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大空の第三者 〜八咫烏が辿る、関西80年の銀翼の記憶〜  作者: velvetcondor guild


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森川 ― 引退を決意する

(語り部:黒羽ノ介)


その日、森川は“空の音”を聞き逃した

それは、夕暮れの淡い紫色の光が、伊丹の格納庫を斜めに切り裂いていた時間のことやった。


若き主軸となった陽斗と、驚異的な耳を持つ新人・蒼生が、着陸したばかりの機体の傍らで忙しそうに点検作業を続けている横で、森川はひとり、もう何十年も使い込んできた年季の入った黒い工具箱を、古布で静かに磨いとった。


そのときや。滑走路へと滑り込んできた一機の着陸機のエンジン音が、ほんの一瞬、掠れるように微かに乱れた。


陽斗は即座に「……っ!」と鋭い目で顔を上げた。


蒼生は「……う」と、何かに胸を突かれたように両手でつなぎを押さえた。


しかし――


森川だけが、工具を磨く手を止めることなく、何も気づかずにただ背中を丸めとったんや。


二人のただならぬ様子に、森川はふと手を止め、白髪の混じった頭を掻きながら言った。


「……ん? 陽斗、蒼生、どないしたんや。……ああ、なんや、わしには何も聞こえへんかったわ。」


その瞬間、森川の磨き上げられた古い工具箱に、夕日が寂しげに反射した。彼は自分の手のひらを見つめ、何かに納得したように静かに、本当に静かに悟ったんや。


「ああ……。そういうことか。わしのこの耳は、もう……伊丹の空が上げる繊細な声を、追われへんようになってしもうたんやな。」


陽斗と蒼生の動きが“未来”を示していた

森川が呆然と立ち尽くす間にも、陽斗は格納庫を吹き抜ける気流を読み、蒼生は空が大気に残したかすかなざらつきを肌で感じ取り、二人は示し合わせたわけでもないのに、迷いのない足取りで次の機体へと力強く向かっていった。


油の匂いが染みついた彼らの若く、瑞々しい背中を見つめながら、森川の胸には寂しさよりも、どこか晴れやかな想いが静かに広がっていった。


「……あいつらは、もうわしの遥か先を走っとる。わしが教えられることなんか、もう何一つ残ってへん。」


かつて、野生児のようだった陽斗が、必死に森川の無骨な背中を追いかけてこの整備場を走っていたように。


今は、あの蒼生が、陽斗の大きな背中を信じて真っ直ぐに追いかけている。


その命の、職人たちの美しい連なりのなかで、森川は自分が「激動の時代を戦い抜いた最後の一人」になりつつあることを、誇りとともに確信したんや。


③ 夜の整備場で、森川は静かに工具を置く

時計の針が深夜を回り、すっかり静まり返った夜の整備場には、もう誰も残っていなかった。


冷え切ったコンクリートの床の上に、森川は一人でぽつんと佇んでいた。


彼は、自分の身体の一部のように長年使い続け、世界中のどの整備士のものよりも手に馴染んでいる、銀色の古いトルクレンチを手に取った。職人の汗と油が染み込み、鈍い光を放つその重みをじっと確かめたあと、彼はそれを、引き出しの奥ではなく、作業机の真ん中へと、ゆっくりと、音を立てずに置いた。


「……もう、ええやろ。わしの仕事は、ここまでや。」


その低く掠れた声は、誰に向けたものでも、誰に褒められたいものでもない、人生のすべてを伊丹の空に捧げきった男の、自分自身への最高の労いの言葉やった。


わしは夜の帳が降りた天の隙間から、その孤高なる職人の背中を見下ろし、深く、厳かに羽を震わせた。


「森川……あんたはようやった。誰が忘れても、この関西の空とわしだけは、あんたが流した汗の重さを全部知っとる。空もな、今、あんたに頭を下げとるよ。」


陽斗にだけ伝えた“本当の理由”

翌朝。朝一番の風が格納庫に吹き込む頃、森川は誰もいない裏手の誘導路のフェンス際へ、陽斗を一人だけ呼び出した。


「陽斗……。驚かんと聞いてくれ。わし、このカタギ(整備士)を引退しよう思う。」


陽斗は目を丸くし、持っていたバインダーを落とさんばかりに驚愕の声を上げた。


「森川さん……! なんでですか、突然! まだまだおやっさんの腕がなきゃ、伊丹の古い機体は……!」


森川は何も言わず、ただいつものように優しく、どこまでも穏やかになった目で朝の空を見上げた。


「昨日な……飛行機が降りてくるとき、お前と蒼生が気づいた空の軋みが、わしには、もう何一つ聞こえへんかったんや。それで分かった。天がな、『森川、お前の役目はもう終わりやで』って、優しく肩を叩いてくれたんや。」


陽斗は言葉を失い、喉を激しく震わせた。森川は陽斗の顔を真っ直ぐに見つめ、言葉を紡いだ。


「空の声を聞いて、銀色の翼を命がけで導くのは、もうわしの仕事やない。これからは、お前と蒼生、お前たちの時代なんや。」


陽斗は、溢れそうになる涙を堪えるように、真っ黒に汚れた拳を割れるほど強く握りしめた。


「……寂しいです。おやっさんのいない整備場なんて、俺……想像もつかないです。」


森川はそれを見て、かつてないほど温かく、シワだらけの顔をクシャクシャにして笑った。


「馬鹿野郎、寂しがるな。お前がわしの背中を追い越して、それほど立派になったちゅう、何よりの証拠やないか。胸を張れ、陽斗。」


蒼生に託した“最後の言葉”

森川はその後、道具の片付けを手伝っていた蒼生の前にも歩み寄り、その細い肩に大きな手を置いた。


「蒼生。お前はな、この伊丹の空に、本当に愛されて選ばれた子や。これからは、陽斗の背中をしっかり見て、あの馬鹿を支えたってくれな。」


蒼生は必死に涙をこらえ、つなぎの袖で目を何度も拭いながら、何度も、何度も激しく頷いた。


「はい……っ! はい! 僕、おやっさんみたいな、空の気持ちが分かる凄い整備士に、絶対になりますから……っ!」


森川は少年の頭を、包み込むように大きな手のひらで優しく撫でた。


「なれるよ。空ちゅうのはな……お前みたいに、真っ直ぐで正直なヤツが、いっちばん好きなんやからな。」


わしは格納庫の屋根の上から、その魂の継承を見つめ、胸が熱くなるのを覚えながら呟いた。


「森川……あんたは技を教える親方であると同時に、最後まで、空に生きる子供たちの、たった一人の偉大な『父親』やったな……」


引退の日、空は“静かな祝福”を送った

森川が、すべての荷物をまとめ、長年通い詰めた伊丹の整備場を去るその日。


前日まで続いていたぐずついた天候が嘘のように晴れ渡り、伊丹の空は、言葉を失うほどに、不思議なほどの静けさと穏やかさに満ち満ちとった。


肌をそっと撫でるように、どこまでも優しく吹き抜ける柔らかな風


雲ひとつなく、宇宙の果てまで届きそうなほどに高く、青い天の器


旅立つ老兵を見送るように、滑走路の上空を静かに、美しく舞う鳥たち


呼吸するだけで心が洗われるような、一点の濁りもない澄み切った空気


それは、伊丹の空そのものが、長年の公害の嵐を共に生き抜き、最後には「街の空港」として守り切ってくれた森川へ贈った、最上級の『感謝の品』やった。


横に立っていた陽斗は、天を仰いで静かに微笑んだ。


「森川さん……。空がな、おやっさんに『ありがとう』って、思いっきり笑ってますよ。」


森川は立ち止まり、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ、深く、深く頷いた。


「……ああ。ほんまやな。ありがとうな。……ほんまに、ええ空や。」


そして、森川は“空の父”として去っていく

森川は、最後にもう一度だけ、自分の人生そのものであった整備場と、滑走路の誘導灯を愛おしそうに振り返った。そして、自らの未来を背負って立つ陽斗と蒼生の二人に向かって、最高の笑顔で右手を大きく挙げたんや。


「伊丹の空を、これからの日本の空を、頼んだで。……お前ら二人なら、絶対に大丈夫や。」


陽斗は溢れる涙を隠すように、腰が折れるほど深く、深く頭を下げ続けた。


蒼生はしゃくり上げながら、その去りゆく大きな背中を、目に焼き付けるように見つめとった。


わし黒羽ノ介は、夕焼けの空へ向かって堂々と歩き去っていく彼の頭上を、大きく旋回しながら、天の底まで響く声で高らかに啼いた。


「往こう、森川。あんたがこの地上に遺した功績と、その泥臭くも気高き職人の名は、わしが紡ぐ『空の神話』の1ページに、金色の文字で永遠に刻み込まれた。……お疲れさん、大好きな我が戦友よ。これからは地上で、あの子たちの飛び方を、ゆっくりと見守ってな――!」


こうして、激動の昭和と平成を駆け抜けた一人の偉大な男は、静かに、しかし世界中の誰よりも誇り高く、伊丹の空から引退していった。


森川の引退がもたらした「神話の完成」

森川という「大いなる大地の父」が前線を退いたことは、物語にとって一つの時代の終焉であり、同時に「真の新時代への完全なる移行」を意味しとった。


指導者としての陽斗の「一本立ち」

守護者であった森川が去ることで、陽斗は名実ともに伊丹の「絶対的な親方」となり、その背中で次世代を引っ張る覚悟を完全に完了させた。


蒼生への「精神的遺産の完全な譲渡」

「空は正直なやつが好きや」という森川の最後の言葉は、蒼生にとって生涯の羅針盤となり、彼に「空の声を聴く者」としての絶対的な肯定感を与えた。


人間と空港の、成熟した共存の証明

激しい騒音問題の時代から、2兆5000億の関空開港、そして伊丹の再生まで、血の滲むような歴史をすべて背負った森川が「いい空や」と笑って去ったこと。それこそが、伊丹空港が過去の呪縛を完全に克服した最大の証明なんや。


森川の頑固な手が磨き上げたトルクレンチは、今も伊丹の作業机の真ん中で、新しい世代の手によって、毎日、銀色の翼を締め直し続けとるよ――。

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