第23話 前代未聞の株主総会
泥川電鉄の経営権を奪い取るべく、高級スーツで意気揚々とホールに乗り込んできた馬場とファンド代表。しかし、会場の扉を開けた瞬間、彼らが目にしたのは割烹着を着た黒田の笑顔だった。
泥川電鉄の長い歴史の中で、間違いなく最も緊迫した、そして最も運命的な朝がやってきた。
この日、都内の中心部にある格式高い巨大な多目的ホールでは、泥川電鉄の経営権を根こそぎ奪い取るための臨時株主総会が開催されようとしていた。
市場で49%の株式を電撃的に買い占め、今日の総会で過半数の議決権を掌握して黒田宗次を追放しようと目論むのは、海外の巨大ハゲタカファンド『ブラック・ウォール投資商会』。
会場の正面入り口には、仕立ての良い漆黒の高級スーツに身を包んだ元官営鉄道局長・馬場と、ファンドのアジア代表である冷酷な男ウォルターが、並んで意気揚々と乗り込んできた。
馬場の顔には、これまでの敗北の雪辱をすべて晴らせるという確信に満ちた、醜悪なまでの笑みが浮かんでいる。
「ハハハハハ! 見ろ、見ろよウォルター君! 潜入させている我が方のスパイからの報告によると、黒田の老いぼれめ、完全な自暴自棄に陥って株主総会の準備すら何一つしていないそうだ! 弁護士も呼ばず、想定問答集も作らず、ただ間抜けに鼻歌を歌っていたらしい! 現代資本主義のルールを前に、ついに脳が恐怖で麻痺したと見えるわ!」
馬場は勝利を確信し、誇らしげに胸をこれでもかと張りながら、会場の重厚な防音扉を「バシャーン!」と両手で勢いよく踏み開けた。
「黒田ぁーーーっ!! 観念しろ! 今日、この瞬間をもって貴様の作った小汚い泥川温泉王国も完全に終わりを告げるのだ……ぬあッ、ぬあああああッッ!?」
勝利の宣言を怒鳴り散らした馬場は、その場に縫い付けられたように硬直した。あまりの衝撃に、大きく開いた口が塞がらない。
彼が想像していたのは、冷徹なスーツ姿の機関投資家たちが整然と並び、静まり返った重苦しい審判の場だった。
だが、目の前に広がっていた光景は、彼の予測を何光年も飛び越えた、あまりにも異次元の空間だった。
「やあみなさん! 遠くからわざわざ東京までようこそ! 電車は混んでいませんでしたか? さあさあ、席に着く前に、まずは淹れたての温かいお茶と、我が社特製の焼き立てのみたらし団子をどうぞ! 遠慮はいりませんよ、たくさんありますからね!」
広いホールの最前列、きらびやかなステージの前で、高級スーツを着るどころか、実家のような安心感を醸し出す真っ白な割烹着を身にまとった私、黒田宗次が、満面の笑顔で大きなお盆を抱え、株主たちに次々とお茶を配り歩いていたのだ。
しかも、会場のふかふかの客席を埋め尽くしていたのは、馬場が手配したファンドの代理人たちだけではなかった。
泥川の沿線にある古びた文化住宅の住民たち、あの荒波の港町からわざわざ大漁旗を担いでやってきた熱血漁師たち、先日の台風で救われた深山村の素朴な村人たち、泥川名物の車内歌劇を愛してやまない熱狂的なファン、
そして、全国に広がった『一駅一温泉』を毎日の生きがいにしている、日本全国から集まったお年寄りたちの大集団だったのだ!
会場内には香ばしい醤油の焦げる匂いと、緑茶のふくよかな香りが立ち込め、まるで地方の賑やかな秋祭りのような、温かく混沌とした雰囲気に包まれている。
「な、な、なんだこの、この小汚い連中は……!? ここは神聖なる資本主義の法廷だぞ! 警備員! おい、警備員はどこだ! なぜこんな、株式の『か』の字も知らんような一般庶民どもを勝手に会場内に入れたのだ!!」
泡を飛ばして取り乱し、周囲のガードマンに怒鳴り散らす馬場。
その前に、仕立て直した泥川電鉄の制服を着た千代ちゃんが、かつてないほど誇らしげに胸を張り、毅然とした態度で立ちはだかった。
「馬場さん! 警備員さんを怒鳴るのはおやめください! ここにいる人たちは全員、正当な手続きを経て入場された、泥川電鉄の立派な『株主様』ですよ!」
「な、なにぃぃーーーっ!?」
馬場は雷に打たれたような大声を上げた。ウォルターもまた、冷徹な表情の裏で信じられないものを見るように書類を落としかける。
実は、この前代未聞の事態の裏には、泥川電鉄と黒田を愛する市井の人々の、目に見えない絆があった。
馬場と海外ファンドが泥川電鉄の乗っ取りを企てているというニュースが流れたあの日、全国の利用客たちが「私達の憩いの場である泥川電鉄を、黒田さんの会社を絶対に守りたい!」と自発的に立ち上がったのだ。
彼らは一人一人が決して裕福ではなかったが、お小遣いや生活費をやりくりし、市場から泥川電鉄の株を「1株、また1株」と、コツコツと涙ぐましい努力で買い集めていた。
さらに、優秀すぎる雑用係の霧島が、裏で全国の提携路線や温泉組合のネットワークを駆使し、個人株主たちの株式購入手続きを完璧にサポートするシステムを秘密裏に構築していた。
その結果、個人の力は小さくとも、集まった数は数十万人。
ファンドが巨額の資金で強引に買い占めた49%という圧倒的な数字を、わずか数パーセントだけ上回る『51%の個人株主・絶対防衛ライン』が、この会場に結集していたのである!
「さあみなさん、せっかく集まってくれたんだ。株主総会の余興として、我が社の誇る少女歌劇団の公演を始めましょう!」
私の合図とともに、ステージの幕が上がり、泥川電鉄名物の少女歌劇団による爽やかで力強い歌とダンスが始まった。
ホール全体が華やかな光に包まれる。
客席の漁師たちは「黒田さん頑張れー! 泥川電鉄は日本一ぃーっ!」と大漁旗を激しく振り回し、おばあちゃんたちは「まあまあ、お団子が本当に柔らかくて美味しいわぁ」と笑顔でステージを見守る。
ヤジを飛ばそうとしたファンドの代理人たちも、周囲のお年寄りから「お兄さんも団子食べなさい」と手渡され、気圧されて黙々と団子を口に運ぶ始末だった。
「ば、馬鹿な……こんな株主総会があるか! これは断じて認めんぞ! ウォルター君! 何をボーッと見惚れているんだ! 早くその49%の議決権を行使して、今すぐ黒田の解任案を発議しろ! 早くこのふざけた老人を追放するんだ!」
馬場が狂ったようにウォルターの肩を揺さぶる。
しかし、ファンド代表のウォルターは、自分のデスクに出されたみたらし団子を、芸術品でも見るようにじっと見つめた後、おもむろにそれを一口、口に含んだ。
秘伝のタレの絶妙な甘辛さと、泥川の水で練り上げられた米粉の圧倒的な弾力、そして会場を包む人々の温かい情熱が、彼の冷徹な五感を激しく揺さぶる。
次の瞬間、ウォルターの青い目から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、高級なスーツの胸元を濡らした。
「……信じられない。信じられない、ビューティフルだ……。私はこれまで、ウォール街をはじめ世界中のあらゆる企業を冷酷に買収し、解体し、利益だけを貪ってきた。だが……これほどまでに株主(ひいては顧客)に愛され、同時に顧客を愛している企業を、私は生まれて初めて見た……」
「お、おい、ウォルター君!? 何を急にポエムを紡いでいるんだ! 早く書類にサインを!」
焦る馬場を、ウォルターは涙を拭うこともせず、鋭い眼光で一瞥した。
そこにはもう、ハゲタカの冷酷さはなく、一人の心動かされた人間の姿があった。
「馬場君、君は決定的に間違っている。そして私も間違っていた。こんなにも人々に幸福を与え、地域を蘇らせている素晴らしい奇跡の企業を解体し、目先のハギレのような利益のために売り払うなど、投資家として、いや、人間として最高の愚者がすることだ。我がブラック・ウォール投資商会は、目先の利益を捨て、泥川電鉄のこの素晴らしい未来に投資する。現経営陣、すなわち黒田宗次氏の経営権を全面支持し、解任案には絶対反対を投じる!!」
「が……がはっ……!?(盛大な吐血)」
ウォルターのまさかの全面裏切りと、自らの野望が完全に、そして永久に打ち砕かれた衝撃により、馬場の口から見たこともないほど鮮やかな、盛大な吐血が文字通り「ぶふぉっ!」と吹き出した。
馬場はそのまま白目を剥いて畳(ホールの床)に倒れ込み、会場の隅で霧島が事前に(なぜか)待機させていた優秀な救急隊員たちによって、手際よくストレッチャーに乗せられ、哀れに担ぎ出されていったのだった。
会場内には、馬場の退場を気にする風もなく、再び大きな拍手と歓声が沸き起こる。
そんな喧騒の中、私の後ろに静かに控えていた霧島は、眼鏡の奥の目を怪しく光らせ、一人で深く納得していた。
(……やはり、すべては黒田様の計算通りだったというわけか。敵のファンドが49%を買い占めるのをあえて泳がせ、全国の熱狂的ファンによる『51%の鉄壁の盾』で正面から叩き潰す。それどころか、敵の最高司令官であるウォルター氏の精神を、一本の団子と、この圧倒的な『民衆の熱気』という心理的兵器で完全に洗脳し、我が方の信奉者に変えてしまわれるとは……。ブラック・ウォール社の天文学的な資金力が、これで実質的に泥川グループの軍資金となったも同然。世界経済の勢力図を団子一本で書き換えるとは、黒田様、どこまで恐ろしいお方なのか……!)
霧島が一人で勝手に壮大な深読みをして、私の背中に向けて戦慄と最大限の畏敬の念を抱いているとは、当の私はこれっぽっちも気づいていなかった。
「いやぁ、馬場さんもせっかく来てくれたのに、体調が悪かったのかなぁ。お団子、まだたくさん残っているから、今度入院先にお見舞いとして届けてあげようね、千代ちゃん」
「そうですね、宗次さん! でも、本当に良かったです……! 泥川電鉄は、これからも私達の泥川電鉄のままでいられます!」
千代ちゃんは涙を拭いながら、満面の笑顔で私の手を握りしめた。
こうして、泥川電鉄の歴史に、そして日本の経済史に永久に刻まれるであろう『前代未聞の株主総会』は、ただただ温かいお茶とお団子の香りに包まれながら、大団円のうちに幕を閉じた。
私はステージの上で大漁旗がはためくのを見上げながら、「あ〜、今日もやっぱり、お茶と団子が最高に美味いねぇ」と、どこまでも呑気に五臓六腑を和ませていたのだった。
全国の一般利用客たちが1株ずつコツコツ買い集めた「51%の民意」の結集。みたらし団子の旨さに涙を流したファンド代表の裏切りにより、馬場は盛大に吐血して搬送され、今度は長距離移動の常識を覆す新車両が動き出す。




