第30.5話 やっぱりお茶が一番美味い(後日談)
国会を埋め尽くした四百万人分の反対署名、ヨーロッパの国賓による歴史的大絶賛、そして新法『泥川モデル推進法』の成立と官営鉄道幹部たちの電撃逮捕――。
日本中、いや世界中のメディアを巻き込んで連日のようにトップニュースで報じられたあの大騒動から、数週間が経った。
泥川電鉄の名は今や、単なる一地方のローカル私鉄を超え、「世界の奇跡」として歴史にその名を刻んでいた。
だが、そんな地球規模の激震の中心にいたはずの泥川駅のホームには、今日も驚くほどいつもと変わらない、のどかな時間が流れていた。
ぽかぽかと降り注ぐうららかな秋の日差しを浴びながら、手作りの木製ベンチに深く腰掛け、日向ぼっこをしている男が一人。
私、黒田宗次は、新国家鉄道庁の最高長官という日本の交通界の頂点に立つ権利を笑顔で突っぱね、
相変わらず「駅前のお茶屋の店主」として、急須から湯呑みへとお茶を注いでいた。
「はぁ〜……。やっぱり、泥川の水でじっくり淹れたお茶は五臓六腑にしみ渡るねぇ。今日もお茶が実に美味い」
私が一人、幸福感に満ちたため息をつきながら、使い込まれた湯呑みを眺めていた、その時だった。
「宗次さんっ!! お茶を飲んで和んでいる場合じゃありませんよっ!!」
泥川駅のホームに、もはや我が社の名物とも言えるバタバタという激しい足音が響き渡る。
急須から茶碗へ二杯目の煎茶を注ごうとしたまさにその瞬間、泥川電鉄の若き社長・千代ちゃんが、顔を真っ赤にして、
両手に抱えきれないほどのきらびやかな『招待状』や『契約書』の山を抱えて突っ込んできた。
あまりの勢いに、いくつかの豪華な封筒がひらひらと宙を舞い、ベンチの横にドサッと置かれた。
「これ、見てください!
全部、あの大騒動のニュースを見た世界中の超大富豪や、ハリウッドの有名な映画スター、それに海外の王室の方々から届いた『泥川駅の足湯を貸し切りにしたい』っていう予約ツアーの依頼書なんですよ!?
『黒田氏の淹れたお茶を飲むためなら一億円出してもいい』っていう怪しい小切手まで入っているんですから!!」
「う〜ん……」
私は実に渋い顔をしながら、急須の蓋を優しくなでた。正直なところ、私の心境は一言に尽きる。
「千代ちゃん、気持ちはありがたいんだけどね。一億円だか何だか知らないけれど、そんな偉い人たちばかりが来たら、
いつも泥川の足湯を楽しみにしている沿線のおじいちゃんやおばあちゃんたちが、緊張して温泉に入れなくなっちゃうじゃないか。
私はね、ただこの泥川のベンチで、近所の人たちとお喋りしながらお茶を飲んでいたいだけなんだよ」
「それは私も同感ですけど……でも、断っても断っても、高級外車が駅前に次々と停まるんですぅ!」
千代ちゃんがおろおろと小さな手を振る。
確かに、駅前広場の方からは、普段聞き慣れない静かで重厚な外車のエンジン音が響いてきていた。
すると、その様子を少し離れた場所から見守っていた、我が泥川電鉄の優秀すぎる雑用係――霧島が、衣服の擦れる音すら立てずにスッと横から現れた。
彼は手にした鉄瓶から、私の急須へと完璧な温度の温かいお湯を足し、そのまま音もなく私の耳元へと顔を寄せた。
「……黒田様。ご安心ください。
駅前に押し寄せていた海外のセレブや成金たちの高級車ですが、先ほど全て『お引き取り』願いました。
彼らが我が社の温泉と黒田様のお茶を『ステータス(見栄)』のために利用しようとしていることを見抜き、
泥川電鉄の誇る『最高のおもてなし(物理)』をもって、丁重にお断りさせていただきました」
ピクッ、と私の手元が止まった。
「おもてなし(物理)……? 霧島、一体何をしたんだい?」
「簡単なことでございます。
彼らが駅に降り立った瞬間、港町の金蔵さんたち率いる熱血漁師団を投入し、『ようこそ泥川へ!』の大歓声とともに、獲れたての生きたタコやサザエを無理やり両手に握らせ、歓迎の大漁踊りで揉みくちゃにいたしました。
さらに、深山村の猟師たちに熊の毛皮を着せて周囲を囲ませたところ、皆様『オーマイゴッド!』と叫びながら、
大変満足そうな(恐怖に引きつった)顔で車に乗り込み、都会へとお帰りになりました。
これぞまさに、我が社の誇る『野性味あふれるローカルおもてなし』でございます」
霧島はフッと眼鏡の奥の目を冷徹に光らせ、完璧な一礼を決めた。
私の「近所の人が入れなくなるから」というささやかな心配を、霧島は脳内で『俗物どもを近づけるなという黒田様の峻厳たる意志』と壮大に深読みし、
漁師や猟師を使った前代未聞の「セレブ撃退作戦」を裏で完璧に実行していたのである。
おかげで駅前広場には、いつもの静けさと、なぜか少しばかりの磯の香りが戻っていた。
「あ、あれ……? 結果的に駅前が静かになったのは良いことですけど、国際問題になってませんよね……?」
千代ちゃんが引きつった笑顔で首を傾げていたが、そこへ、ガタゴトと小気味よい音を立てて、一両の黄色いローカル列車がホームに入線してきた。
プシュー、とドアが開くと、そこから降りてきたのは、高級スーツを着た大富豪などではなく、
大きな荷物を背負った沿線の農家のおばあちゃんや、泥川の文化住宅に住む子供たち、そして、長距離移動の疲れを癒やしにやってきた、少しお疲れ気味のサラリーマンたちだった。
「あ、黒田のじいちゃん! 今日もお茶淹れてるのか?」
「やあやあ、みんなお帰り。今日も一日、お仕事にご苦労様。
さあさあ、席は空いているから、まずは温かいお茶でも飲んで、長旅の疲れを癒やしていきなさい」
私は割烹着の袖をまくり、やってきた乗客たちに次々と湯呑みを配っていった。
ベンチの横に設置された小さな炭火台からは、千代ちゃんが手伝ってくれた特製のみたらし団子が、
醤油の香ばしい匂いを立てて「ジュウジュウ」と美味しそうな音を立てて爆ぜている。
「うわぁ、いい匂い! じいちゃん、お団子ちょうだい!」
「はいはい、焼き立てだよ。火傷しないように気をつけてね」
子供たちが嬉しそうにお団子を頬張り、仕事帰りのサラリーマンが、私の淹れた緑茶を「あ〜……」と心の底から漏れ出たようなため息とともにすする。
「生き返るなぁ……。
都心での仕事はギスギスしていて息が詰まりそうでしたけど、泥川駅に降りて、このお茶を飲むと、本当に『帰ってきたんだ』って、心がホッとするんです」
「そうだねぇ。お茶っていうのはね、張り詰めた心を少しだけ緩めてくれる魔法の飲み物なんだよ。難しいことは全部忘れて、今はのんびりしなさい」
私のその何気ない言葉に、サラリーマンは目元を少し潤ませながら、何度も深く頷いていた。
そんな、どこまでもアットホームで穏やかな光景がホーム上に広がっている中。
駅の改札口から、キョロキョロと周囲を怯えるように見渡しながら、トボトボと力なく歩いてくる一人の男の姿があった。
使い古された地味な私服に身を包み、肩を落として歩くその男の顔を見て、千代ちゃんが「あッ!」と小さく声を上げた。
そこにいたのは、かつて泥川電鉄を目の敵にし、前回の総会や国会の陰謀で完全に失脚し、官営鉄道を解任されたあの男――馬場であった。
かつてのエリートとしてのプライドは完全に打ち砕かれ、逮捕こそ免れたものの組織を追われた彼は、今や行き場をなくし、幽霊のように日本中を彷徨っていたのだ。
そして、気づけば足が勝手に、自分がすべてを失う原因となった、この泥川駅へと向いていたのである。
「く、黒田……。
私は、私はお前を破滅させるために、あんなに必死になって……。
なのに、私はすべてを失い、お前は日本の鉄道の頂点に立った。
笑うがいい……。
惨めな私を、ここで大声で嘲笑うがいい……っ!」
馬場は拳を握りしめ、悔し涙を流しながら私を睨みつけた。
だが、私はといえば、そんな馬場の恨み言などどこ吹く風といった様子で、急須から新しい湯呑みへと、黄金色に輝く淹れたての熱いお茶をトトト……と注ぎ入れ、
それをそのまま、馬場の前に差し出した。
「やあ、馬場さん。久しぶりじゃないか。随分と顔色が悪いねぇ、身体が冷えているんじゃないかい?
さあさあ、そんなところに突っ立っていないで、この温かいお茶でも飲んで、焼き立てのお団子でも食べなさいな」
「な……っ!? なにを、何を言っているんだお前は……!
私はお前を陥れようとした大悪党だぞ!? 泥川電鉄を潰そうとした男だぞ! なぜ、なぜそんなに普通に、私にお茶などを出すんだ……っ!?」
馬場は信じられないものを見るように目を見開き、激しく狼狽した。
私はそんな彼を見て、いつも通りおだやかに微笑んだ。
「そんなに怒らなくても大丈夫だよ、馬場さん。
官営鉄道だの、乗っ取りだの、環境破壊だの、
私には難しいことはよくわからないけれどさ。
わざわざこうして泥川の駅にまで電車に乗って来てくれたんだ。だったら、馬場さんだって、うちの大事なお客さんであり、お茶を一緒に飲む仲間じゃないか。
お腹が空いていたら、人はどうしてもトゲトゲしちゃうものだよ。さあ、冷めないうちにどうぞ」
「黒田……お前という男は……っ!」
馬場は震える手で、私が差し出した安物の湯呑みを受け取った。
そして、促されるままにお団子を一口、口に含み、お茶をずずっとすすった。
その瞬間、馬場の目から、これまで彼を支えていたドス黒い執念や嫉妬のすべてが洗い流されるかのように、
大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、駅のホームの床を濡らした。
「美味い……っ。
なんだ、このお茶は……こんなに、こんなに温かくて、優しい味が……世の中にあるというのか……。
私は一体、何のためにあんなに血眼になって、利権や権力なんていう冷たいものを追い求めていたんだ……。
本当に欲しかったのは、こんな風に、誰かと笑ってお茶を飲む、そんな温かい時間だったはずなのに……っ!」
馬場はベンチの端に崩れ落ちるように座り込み、子供のように声を上げてわんわんと泣き続けた。
千代ちゃんは「宗次さん……やっぱり凄いです。どんな悪党でも、宗次さんのお茶の前にはみんな素直になっちゃうんですね」と、感動で胸を熱くしながらその様子を見守っていた。
だが、私の後ろに立つ霧島だけは、やはり怪しく眼鏡を光らせ、一人で深く戦慄していた。
(……凄まじい。
恐るべきは黒田様の『精神破壊おもてなし』。
かつて我が社を滅ぼそうとした不倶戴天の敵・馬場氏に対し、一切の法や暴力を使わず、ただ一杯のお茶と団子という、精神の極致をもってその魂を完全に洗脳、改心させてしまわれた。
これによって、官営鉄道の残党勢力すらも泥川電鉄の熱狂的な信奉者へと変貌を遂げる。
敵の悪意の根源すらも、お茶の葉一枚で無力化し、
自らの手駒へと変えてしまうこのグランドデザイン……。
黒田宗次、やはりこのお方は、底の知れない絶対魔王……
いや、真の聖者でおられる……っ!)
霧島が、私がただ「可哀想に、お腹が空いてるんだねぇ」と思っているだけの事実を、国家規模の『精神洗脳外交戦略』と壮大に深読みして、
我が背中に向けて戦慄と最大限の畏敬の念を抱いているとは、当の私はこれっぽっちも気づいていなかった。
やがて、ひとしきり泣き腫らしてすっきりとした顔になった馬場は、湯呑みを綺麗に置くと、私に向かって深々と、これまでにないほど澄んだ目で頭を下げた。
「黒田……。私は今まで、本当に間違っていた。これからは、心を入れ替えて、この泥川電鉄のために、一から泥にまみれて働かせてほしい。
駅の掃除でも、線路の草むしりでも、何でもやる!」
「ははは、それは頼もしいねぇ。じゃあ、霧島、馬場さんに新しい箒を一本、用意してあげておくれ」
「御意にございます、黒田様。
……馬場氏、我が雑用部隊への入隊を許可します。
ただし、私のシゴキは厳しいですから、覚悟していただくように」
「ふ、望むところだ……!」
馬場は霧島から手渡された竹箒を握りしめ、かつてのエリート局長とは思えないほど晴れやかな顔で、駅前広場の掃除へと駆り出されていった。
夕暮れ時。
夕日に赤く染まった泥川駅のホームには、掃除を終えて一緒にお茶を飲む霧島と馬場の姿があり、
その横では千代ちゃんが「ふふっ、これで泥川電鉄は、もっともっと賑やかになりますね!」と嬉しそうに笑っていた。
乗客たちもみんな笑顔で足湯に浸かり、遠くからは少女歌劇団の練習する歌声が、心地よい秋風に乗って聞こえてくる。
世界中を震撼させる大騒動を経て、日本の鉄道の頂点に立ってもなお。
泥川電鉄の日常は、どこまでも温かく、どこまでも呑気で、そして少しばかりの勘違いに満ちあふれた、最高の「居場所」のままだった。
私は、茜色に染まる美しい空を見上げながら、最後の一口のお茶をずずっとすすると、満面の笑顔で呟いた。
「あ〜〜〜、やっぱり、泥川でみんなと飲むお茶が、世界で一番美味しいねぇ」
私は大好きな仲間たちの笑顔に囲まれながら、今日もただひたすらに、五臓六腑を和ませて幸せに浸っているのだった。
(第30.5話・これで本当におわり)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。(黒田宗次)




