第21話:全国『一駅一温泉』計画
「うちの路線も再建してほしい!」全国から届く手紙の山に、遠出が面倒な黒田は渋い顔。だが、優秀な雑用係・霧島が囁いた「極上の隠れ源泉が放置されている」という言葉に、男の脳裏が弾けた。
大型の台風が去った後の、どこまでも高く青い秋空が広がっていた。
つい先日、泥川電鉄は前代未聞の暴挙――いや、乾坤一擲の救出劇を成し遂げたばかりだった。
台風による土砂崩れで完全に孤立してしまった深山村へと、決死の覚悟で救援列車を走らせ、孤立した住民たちを救い出したのだ。
その功績が認められ、泥川電鉄は政府から公式に『国家防災協力機関』という、一介の地方ローカル私鉄には身に余るほどの栄誉ある称号まで授与されることとなった。
普通であれば、そんな大快挙を成し遂げた直後なら、社内はさぞやどんちゃん騒ぎの大お祭り騒ぎか、あるいは次なる大事業に向けて色めき立っているところだろう。
だが、相変わらず泥川駅のホーム脇に置かれた、お世辞にも立派とは言えない手作りの木製ベンチの上には、いつもと全く変わらない光景があった。
ぽかぽかと降り注ぐ秋の日差しを浴びながら、のんびりと日向ぼっこをし、急須から湯気を立てるお茶をずずっとすする男が一人。
私、黒田宗次の隠居同然の生活には、何一つとして変化は起きていなかった。
「はぁ〜……。やっぱり、泥川の水で淹れたお茶は五臓六腑にしみ渡るねぇ。今日もお茶が実に美味い」
私が一人、幸福感に満ちたため息をつきながら、使い込まれた湯呑みを眺めていた、その時だった。
「宗次さんっ!! お茶を飲んで和んでいる場合じゃありませんよっ!!」
泥川駅の静かなホームに、バタバタと激しい足音が響き渡る。
急須から茶碗へ、ちょうど二杯目の熱い煎茶を注ごうとしたまさにその瞬間、泥川電鉄の若き社長であり、いつも一生懸命な千代ちゃんが、文字通り両手に抱えきれないほどの大量の書類を胸元に積み上げて突っ込んできた。
あまりの勢いに、書類の山から何枚かの紙切れがひらひらと宙を舞う。
ドサッ、と重苦しい音を立ててベンチのすぐ横に置かれたのは、日本全国のあらゆる地域から届けられた手紙や電報、そして陳情書の山だった。
あまりの高さに、ベンチに座る私の視界が半分ほど遮られる。
「これ、見てください! 全部、全国のローカル線や赤字に苦しむ私鉄の社長さんたちから届いた、我が社への涙ながらの依頼書なんですよ!? 『泥川電鉄の奇跡の再建ノウハウをぜひ教えてほしい』とか、『うちの路線も黒田様の手で救って、経営を再建してほしい』って、毎日何十通も、いえ、今朝なんてついに電報まで混ざって、ひっきりなしに届いているんですから! 国家防災協力機関の噂を聞きつけて、みんな藁にもすがる思いなんです!」
「う〜ん……」
私は実に渋い顔をしながら、急須の蓋を優しくなでた。正直なところ、私の心境は一言に尽きる。
「千代ちゃん、気持ちはありがたいんだけどね。遠出っていうのはどうにも面倒くさいんだよ。ついこの前、あの荒波が吹き荒れる港町から戻ってきたばかりじゃないか。私はね、ただこの泥川のベンチで、誰にも邪魔されずにお茶を飲んでいたいだけなんだよ」
「そんなこと言わないでください、宗次さん! 経営難で今にも廃線になりそうな電車が全国にたくさんあって、それがなくなったら、毎日の買い物や病院通いができなくなる地元の住民さんたちが本当に困っているんです! 泥川電鉄の知恵があれば、きっとあの人たちを救えるはずなんです!」
千代ちゃんはおろおろと小さな手を振りながら、必死の形相で私に訴えかけてくる。
彼女の郷土愛と鉄道への情熱は本物だ。だが、私の重い腰はそう簡単には上がらない。めんどくさいものはめんどくさいのだ。
すると、その様子を少し離れた場所から見守っていた、我が泥川電鉄の優秀すぎる雑用係――霧島が、衣服の擦れる音すら立てずにスッと横から現れた。
彼は手にした鉄瓶から、私の急須へと完璧な温度の温かいお湯を足し、そのまま音もなく私の耳元へと顔を寄せた。
「……黒田様。私の耳に入った、とある風の噂によりますと。ご相談のあった全国のローカル線の駅前には、実は古くからその土地の人間、それも一握りの地元住民にしか知られていないような、世間未発表の『極上の隠れ源泉』が多数眠っているそうでございますよ」
ピクッ、と私の手元が完全に止まった。湯呑みを口元へ運ぶ動きがピタリと静止する。
「……ほう? 隠れ、源泉とな?」
「はい。中には、ひとたび浸かれば湯上がりに肌が驚くほどスベスベになる高濃度の美肌の湯や、冬になれば見事な雪景色を独り占めしながら、芯から身体を温められる絶景の露天風呂の『原石』が、掘り起こされもせず、ただただ放置されているとか。非常に、もったいない話でございますが……」
霧島の淡々とした、しかし私の欲望の急所を的確に突いてくる甘い囁きが、脳内で爆発的な化学反応を起こした。
美肌の湯。雪景色の露天風呂。それが全国の駅前に眠っている?
その瞬間、私の脳裏に、これ以上ないほどすばらしく、そして私にとって最高に都合の良い名案がひらめいた。
「千代ちゃん! 今、私の頭に、すべての問題を一発で解決する素晴らしい名案がひらめいたよ!」
「えっ!? な、なんですか急に! 目が完全に据わってますよ、宗次さん!」
「簡単なことさ! その全国の駅前に、眠っている古い源泉を徹底的に活用した『駅前湯治場』を建設するんだ! 電車を降りたら、改札を出て徒歩十秒。そこにはもう、木造りの情緒あふれる極上の露天風呂や、旅の疲れを癒やす足湯が待っている。名付けて、全国『一駅一温泉計画』だよ!」
「一、一駅一温泉……!? 電車を降りたら、目の前がすぐ温泉なんですか!?」
千代ちゃんは目を丸くして驚いている。私は我が意を得たりとばかりに、さらに身を乗り出して熱弁を振るった。
「そうだよ! しかもそれだけじゃない。湯上がりにキュッと冷えた地酒や、甘辛いタレがたっぷりかかった焼き立てのみたらし団子、あるいは地元名産の川魚の塩焼きなんかを楽しめる、小さな風情ある茶屋もセットで併設するんだ。そうすればどうだい? 電車に乗ってやってくる乗客の皆さんは、『次はどの駅で降りて、どんな温泉に入ろうか』って、スタンプラリーみたいにワクワクしながら楽しい旅ができる。乗車率は爆発的に跳ね上がるし、沿線の地域もお客さんで大賑わいだ!」
我ながら完璧なプロモーションだ。しかし、私の本音は別のところにある。
「そして何より! 仕事と称して、私自身が全国のローカル線を巡りながら、毎日違う最高級の温泉に入り放題になる! これほど素晴らしい計画が他にあるかい! よし、決まりだ。霧島、すぐに全国の困っている路線に連絡を入れなさい。泥川電鉄が全面協力して、駅前露天風呂の建設を開始する!」
「御意にございます、黒田様。ただちに手配を」
千代ちゃんは「あ、あれ? 住民を救うっていう話から、いつの間にか宗次さんの温泉旅行記になってませんか……?」と首を傾げていたが、乗客が増えて路線が救われるのは事実。
彼女もまた、「それなら、すぐに書類の整理を始めます!」と嬉しそうに駆け出していった。
私はただ、毎日違う美味しい温泉に入って、日頃の(何もしていない)疲れを癒やしたい。
ただそれだけの一心で、全国の経営難に喘ぐ路線と次々に提携を結び、日本各地の駅前でガタゴトと小気味よい音を立てて、露天風呂の掘削工事を開始させたのだった。
……だが。
この、どこまでも呑気で利己的な温泉満喫計画が、日本の政財界のトップたちにどれほどの『地殻変動』を与えているかなど、当の私は微塵も知る由がなかった。
数日後。都心の某所にある、一見さんお断りの超高級料亭。
重厚な静寂が包み込む一室に、日本の政治、経済、そして流通を裏から牛耳るとされる、政財界の重鎮たちが一堂に会していた。
普段は日本経済の動向を冷徹に見下ろしている彼らの顔は今、例外なく青ざめ、額からは脂汗がだらだらと流れ落ちていた。
彼らが息を呑みながら見つめているのは、畳の上に大きく広げられた、日本地図――ではない。
泥川電鉄が全国の提携路線を網羅して作成した最新の『泥川グループ全国温泉巡りスタンプマップ(試作版)』であった。
「バ、バカな……! なんということだ……! 奴は、あの泥川電鉄の黒田という男は、『温泉』という大衆向けの安易な娯楽を絶妙なダシにして、全国のローカル線を次から次へと泥川グループの傘下に収めているというのか……!?」
一人の老政治家が、震える指でマップの一点を指差した。
「この提携スピードを見ろ! 赤字で誰も見向きもしなかった辺境の路線が、駅前に温泉が一つできたというだけで、瞬く間に黒字化している! それどころか、これまで車社会に押されていた地方都市の住民たちが、こぞって『泥川の温泉パスポート』を買い求め、自家用車を手放して鉄道を利用し始めているのだ!」
「駅前にあれほど魅力的な温泉と、地元の利権を絡めた茶屋を作られてしまっては、観光客も、そして物流の要たる労働者たちも、全員が泥川電鉄の網の目に飛び込んでいく……! これでは、これまで我々が莫大な予算を投じて築き上げてきた全国の高速道路網や、既存の大手航空・流通網が、全てあの黒田という男の手中に収まってしまうではないか!!」
財界の巨頭が、バンッと激しく机を叩いた。彼の目には、黒田宗次という存在が、底知れない恐怖の魔王か何かに見えているようだった。
「国家防災協力機関という政府のお墨付きを盾に、誰も文句のつけられない『地方救済』という大義名分を掲げ、その裏で全国のインフラを音もなく侵食していく……。なんという恐ろしい、冷徹な男だ……! 表向きは『のんびり温泉巡りを楽しんでいるだけの隠居老人』を完璧に装いながら、その実、国家の全インフラを裏から完全支配する、恐るべき超巨大メガ構想を冷酷に進めているのだ……っ!!」
「しかも、奴の背後にいるあの雑用係の霧島という男……。全国の隠れ源泉の位置を全て把握しているなど、我が国の最高情報機関すら上回る諜報網を持っている証拠だ! 泥川電鉄、恐るべし……! 我々は完全に、奴の手のひらの上で踊らされていたのだ……!」
重鎮たちは勝手に深読みし、ありもしない黒田の「日本支配計画」の幻影に怯え、互いに顔を見合わせてガタガタと震え上がっていた。
もし今、彼らが「泥川の傘下に入りたい」と懇願すれば、国家の予算すら動くかもしれない――そんな極限状態が、その密室で形成されつつあった。
そんな政財界のトップたちが、勝手に世界の終わりかのような大パニックに陥っているとは夢にも思わず。
その頃、私はとある山奥の駅前に新設された、出来立てほやほやの「天然硫黄の湯・泥川山ノ神駅前足湯」にどっぷりと足を浸けていた。
湯気の向こうには、少しずつ色づき始めた美しい山々の紅葉が広がっている。横の茶屋から運ばれてきた、出来立てのみたらし団子を口に放り込み、霧島が淹れてくれた熱いお茶をすする。
「あ〜〜〜、いい湯だなぁ。やっぱり温泉は、日本人の心の故郷だねぇ、千代ちゃん」
「そうですね、宗次さん! 地元の皆さんも『これで移動が楽になるし、毎日温泉に入れる』って大喜びですよ! 宗次さんのおかげで、また一つ街が救われました!」
「いやいや、私はただ、毎日違う美味しいお湯に入りたかっただけだからねぇ。いやぁ、極楽極楽」
私はどこまでも広がる秋の空を見上げながら、ただただ極上の一時に浸っていたのだった。
徒歩十秒で極上の露天風呂に入れる『一駅一温泉計画』。ただ全国の温泉にタダで入りたいだけの黒田だったが、これを見た政財界の重鎮たちは「国家インフラを裏から完全支配するメガ構想だ……!」と大パニックに陥る。




