停止処分とする。言い訳は聞かん」
鷹司の傍らに立つ役人が、仰々しく営業停止処分の警告書面を机の上に突きつけた。
その重苦しい宣告に、千代ちゃんは今にも泣き出しそうになり、
霧島は全身の筋肉を緊張させ、いつでも飛び出せるように爪先に重心を移した。
だが、そんな絶体絶命の張り詰めた空気の中で、私だけは、いつもの気の抜けたような穏やかな笑顔を一切崩さずに、
彼らに向かって深々と頭を下げた。
「やあやあ、これはこれは鉄道省の偉い皆様。都心からの遥々とした長旅、本当にお疲れ様でございました。こんな山奥の小さな駅までお越しいただき、恐縮でございます。どうぞどうぞ、立ち話もなんですし、こちらへお越しください」
私のあまりにも緊張感のない、場違いなほど優しげでのんきな歓迎の言葉に
、鷹司政務次官は一瞬だけ呆気に取られたように眉を動かした。
激怒するか、あるいは怯えて許しを請うてくるかと思っていた相手が、まるでお盆に親戚を迎えるかのような態度を取ってきたのだから無理もない。
「……黒田と言ったな。自分が置かれている状況が分かっているのか? 我々は君たちを罰しに来たのだぞ。命乞いでもするつもりか」
鷹司は不快感を露わにしながら、私を値踏みするように睨み据えた。
「命乞いだなんて、とんでもない。せっかく遠い都心から、私たちの自慢の泥川電鉄を見にわざわざ来てくれた大切なお客様なんですから」
私はニコニコと微笑みながら、彼らを駅のホームへと手真似で案内した。
(東京の官庁街からガタゴトと何時間も汽車に揺られて、こんな何もない田舎までわざわざ査察に来るなんて、本当にお役所仕事というのは大変だなぁ。
きっとお腹もペコペコに空いているだろうし、砂埃で喉もカラカラに違いない。
よし、せっかく泥川まで来てくれたんだから、地元の茶葉で淹れた美味しい温かいお茶と、昨日からみんなで準備していた特製のお弁当で、心を込めておもてなしをしなきゃね!)
私の頭の中は、査察の恐怖など微塵もなく、どうやってこの遠方からのお客さんを労おうかという「おもてなし」の計画でいっぱいだった。
「さあ、皆様。ちょうど査察にぴったりの、私たちの自慢の電車がホームに到着しております。泥川の沿線をじっくりとご覧いただくためにも、まずはこの車両にお乗りください。お話は、中を動かしながらゆっくりと伺いましょう」
私が誇らしげに案内したのは、昨日完成したばかりの、泥川電鉄の新型車両——ではなく、
長年走り込んで塗装が剥げかけた古い木造車両を、さらに優しく手仕事で改造した、泥川電鉄特製の『特別おもてなし車両』だった。
車両の窓からは、うっすらと畳のい草のいい香りが漂ってきている。
鷹司は不機嫌そうに鼻を鳴らし、眼鏡の位置を直した。
「フン、どこまでも往生際の悪い男だな。いいだろう、泥川電鉄のズタズタな運行実態、この私の目で徹底的に暴いてくれる。行くぞ、お前たち」
「はっ!」
政府の高官たちは、泥川電鉄の違法性の証拠を山ほど見つけて完全に潰す気満々で、
その黒い革靴をガタついた木造車両の床へと踏み入れた。
後ろに続く官営鉄道の部下たちは、「これで奴らも一巻の終わりだ」とほくそ笑んでいる。
千代ちゃんは私の袖をぎゅっと引っ張り、
「宗次さん、本当に本当に大丈夫なんですか……っ? あの方たち、本気で泥川電鉄を潰そうとしていますわ!」
と声にもならない掠れた声で必死に訴えていたが、私はただ「大丈夫、大丈夫。
みんなで楽しい電車の旅をしよう」と、彼女の小さな頭を優しく撫でるだけだった。
コンコン、と私が運転士に合図を送ると、ガタゴト、と泥川電鉄の古い駆動音が心地よく響き、
査察団を乗せた列車が、ゆっくりと泥川駅のホームを離れて動き出した。
冷たい風が窓から吹き込む中、事務所の隅でその様子を見送っていた霧島は、小さく呟いた。
(黒田様はあえて敵を自分の土俵である『車内』へと引きずり込んだ……。あの中に、一体どれほどの恐ろしい罠が仕掛けられているというのだ。
国家権力をすら丸ごと呑み込もうとする黒田様の策略、まさに底が知れない……!)
霧島はまたしても、私ののんきな行動を「悪魔的軍師の深謀遠慮」と勘違いし、一人で武者震いをしていた。
列車は速度を上げ、のどかな田んぼの真ん中を突き進んでいく。
それは、泥川電鉄の運命を決める、そして国家の最高権力を巻き込んだ、前代未聞の「最高のおもてなし査察」の幕開けであった。
腰の短刀に手をかける霧島、恐怖に震える千代。だが、普段着の元企画屋が査察団を案内したのは、謎の『特別おもてなし車両』。国家の威信をかけた、前代未聞の「買収(天然)」が幕を開ける。




