第29話 大将の本当の望み
「日本を救った奇跡の鉄道王!」「新国家鉄道庁の最高長官に就任を!」高級外車で乗り込んできた大臣たちが、巨額の予算と豪華な委任状をズラリと並べる。誰もが羨む権力の頂点を前に、男はふうっとお茶の湯気を吹き飛ばした。
官営鉄道の保守派幹部たちが隠蔽してきたすべての不正や悪事が白日の下に晒され、泥川電鉄の経営理念が『泥川モデル推進法』として国家の新たな指針に制定されたことで、日本の鉄道の歴史にその名が不滅の足跡として刻まれた。
この国家規模の大逆転劇の余波はそれだけに留まらず、世間における「黒田宗次ブーム」は、誰も想像し得なかったほどの最高潮へ達していた。
「日本を救った、奇跡の無欲な鉄道王!」
「現代の混迷を照らす真の聖者、黒田宗次氏の私生活に迫る!」
連日、まだ始まったばかりの創世記のテレビ実験放送の巨大なカメラを担いだ取材陣や、新聞、雑誌の記者たちが、静かだったはずの泥川駅のホームへと怒涛の如く押し寄せていた。
それだけではない。
泥川電鉄の圧倒的な民意の強さと世界的な名声を目の当たりにした政財界のトップたち、果ては現職の大臣たちまでもが、自らの保身と新たな利権、あるいは単なるあやかりのために、ひっきりなしに泥川駅へと高級外車を走らせてやってきたのだ。
「黒田閣下! ぜひ、この度新設されることとなりました国家の最高機関『新国家鉄道庁』の、初代最高長官の座に就任していただきたい!
あなた以外に、この国のすべての鉄道網を統べるに相応しい人物はおりません!」
「我が国のすべての鉄道網、数万キロの線路と数百万人の職員の頂点として、国が用意する巨額の予算と絶対的な権力を、どうぞあなたの自由に使ってください!」
「さらに、退任後の天下り先として、官営鉄道から再編される超巨大グループの最高名誉顧問の座と、都心の一等地にある豪華な邸宅もご用意しております!」
泥川駅の埃っぽい駅前広場にズラリと並んだ、漆黒の高級外車。
そこから降りてきた現職の鉄道大臣や、日本を代表する巨大財閥のトップたちが、仰々しい金箔が施された豪華な委任状と、見たこともないほどの厚みを持つ金一封を、手作りの貧弱な木製ベンチの上の、お茶菓子の皿の横へとズラリと並べ立てた。
彼らの目は一様にギラギラと欲望に輝き、これだけの条件を出せば、どんな人間であっても狂喜乱舞して飛びつくはずだと確信していた。
だが、当の私はといえば、並べられたそれらの最高権力の象徴たる書類や札束の山を一瞥することすらもしなかった。
ただ、いつものように自分の膝の上に置いた、古びた急須の蓋を優しくなでながら、ふうっと温かいお茶から立ち上る白い湯気を、のんびりと吹き飛ばしただけだった。
そして、ずずっとお茶を一口すすると、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「みなさん、せっかくこんな遠い田舎の泥川まで、わざわざ高級な車に乗って来ていただいたのに、本当に申し訳ないんですが……
私、そういう難しくてお仕事がいっぱいある偉い席は、全部お断りします」
「ええっ……!? ぜ、全国の、日本中のすべての鉄道と駅、そして数兆円の予算を完全に支配できる、文字通り国家の最高権力の座ですよ!?
なぜ、それを無条件で拒絶されるのですか!?」
鉄道大臣をはじめとする大物たちが、まるで信じられないものを見るかのように目を丸くし、声を裏返らせて驚愕した。
彼らの常識では、権力と富を拒む人間などこの世に存在するはずがなかったからだ。
私は、彼らのそんな大騒ぎを気にする風もなく、急須から空になった自分の茶碗へ、黄金色のお茶をトトト……と楽しそうに注ぎ足しながら、
隣で心配そうに見守っていた千代ちゃんの方を振り返り、少し照れくさそうに笑いかけた。
「ねえ、千代ちゃん。会社も無事に守られたことだし、私、そろそろ『駅前のお茶屋の店主』に戻ってもいいかな?
だってさ、私は全国の鉄道を動かす大将なんかよりも、この泥川のベンチに座って、やってくるお客さん一人一人に温かいお茶を淹れて、『ああ、美味しいねぇ』って笑顔で言ってもらうのが、私にとって何よりも一番楽しいことなんだもん。
毎日違う温泉に入るのも楽しいけれど、やっぱり、ここでみんなの笑顔を見ながらお茶を飲んでいるのが、私の本当の、たった一つの望みなのさ」
「宗次さん……」
千代ちゃんは、私のそのあまりにもいつも通りで、どこまでもブレない言葉を聞いて、呆れたように、でも心の底から嬉しそうに、愛おしそうに目元をハンカチでそっとぬぐった。
「もう……宗次さんったら。日本中の鉄道を動かして、世界中の王様から絶賛されるような凄い人になっても、本当に何も変わりませんね。
でも……そんな宗次さんだからこそ、私たちは全員、あなたについてきたんですよ」
千代ちゃんは満面の笑顔で頷いた。
そして、その傍らでいつものように影の如く控えていた雑用係の霧島も、満足そうに腕を組み、眼鏡の奥の瞳を誇らしげに輝かせて、深く、深く頷いていた。
だが、彼の脳内では、またしても私のこの単純な本音(ただお茶を飲んで楽をしたい)が、恐ろしいスケールで壮大に深読みされていたのである。
(……ククク、素晴らしい。実に素晴らしいお答えにございます、黒田様。
目先の矮小な国家権力や、紙切れに過ぎぬ財産など、このお方にとっては道端に転がっているありふれた小石同然。
新国家鉄道庁の長官などという枠に収まれば、かえって国家という組織のルールに縛られることになる。
それをあえて拒絶し、『一役役のお茶屋』という庶民の立場を貫くことで、逆にどの組織からも一切の干渉を受けない、国家を超越した『絶対的な自由の権威』として君臨し続けるおつもりか。
なんと底知れぬ、恐るべき無欲の境地……!)
霧島が一人で勝手に、私の無欲さを「究極の絶対権力維持のための高度な政治的ボイコット」と解釈して戦慄し、最大限の畏敬の念を我が背中に注ぎ込んでいるとは、当の私はこれっぽっちも気づいていなかった。
提示された国家最高の栄誉、巨万の富、そして無限の権力を前にしても、眉毛一つ動かすことなく、ただ目の前のお客さんにお茶を淹れるという、あまりにもささやかで純粋な幸福だけに魂を感じている私の姿を見て。
ベンチを取り囲んでいた政財界の大物たちは、一瞬にして自らの五感を雷に打たれたかのように、身体を激しく打ち震わせた。
彼らの額からは、己の心の醜さを恥じるかのような汗がだらだらと流れ落ちる。
(な……なんという、なんという器の、底の知れない人物なのだ……!
誰もが一生をかけて血で血を洗う争いをして奪い合う巨大な名誉も、最高権力の座も、全てをただの塵のように笑顔で捨て去り、一人の名もなき庶民として、お茶屋の店主として生きる道を選ぶというのか……!?
自らの残した世界的な功績を微塵も誇らず、権力を誇示することもなく、ただ人々のささやかな幸福と笑顔だけを純粋に願う……。
この男こそ、現代の資本主義に現れた、真の『無欲の聖者』ではないか……ッ!!
私たちは、なんて小さく汚れた欲を持って、この偉大な人物に近づいてしまったのだろうか……っ!)
大臣や財閥のトップたちは、私があまりにも神聖で巨大な存在に見えてしまい、もはやこれ以上、自らの俗世の書類を差し出すことすら不敬であると感じたようだった。
彼らは並べた委任状を震える手で回収すると、誰からともなく地面に膝をつき、私に向けて深々と頭を下げた。
そして、自らの強欲さを深く反省し、感動の涙をボロボロと流しながら、静かに、しかし畏敬を込めて泥川駅から去っていったのだった。
「おや、みんな帰っちゃったねぇ。お茶も団子も、まだたくさん残っているのに。
忙しい人たちは、いつもせかせかしていて大変だねぇ、千代ちゃん」
「そうですね、宗次さん。でも、これでやっと、いつもの静かな泥川電鉄に戻れますね!」
千代ちゃんは嬉しそうに微笑み、私の淹れたお茶を美味しそうにずずっとすすった。
「ああ、やっぱり泥川のお茶が一番落ち着くねぇ。いやぁ、極楽極楽」
私は、自分が国家の歴史を塗り替えるほどの「無欲の聖者」として政財界を震撼させたことなど夢にも思わず、
ただ、いつもと変わらない美しい秋の夕焼け空を見上げながら、大好きなみたらし団子を口に放り込み、五臓六腑を心地よく和ませているのだった。
巨大な名誉も権力も笑顔で捨て去り、「駅前のお茶屋の店主」に戻る道を選んだ黒田。「無欲の聖者」として去っていく大物たちを見送り、数年の月日が流れた。おもてなしの革命が起こした、世界の終わりのその先は――。




