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大空の第三者 〜八咫烏が辿る、関西80年の銀翼の記憶〜  作者: velvetcondor guild


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伊丹 ― 騒音の時代が忍び寄る

(語り部:黒羽ノ介)


空の流れが“重く”なった日

だが、その黄金期のあまりの眩しさの裏側で。


ある日の朝、伊丹の空に、言葉にできないほどかすかな、しかし決定的な違和感が走った。


吹き抜ける風の肌触りが、どこかざらつく


大気全体の圧力が、妙に重苦しい


雲の位置が低く垂れ込め、すっきりと晴れ渡らない


空の異変を敏感に察知した鳥たちが、飛ぶ高度をあからさまに変える


わしは高みからその大気の震えを察知して、胸が騒いだ。


「……空が、人間たちの熱気に圧されて、疲れ始めとる。」


地上でも、森川が機体の下から這い出てきて、額の汗を拭いながら眉をひそめた。


「なんや……今日の空気、前よりずいぶんと重苦しくないか?」


少年もまた、乱れた風の流れをじっと見つめながら、表情を曇らせた。


「……風の流れが、細かくねじれて乱れてます。これは、今までの自然の乱れやない……」


それこそが、休むことなく飛び交う巨大なジェット機たちの増加が、知らず知らずのうちに生み出していた「空の歪み」の始まりやった。


ジェット機の轟音が、伊丹の街を揺らし始める

最新鋭の大型ジェット機の導入は、確かに伊丹の空を世界へと繋げ、経済を豊かにした。


しかし、その圧倒的な力は同時に――地上の人々の生活を、容赦なく脅かし始めていた。


離陸の瞬間に放たれる、雷鳴のような凄まじい爆音


着陸時に地響きを立てる、巨大な逆噴射の衝撃


深夜の静寂を切り裂いて行われる、延々としたエンジンテストの咆哮


滑走路のすぐそばにある住宅地では、日常的に窓ガラスが激しく震え、家々が鳴動した


森川は、耳を突き刺すような轟音の渦の中で、工具を握りしめたまま呟いた。


「……この音、便利になるのと引き換えに、前よりずっと凶暴になっとるな……」


少年は、煤煙でわずかに霞む空を見上げて、胸を痛めるように言った。


「空が……無理をさせられて、悲鳴を上げとるみたいです。」


黒羽ノ介は羽を固く震わせた。


「あんたら……これが、避けては通れん“騒音の時代”の幕開けや。」


住民の声が、空港へ届き始める

いつしか、華やかな旅客ターミナルの外側に、空港の周辺で暮らす人々が集まり、声を上げ始めていた。


「飛行機の音がうるさくて、子どもが夜中に何度も目を覚まして泣くんです」

「家が四六時中揺れて、まともに心が休まらない」

「学校の授業中、先生の声が爆音で何度もかき消されてしまう」

「いつか、あの巨大な鉄の塊が落ちてくるんじゃないかと、毎日が怖い」


森川は整備場の片隅でその切実な叫びを耳にするたび、胸が張り裂けそうになるのを感じていた。


「俺たちが、命を預かる想いできれいに整備して送り出した機体が……地上の、誰かの平穏な生活を苦しめとるんか……」


少年は自分の手を見つめ、静かに答えた。


「空は、多くの人を幸せに運ぶ場所です。でも……近づき方を間違えれば、牙を剥いて、人を深く傷つけることもある。」


黒羽ノ介は、その二人の苦悩を空から見つめて思った。


「空の光が強くなればなるほど、地上の影もまた、どこまでも濃く、暗くなっていくんやな。」


空港と街の“距離”が縮まりすぎた

伊丹空港は、もともとはのどかな田園風景の、広い農地の中に作られた飛行場やった。


しかし、この国の急激な高度経済成長に伴って、街は空港を取り囲むようにして爆発的に広がっていった。気づけば、数え切れないほどの家々が、滑走路のすぐ間近までびっしりと迫り立っていた。


密集した住宅地の真上を、低空でかすめるように設定された航路


屋根を揺らすほどの、容赦のない低空飛行の轟音


早朝から深夜まで、絶え間なく繰り返される離着陸


人々の穏やかな生活の場と、巨大な近代的空港が、互いの領域を激しくぶつけ合っていた


森川は、整備室の壁に貼られた周辺一帯の最新の地図を見つめながら言った。


「いつの間に……こんなにギリギリまで家が増えとったんや。これじゃ、街の中でエンジンを回しとるようなもんやないか。」


少年は、窓の外で低く機体を傾けて旋回していく旅客機を見つめて呟いた。


「空の道と、人の暮らしが……近すぎるんです。」


黒羽ノ介は思った。


「重なりすぎてしまったんや。人間の作った二つの豊かさが、ここで互いを圧迫し合っとる。」


空の流れが“乱れ”始める

わしの鋭い目から見ても、この時代の伊丹の空は、かつての美しい秩序を失い、異様な荒れ方を見せ始めていた。


不自然にねじれ、反発し合う上昇気流と下降気流


ジェットの排気によって、引き裂かれるように不自然な形に変形する雲


大気の底に淀む、煤煙と熱気による見えない空気の震え


飛び慣れたはずの鳥たちが、戸惑うように迷いながら何度も羽ばたきを変える


わしは荒れる風の中で呟いた。


「空そのものが……悲しみ、疲弊しとる。」


地上でも、森川が着陸してきたパイロットからの報告書を見て顔をしかめた。


「やっぱりな……最近、伊丹の周辺での機体の不自然な揺れが、明らかに増えとる。」


少年は、夕闇の迫る空の、どこか険しい色を読みながら静かに言った。


「空が……『これ以上、無理を言わんといてくれ』って、怒っとるのかもしれません。」


それでも二人は“空を守る”ことを選ぶ

住民の苦情は日に日に激しさを増し、社会的にも空港の存在意義そのものが大きく揺らぎ始めていた。「伊丹空港は廃止すべきだ」という過激な声さえ聞こえ始める復興の嵐の中で。


それでも、森川と少年は、頑なに整備場のコンクリートの上に立ち続けた。


森川は、大型工具をきつく締め直しながら、己に言い聞かせるように言葉を絞り出した。


「地上の苦しみもわかる。胸が痛い。……せやけどな少年、空がどんなに荒れても、空港がどんなに責められても、俺らはこの翼を、完璧に安全な状態で守り抜く整備士や。そこだけは、絶対に逃げたらあかん。」


少年は、その森川の言葉に、あの日坂東から受け継いだ決意を重ねて力強く頷いた。


「はい。空は、人間にどれだけ無理をさせられても、決して嘘はつきません。だから……俺たちも、この手の中で絶対に嘘はつきません。完璧に直して、無事に帰す。それだけです。」


黒羽ノ介は空の高みから、その揺るぎない二人の背中を見つめて、深く、静かに思った。


「あんたらは……この引き裂かれそうな騒音の時代という深い試練の中でも、空と人を繋ぐ最後の砦として、守り手であり続ける覚悟を決めたんやな。」


騒音の時代は、伊丹の空の“試練”やった

世界へと開かれた黄金期のまばゆい輝き。


それに伴う、巨大なジェット機たちの急激な増加。


瞬く間に空港を飲み込むように拡大していった、地上の街。


平穏を奪われた住民たちの切実な叫びと、それに応じるようにして乱れていく空の空気。


そのすべてが複雑に絡み合い、伊丹空港は歴史上、最も暗く、最も激しい「騒音の時代」という名の深い試練へと突き進んでいく。


しかし――その激流の渦中、油に塗れた格納庫の中心で、森川と少年は決して諦めることなく、ただひたすらに、誠実に空を守り続けた。


黒羽ノ介は、そのどこまでも気高い二人の姿を、傷ついた雲の隙間から見守りながら、祈りを込めて呟いた。


「あんたら二人のその不屈の誇りと、嘘のない両手だけが……いま、崩れかかりそうな伊丹の空を、確かに支えとるんや。」

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