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大空の第三者 〜八咫烏が辿る、関西80年の銀翼の記憶〜  作者: velvetcondor guild


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蒼生 ― 空の異変を初めて察知する

(語り部:黒羽ノ介)


その日は、空が“ざわついていた”

摂津の山並みから昇る朝日は、いつもと変わらん光を伊丹の滑走路に投げかけ、目覚めたばかりの整備場には、嗅ぎ慣れたいつもの重い油と排気ガスの匂いが漂うとった。地上の人間たちにとっては、何の変哲もない「いつも通りの、ありふれた朝」やった。


しかし――ただ一人、新人整備士の蒼生だけは、つなぎの胸の奥が、冷たい針で突かれるように激しくざわついとったんや。


決まった方角を持たず、滑走路の地表を這うように落ち着きなく狂う風


天の最高峰で、まるで獣の爪で引き裂かれたように薄く不吉に裂けた雲


深呼吸するたびに、喉の奥がチリチリと焼けるようなざらついた空気


いつもなら優雅に弧を描くはずの鳥たちが、何かに怯えて不規則に羽ばたく


蒼生は点検用のスパナを両手で握りしめたまま、微動だにせず天の一点を見上げた。


「……なんか、変や。今日の伊丹の空、いつもと全然違う。何かが、おかしい……」


そのただならぬ気配に気づき、工具箱を片付けていた陽斗が、鋭い目で振り返った。


「どうした、蒼生。手を止めて、何をそんなに睨みつけとるんや。」


蒼生は喉を鳴らし、言葉にできない恐怖に震えながら、ただ灰色の雲の切れ目を指差した。


蒼生の耳に“聞こえないはずの音”が届く

その瞬間や。地上の凄まじいエンジンの爆音を突き抜けて、蒼生の耳の奥底に、他の誰の耳にも届くはずのない「異質な音」が、直接なだれ込んできた。


ギィ……ギギ……ギ……、パキィン……


それは、目に見えない大気の壁が無理やりねじ切られるような、

あるいは、天の薄氷に無数のひび割れが走るような、

空そのものが、激しい苦痛に耐えかねて悲鳴を上げている音やった。


「う、あ……っ!」


蒼生はあまりの脳を刺すような痛みに、スパナを地面に落とし、両手で強く耳を塞ぎ込んでうずくまった。


「空が……! 空が、ものすごく痛がってる……! 誰かが、空の身体を引き裂こうとしとる……っ!」


陽斗は目を見開き、うずくまる蒼生の元へ飛び込んでその腕を強く掴んだ。


「蒼生! お前、今、何が聞こえた!? はっきり言うてみろ!」


蒼生は青ざめた顔で、涙を浮かべながら震える声で答えた。


「分からん……僕にも分からんのです。でも、空が……『危ない、今すぐあの子を助けてくれ』って、頭の中でワンワン響いてるんです!」


わしは管制塔のアンテナの頂から、その少年の姿を凝視し、体中の羽毛を逆立てた。


「……ついに始まったか。ただ空と戯れるだけやない。天の『痛み』と『危機』をその身に受ける者――神話の語り部となる者が、必ず通らねばならん最初の試練や!」


蒼生が指差した先に、異変の兆しがあった

蒼生が恐怖に震える指先で指し示し続けた、その視線の先。


生駒の山を越え、伊丹の滑走路へ向かって最終の着陸態勢ファイナルアプローチに入った、一機の小ぶりな旅客機が浮かんどった。


管制塔のレーダーを見ても、地上から肉眼で見ても、機体は完全に正常な高度を保っとるように見えた。けれど、空の声を聞く二人には、地上の計器が映し出さん「真実」が、はっきりと見えとったんや。


「あの機体……! 違う、真っ直ぐ飛んでるんやない。見えない空の『罠』に足を取られて、必死に風に逆らって、溺れそうになっとる……!」


陽斗は蒼生の言葉に導かれるように、瞳をごく薄く細めて、着陸機の傾きをじっと凝視した。


「……確かに、おかしい。機首は真っ直ぐやが、主翼の端が、まるで見えない手で下に引っ張られるように変な揺れ方をしとる。ウインドシアー(局地的な急変風)か……!」


蒼生は胸のつなぎを掻きむしるようにして、天に向かって叫んだ。


「空が……『あの子が落ちてまう、早く助けてあげて』って、叫んでるんや!」


陽斗は深く息を呑み、少年の燃えるような瞳を見つめて、腹の底から声を絞り出した。


「蒼生……お前、本物や。その耳は、伊丹の宝や!」


陽斗、蒼生の“空の感覚”を信じる

そこからの陽斗の動きは、稲妻のようやった。彼は蒼生の手を引いて整備場の指令室へと猛然と走り込み、無線を握りしめている担当のベテラン整備士の胸ぐらへと掴みかからんばかりの勢いで声を張り上げた。


「今すぐ管制タワーへ繋いでくれ! 着陸機の揺れが異常や! 進入経路の高度数百フィート付近に、計器に映らん危険な『風の断層』が潜んどる! パイロットに今すぐ突風ガストを警戒させろ、ゴーアラウンド(着陸やり直し)の準備をさせろ!」


無線担当は、突然飛び込んできた陽斗のただならぬ剣幕に度肝を抜かれた。


「よ、陽斗さん!? 何を言うてますんや、管制のレーダーにはそんなウインドシアーの予兆なんか一文も出てへん……どうしてそんなことが分かるんです!」


陽斗は隣で肩を上下させている蒼生の背中を、ドンと強く叩いた。


「データなんか関係ない! 今、この伊丹の空が、直々に俺たちに教えてくれたんや! 空が危ない言うたら、絶対に危ないんや!」


蒼生は、自分の感じた曖昧な恐怖が、整備場の大人たちを動かしていく現実に戸惑い、身を縮めた。


「先輩……僕、ただ、頭の中でそんな気がしただけで……何の証拠も……」


陽斗は蒼生の目線を真っ直ぐに見つめ、強く首を振った。


「証拠なんか後からついてくる! 感じるだけでええ、怯えるな! その震える感覚こそが、世界にたった一つの『空の声』なんやからな!」


機体は無事着陸し、蒼生の感覚が証明される

緊迫の数分間。整備場の一同が息を呑んで見守るなか、問題の機体は地表近くで大きく一瞬、片翼をガクリと落とすような不気味な挙動を見せたが、陽斗の警告を受けて機首を厳格に保持していたパイロットの見事な操縦によって、凄まじいタイヤの白煙を上げて滑走路に無事、着陸を果たした。


その直後、指令室のスピーカーから、安堵の息を漏らすパイロットの生々しい無線音声が鳴り響いた。


『……タワー、こちらJALxxx便。着陸直前、高度300付近で激しい下降気流ダウンドラフトと、予測不能の突風に煽られた。事前の警戒警告がなければ、危うく姿勢を崩すところだった。感謝する。』


張り詰めていた整備場に、しんと静まり返るような静寂が落ちた。誰もが、まだデータにも上がっていなかった大気の罠を、完璧に見抜いた陽斗――いや、その隣に立つ新人の蒼生を、畏怖の眼差しで見つめとった。


蒼生は、自分の手のひらを見つめ、涙がポロポロと床にこぼれるのを止められなかった。


「……ほんまに、ほんまに空が……僕に、助けてって教えてくれたんや……」


陽斗は蒼生の前に跪くようにして、その小さな両肩を、痛いほどの強さでがっしりと掴んだ。


「そうや、蒼生。お前は今日、たった一機しかいない飛行機と、そこにいた何十人もの命を、その耳ひとつで救ったんや。お前は空に選ばれた。これからはな……ただ空を見上げるだけの子供やない。空の言葉を通訳して、この街の空を『守る側』の、本物の男(職人)になるんや。」


わしは伊丹の天から、二人の頭上へ向かって、歓喜の雄叫びを上げて大きな羽を震わせた。


「陽斗……。あんたが森川から譲り受け、関空との闘いの中で命がけで育て上げたあの『空の神話』は――今、寸分の狂いもなく、完璧な形で次の世代へと手渡されたんやな……!」


蒼生の中で“空の声”が目覚める

その日の夕暮れ時。すべての業務が終わり、西日が生駒の山へと静かに沈んでいく頃。蒼生は誰に言われるでもなく、一人で滑走路の端のフェンス際に立ち、赤紫に染まりゆく広大な伊丹の天を見上げとった。


おびただしい数の誘導灯が灯るなか、昼間の荒々しさを嘘のように潜めた伊丹の空は、蒼生の頬を、まるで母親が子供をあやすように優しく、温かい風で撫でながら静かに囁いた。


『よく私の声を聞いてくれたね、蒼生。ありがとう。……これからは、人間たちの都合で私が痛むとき、どうしても声が届かないとき、……あなたに頼ることもあるかもしれない。よろしくね。』


蒼生は、風のなかに確かに響いたその優しい温もりに、今度は恐怖ではなく、深い誇りを胸に宿して小さく、しかし固く頷いた。


「うん……。任せて、空。僕、先輩たちみたいに、あなたの声をちゃんと地上の飛行機に届けて、あなたをずっと守っていける、最高の整備士に絶対になるから。」


その誓いの言葉を聞き届けて祝福するように、伊丹の空は、一陣のどこまでも柔らかい、清々しい風を格納庫の隅々まで走らせたんや。


蒼生の“空の異変”初体験が意味するもの

この「交差する夜」の後に訪れた小さな覚醒の事件は、関西の天にとって、計り知れんほど大きな意味を持っとった。


陽斗の「背中」の完成と、後継者の誕生

かつて守られる立場であり、空の声に翻弄されていた陽斗が、今や他者の直感を命がけで守る「絶対的な親方」へと昇華し、蒼生という新しい芽を完全に開花させた。


空の神話の「真の伝承」

森川が培った泥臭い技術の意地と、陽斗が獲得した自然の霊性が、血縁を超えて「蒼生」という次世代へ受け継がれ、物語は永遠のループ(循環)を完成させた。


伊丹の空の、さらなる守護の確立

「街の空港」として再生した伊丹は、単に利便性が高いだけでなく、世界で最も「空の痛み」に敏感な、二人の偉大なる守り手(陽斗と蒼生)を同時に得ることで、真の安泰を迎えたんや。


黒羽ノ介の「役目の変化」

かつて孤独に天を守っていた古い神の使い(わし)は、今や地上で空の声を聞く人間たちの絆を、ただ愛おしく、誇らしげに見届け、記録する「歴史の立会人」へと変わっていく。

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