第26話 立ち上がる人々
国会可決まであと数時間。小さな私鉄のあっけない圧殺を確信し、高笑いする官営鉄道の幹部たち。しかし彼らは知らなかった。黒田が積み重ねてきた「優しさ」が、日本全国を呑み込む草の根の暴動へ変わることを。
官営鉄道の保守派幹部たちが、己の醜い利権と天下り先を守るためだけに執念で捏造した、真っ赤な嘘の「環境破壊」の虚偽報告書。
それをもとに、泥川電鉄の息の根を合法的に止めるための悪法『泥川電鉄全線運行停止命令案』が国会に提出され、可決の瞬間まであと数時間という未曽有の窮地に追い込まれた泥川電鉄。
国会議事堂の中では、官営鉄道の息がかかった保守派の国会議員たちが「これで目障りな地方私鉄も終わりだ」と勝ち誇り、冷酷なカウントダウンを進めていた。
だが、事態は官営鉄道の幹部たちが机の上で思い描いていたような、「権力を持たない小さな地方私鉄の、あっけない潰し合い」などでは到底終わらなかった。
彼らは決定的な計算違いをしていたのだ。
泥川電鉄の線路が、ただの鉄のレールではなく、日本中の庶民の「心」と深く、固く結びついているという厳然たる事実を。
「黒田さんを……俺たちの、私たちの泥川電鉄を、あんな汚い役人どもの嘘で止めさせてたまるかぁぁぁッ!!」
泥川電鉄の危機を知り、真っ先に地鳴りのような声を上げて立ち上がったのは、泥川駅のすぐ裏手に広がる、あの手作りの文化住宅で暮らす住民たちだった。
かつて都心の劣悪な環境の長屋で、冬の寒さに凍え、明日の暮らしや我が子の未来にさえ絶望していた彼らを救い出し、温かい住まいと、明日を生きるための仕事と希望を与えてくれたのが、他ならぬ黒田宗次その人だったのだ。
「黒田さんが作ってくれたのは、ただの鉄の線路や温泉じゃない! 居場所をなくして路頭に迷っていた私たちが、人間らしく、大切な家族と笑顔で生きるための『本当の居場所』なんだ!
その恩人の場所を奪おうとする奴らは、この俺たちが絶対に許さねえぞ!!」
文化住宅の代表が涙を流しながら泥川駅の広場で叫ぶと、その熱い叫びは、まるで乾燥した草原に放たれた一乗の火の粉のように、瞬く間に全国の提携路線へと伝播していった。
泥川電鉄の事務所では、涙を拭った千代ちゃんと、いつも通り冷静ながらも瞳の奥に静かな怒りの炎を宿した雑用係の霧島が中心となり、
これまで築き上げてきた全国の『一駅一温泉』連絡網をフルに活用した、前代未聞の「日本全国同時多発署名活動」が開始された。
あの荒波が吹き荒れる港町では、かつてサビだらけの廃れた港で、網を繕いながら途方に暮れていた老漁師の金蔵たちが、いち早くこの知らせを受け取っていた。
「おい野郎ども!! のんびり魚を獲ってる場合じゃねえぞ! 聞きやがれッ!」
金蔵は、自身の漁船の最も高いマストに、色鮮やかな大漁旗をこれでもかと掲げ、拡声器を握りしめて港中の荒くれ漁師たちを一堂に集めた。
「黒田さんのおかげで、俺たちの獲った泥臭い魚が、あの『海鮮列車』で大繁盛して全国に届くようになった!
そのおかげで、俺たちの生活は潤い、このボロ港も見事に蘇って、みんな新しい船まで持てるようになったんだぞ!
いわば、俺たちの命の恩人である黒田さんが、都心の卑劣な利権役人どもにハメられようとしてるんだ。 港の男が、ここで黙って指をくわえて見ていられるかぁッ!」
「おうよ!! 冗談じゃねえ! 役人が何様のつもりだ!」
「国会だろうが、総理大臣の目の前だろうが、俺たちの意地と、この名前を書き連ねた署名を力任せに叩きつけてやるわぁッ!!」
漁師たちはその場で次々とペンを握り、日に焼けた分厚い手で、破れんばかりの勢いで署名簿に己の名を刻み込んでいった。
さらに、遥か山間部にある深山村でも、同じように熱い炎が燃え広がっていた。
かつて、大型台風による甚大な土砂崩れで完全に道路が遮断され、孤立無援の恐怖に怯えていた際、
命がけで山を越えてやってきた泥川電鉄の『走るスーパーマーケット(救援列車)』によって命を救われた村人たちである。
彼らはニュースを聞くや否や、村長からお年寄り、そしてまだ文字を習いたての小さな子供にいたるまで、村総出で公民館に集まり、必死の形相でペンを握りしめた。
「黒田さんは、私たち村人全員の命の恩人だ。泥川電鉄を環境破壊だなどという濡れ衣で止めるというのなら、まず私たち深山村の人間全員を撃ち殺してからにしろ!」
民衆の怒りと感謝の念は、それだけに留まらなかった。
泥川電鉄名物の車内歌劇の華やかなステージに日々元気を貰っている熱狂的なファンたち、全国の『一駅一温泉』の足湯や露天風呂に浸かることで、腰痛が治り毎日の生きがいを見出した無数のお年寄りたち、そして、夜行『おやすみ列車』のフカフカの畳の上で長距離移動の疲れを極上に癒やされ、翌朝から元気に働けるようになった都会のビジネスパーソンたち……。
黒田宗次という一人の老人が、これまで何気なく、ただ自分が楽しみたいから、あるいは目の前の人が困っているからという理由で積み重ねてきた、純粋無垢な「おもてなし」と「優しさ」に触れてきた何百万人もの人々が
、誰に命令されるでもなく、自らの意志で、怒涛の如く立ち上がったのである。
「黒田さんを守れ!!」
「真っ赤な嘘の報告書で、私たちの泥川電鉄を潰すな!!」
「官営鉄道の、自分たちの利権だけを貪る薄汚いやり方を絶対に許すな!!」
現代のように、ボタン一つで情報が瞬時に拡散されるインターネットやSNSなど、影も形も存在しない時代である。
しかし、だからこそ、人と人との口から口へと、熱い体温を伴って直接伝わっていく「草の根の熱狂」は、
どんな最先端の文明の利器よりも速く、そして計り知れないほどの恐ろしい爆発力を持って、北は北海道から南は九州まで、日本全国の津々浦々を瞬く間に駆け巡った。
国会での強行採決が予定されている当日の朝。
東京・永田町にある国会議事堂の前には、世にも奇妙で、そして圧倒的な光景が広がっていた。
全国各地から夜通し走ってきたトラックや、泥川電鉄のネットワークを乗り継いでやってきたリヤカー、さらには地方の運送業者の車両が、議事堂の正門前に続々と横付けされていったのだ。
それらの荷台に山積みにされていたのは、すべて日本全国の庶民が涙と怒りとともに署名した、膨大な数の「署名簿」の束であった。
その数、なんとわずか三日間という短期間で、驚異の「四百万人分」。
全人口の数分の一に匹敵する、天文学的な民意の結晶である。
リヤカーやトラックから次々と降ろされ、国会議事堂の前に積み上げられた署名簿の山は、議事堂の重厚な鉄の正門を完全に埋め尽くし、見上げるほどの巨大な壁となってそびえ立った。
その頃、緊迫した審議が行われている国会の本会議場。
壇上のスピーカーから「泥川電鉄運行停止命令案」の採決準備のアナウンスが流れる中、
議場の重い扉が開き、国会の職員たちが台車に乗せられた大量の署名簿を次々と議場内へと運び込んできた。
「な、なんだこれは……!? 一体、何が起きているんだ!?」
「国会前の正門が、署名簿の山で完全に塞がれて、外に出られないそうだぞ! 署名の数は……よ、四百万人だと!?」
議場に次々と持ち込まれる、
国民の怒りが物質化したかのような大量の署名簿を目の当たりにした国会議員たちは、一瞬にして顔を真っ青に染め、ガタガタと目に見えて震え上がった。
彼らは政治のプロである。だからこそ、この数字が持つ「本当の恐怖」を誰よりも理解していた。
「おい……冗談じゃないぞ。もし、官営鉄道に言われるがまま、この法案を今ここで強行採決してみろ。ここに名前がある四百万人の人間と、その家族や友人たちが、次の選挙で我々を絶対に忘れないぞ……!」
「与党も野党も関係ない! この法案に賛成票を投じた瞬間に、我々は次の選挙で、全員確実に落選して政治生命を絶たれるぞ……!」
「泥川電鉄の後ろには、綺麗なスーツを着た資本家なんかじゃない、日本中の泥臭い『庶民』のすべてがついているんだ……! 400万の民意を敵に回して、この国で生き残れる政治家など、一人もいるわけがないだろうが!!」
官営鉄道の保守派幹部たちが、これまで数十年の歳月と莫大な裏金を使って誇らしげに築き上げてきた「政権や中央政界との強固なコネ」など、怒り狂った数百万人という圧倒的な「本物の民意」の前には、台風に吹き飛ばされる脆い木ノ葉同然であった。
本会議場内は、採決を急ごうとする官営鉄道派の議員の声など完全に掻き消え、「法案を撤回しろ!」「審議は白紙撤回だ!」という、保身に走る議員たちの怒号で大混乱に陥っていた。
そんな、国家の最高権力の中心地が勝手にひっくり返るほどの大騒動になっているとは、夢にも思わず。
いつもの泥川駅のホーム脇のベンチでは、私が相変わらずぽかぽかとした秋の木漏れ日を浴びながら、急須から新茶を注いでいた。
「おや、千代ちゃん、霧島。なんだか外がリヤカーの音やら何やらで、朝からずいぶんと賑やかだねぇ。みんな元気があって大変よろしい。さあさあ、お茶のおかわりが入ったよ。美味しいみたらし団子もあるから、みんなで食べようじゃないか」
私は、国会の前に積み上げられた四百万人の署名が、自分が何気なく配ったお茶と団子の「お返し」だということにすら気づかぬまま、どこまでも呑気に、ずずっとお茶をすすって微笑んでいるのだった。
四百万人分の反対署名が国会の門を埋め尽くし、パニックになる議員たち。そんな運命の日の午前、日本を公式訪問していた「ヨーロッパの小さな王国の国王」が、予定にない爆弾発言を記者会見で放つ!




