第30話 今日も空は青く、お茶がうまい(最終話)
泥川電鉄が巻き起こした「おもてなしの革命」から数年。かつて「ただの荷物」として乗客を運んでいた日本の鉄道は、全国どこへ行っても温かい笑顔と地域特産の美味で溢れていた。
それから、数年の月日が流れた。
あの大騒動の日々がまるで嘘のように、季節は巡り、泥川の街にはまた新しい春が訪れていた。
泥川電鉄がかつて巻き起こした、あの突拍子もない、けれど誰よりも真っ直ぐで純粋な「おもてなしの革命」は、今や全国津々浦々へと完全に波及していた。
かつてはただ「乗客を効率よく、大量に運ぶだけ」の冷機な存在だった日本の鉄道は、泥川電鉄の背中を追うようにして、その姿を180度変えていたのだ。
今では日本全国のどのローカル線へ行っても、駅に降り立てばそこには地元の人々の温かい笑顔と、その土地の特産を活かした美味しい食べ物の香りが溢れていた。
かつて苦痛だった長距離の移動は、心躍る旅の体験そのものへと変わり、日本の鉄道文化は世界中から絶賛される「至高の芸術」へと昇華を遂げていたのである。
そんな日本の鉄道の「聖地」となった泥川駅は、すっかり綺麗にリニューアルされていた。
木造りの情緒を残しながらも、全国、いや世界中から訪れる無数の観光客をスムーズに迎え入れられるようになった広い駅前広場。
しかし、そのどれほど近代的に洗練された空間であっても、広場の一角、最も日当たりの良い特等席にだけは、
数年前と何一つとして変わらない、あのお世辞にも立派とは言えない手作りの古い木製ベンチが、ぽつんと、けれど確かな存在感を放って置かれていた。
ぽかぽかと暖かい春の柔らかな日差しが、広場全体を優しく包み込んでいる。
そこには、数年前のあの日から、何一つとしてその生き方を変えていない一人の老人の姿があった。
相変わらず使い古された割烹着を羽織り、ベンチに深く腰掛けて、のんびりと日向ぼっこをしながら、急須から立ち上るお茶の湯気をふうっと吹き飛ばす私、黒田宗次の姿がそこにあった。
「はぁ〜……。やっぱり、泥川の春の風を感じながら飲むお茶は、五臓六腑にじんわりと染み渡るねぇ。
今日もお茶が、本当に美味い」
私が一人、至福のため息をつきながら湯呑みを眺めていた、その時だった。
「宗次さんっ!! 宗次さん、聞いてくださいっ!!」
綺麗に整備された駅前広場の向こうから、懐かしい、けれどどこか一段と凛とした、とても響く声が聞こえてきた。
すっかり洗練された大人の女性へと美しく成長し、今や日本の鉄道界でその名を知らない者はいないと言われるほどの、泥川電鉄の立派な名物社長となった千代ちゃんが、
かつてと変わらず大量の経営書類の束を胸に抱えながら、それでも昔と全く同じ、弾けるような太陽のような笑顔でこちらに向かって走ってきたのだ。
「宗次さん! 今日も我が社の全国『夜行おやすみ列車』と、採れたての海の幸を車内で味わえる『海鮮バーベキュー列車』、
全線すべての車両で全席満席の超大ヒットを記録しましたよーっ! 海外からの旅行予約も、来年の冬までビッチリ埋まっちゃいました!」
「ははは、それは良かったねぇ、千代ちゃん。いつもみんなのために一生懸命働いてくれて、本当にありがとうねぇ」
千代ちゃんは「もう、宗次さんは相変わらず他人事みたいに言って!」と小さく膨れてみせたが、その表情には会社への、そして仲間たちへの深い愛情と誇りが満ち溢れていた。
すると、彼女のすぐ隣の影から、衣服の擦れる音すら立てずにスッと一人の男が現れた。
泥川電鉄の有能すぎる雑用係(兼・黒田宗次専属護衛長)である霧島だ。
彼は相変わらず、世界の超一流の武術家すら驚愕するであろう目にも留まらぬ神速の手つきで、竹箒を操りながら、駅前広場のチリ一つを見逃さずに綺麗に掃き清めていた。
私の湯呑みのお茶が半分ほど減っているのを確認すると、霧島は箒を持ったまま、もう片方の手で完璧な温度の温かいお湯をスッと注ぎ足して、眼鏡の奥の目を静かに光らせた。
(……フッ、さすがは黒田様だ。
世界中の富豪が泥川の切符を求めて血眼になり、我が社の経済圏が国家の予算を遥かに超えた今であっても、その事実に対して微塵の驕りも、一ミリの執着も見せられない。
この『いつものベンチでお茶を飲む』という、極限の日常を平然と演じ続けることこそが、世界を裏から完全に統べる、絶対者の余裕というもの。
この霧島、生涯をかけて、どこまでもこのお方のグランドデザインに、黒の影として従う所存にございます……!)
霧島が、私が単に難しいことを考えるのが面倒でボケーッとしているだけの姿を、勝手に「世界を統べる絶対者の超然とした佇まい」と脳内で壮大に深読みし、一人で静かに深い畏敬の念に震えているとは、当の私はこれっぽっちも気づいていなかった。
「ははは、霧島もお疲れ様。さ、千代ちゃんもそんなに書類ばかり見ていないで、ここに座りなよ。
今日のみたらし団子、お砂糖と醤油の加減がね、すごく上手に焼けたんだよ」
「わぁっ! 本当ですか!? いただきます!」
千代ちゃんは難しい顔をしていた社長の表情から、一瞬であの出会った頃の無邪気な女の子の顔に戻ると、私の隣にちょこんと嬉しそうに腰掛けた。
そして、差し出された竹串に刺さった、出来立てのツヤツヤとした温かいお団子を、大きなお口でパクリと頬張った。
「ん〜〜〜〜〜っ!! 美味しいっ! 香ばしくて、甘じょっぱくて、すっごく柔らかいです!
やっぱり、世界中のどんな高級レストランのデザートよりも、宗次さんの焼いてくれるこのお団子が、世界で一番美味しいです!」
千代ちゃんは両手を頬に当てて、本当に幸せそうに目を細めて笑った。
その横顔を見て、私もまた、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
世間の人々は、私のことを「日本を救った奇跡の鉄道王」だの、「現代の無欲の聖者」だの、大層な二つ名や肩書きで呼んで崇めている。
国会には私の名前を冠した法律が残り、ヨーロッパの王室には私がお茶を淹れた写真が飾られているらしい。
けれど、そんな大層な名誉や権力、あるいは数え切れないほどの巨万の富なんていうものは、私にとっては本当に、どうでもいい、道端の小石のようなものだった。
かつて、官営鉄道という冷たい巨大組織を理不尽に追放され、すべてを失ってトボトボと行き着いた、あの寂しくてボロボロだった泥川駅。
あの日、あの場所で、この一生懸命で健気な千代ちゃんと奇跡のように出会い、手作りのベンチで、みんなで並んで温かいお茶を飲んだあの日から。
私のささやかな望みは、何一つとして、本当に最初から何一つとして変わっていないのだ。
高級な列車を走らせるのも、駅前に極上の温泉を掘るのも、すべては、やってきてくれたお客さんたちが、そして私の大好きな仲間たちが、みんなで笑顔になって、美味しくお茶を飲めればそれが一番いい、ただそれだけの一心だったのだから。
(やあやあ。今日も、泥川の空はどこまでも青くて、お茶が本当に美味しいなぁ……)
私は、ひらひらと舞い散る桜の花びらを受け止めながら、澄み渡る美しい春の青空を悠然と見上げた。
そして、自分の両隣にいる、かけがえのない大好きな仲間たちの、溢れんばかりの最高の笑顔に囲まれながら。
今日も、いつもの木製ベンチの上で、淹れたての温かい緑茶を「ずずっと」と心地よい音を立てて、どこまでも呑気に、ただひたすらに五臓六腑を和ませながら、すするのだった――。
(全30話・完結)
立派な名物社長となった千代と、相変わらず広場を掃き清める霧島。世界を救った数々の奇跡も、日本一の鉄道王の肩書きも、このぽかぽか陽気の前にはどうでもいい。今日も空は青く、仲間たちとすするお茶は、世界一美味い。――(全30話・完結)




