表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大空の第三者 〜八咫烏が辿る、関西80年の銀翼の記憶〜  作者: velvetcondor guild


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/81

17

黒羽ノ介 ― 空の変化に戸惑う

(語り部:黒羽ノ介)


米軍が伊丹へ来てから、わしは眠れん夜が増えた。

 

八咫烏は、本来眠らん。

千年のあいだ、風を読み、空を渡り、人の行く先を見守ってきた。

 

せやけど――。

 

この頃のわしは、妙に胸がざわついていた。

 

理由は分かっとる。

 

空や。

 

伊丹の空が、わしの知っとる空やなくなり始めていた。

 

夜明け前。

 

わしは猪名川の上をゆっくり旋回していた。

川霧が流れ、山から湿った風が下りてくる。

その感触は、昔と変わらん。

 

千年前から、この土地の朝は同じ匂いをしていた。

 

春は土の湿り気。

夏は青葉の熱。

秋は乾いた草。

冬は山から降りる冷たい風。

 

全部、身体に染み込んどる。

 

それが“日本の空”やった。

 

けれど。

 

東の空から、低い唸り声が近づいてくる。

 

ゴォォォォォ――。

 

腹の底へ響くような重い音。

 

銀色の巨体が雲を裂き、伊丹へ降りてくる。

 

米軍機や。

 

その瞬間、空気の流れが変わる。

 

山から来る風が押し返される。

雲の筋が乱れる。

鳥たちが散る。

 

わしは翼を止め、じっとその流れを見つめた。

 

「……違う。」

 

日本の機体は、風を切る。

 

せやけど米軍機は違った。

 

風を押し潰す。

空そのものを押しのけながら飛ぶ。

 

その感覚が、わしにはどうにも落ち着かんかった。

 

滑走路へ降りるたび、空の“呼吸”が乱れる。

 

わしが千年かけて覚えてきた風の道が、少しずつ書き換わっていく。

 

「この風……読めん。」

 

その言葉を口にした瞬間、自分で驚いた。

 

風を読めん。

 

八咫烏であるわしが、そんなことを思う日が来るとは思わんかった。

 

昼になると、基地には異国の匂いが満ち始める。

 

濃い油。

焼けた金属。

煙草。

コーヒー。

缶詰の肉。

知らん香辛料。

 

それらが夏の熱気と混ざり、伊丹の空気を変えていった。

 

昔の伊丹は、土と草の匂いがした。

 

田畑があり、川が流れ、夕方になると飯の匂いが町を漂っていた。

 

それが今は、鉄と油の匂いになっとる。

 

格納庫の鉄骨に止まりながら、わしはその空気を吸い込んだ。

 

「空は国境を持たんはずやのに……。」

 

そう呟いた。

 

「匂いは、国境を越えてくるんやな。」

 

その時や。

 

下で少年と坂東が笑っとった。

 

工具箱を挟んで、英語の発音を真似しとる。

 

「トルク。」

 

「トーク。」

 

「ちゃうちゃう!」

 

二人が吹き出す。

 

その笑い声を聞いて、わしの胸が妙に締めつけられた。

 

少年は、もう変化を受け入れ始めていた。

 

怖がりながらも、新しい空の中で生きようとしている。

 

けれど、わしは違った。

 

わしだけが、取り残されとる気がした。

 

八咫烏は、空の記憶を抱えて生きる存在や。

 

風の記憶。

雲の記憶。

飛び立った者の記憶。

墜ちた者の記憶。

祈りの記憶。

 

その全部を背負って、空を渡る。

 

けれど今、伊丹の空には新しい記憶が流れ込んできていた。

 

英語の怒号。

異国の機影。

知らん音。

知らん匂い。

 

それらが、昔からあった記憶を少しずつ押し流していく。

 

わしは怖かった。

 

「わしの知っとる空が……消えていく。」

 

その恐れは、戦争の時とは違った。

 

戦争は、いずれ終わる。

 

せやけど“変化”は終わらへん。

 

時代は流れ続ける。

空も変わり続ける。

 

その流れに、わしは初めて戸惑っていた。

 

夕暮れ。

 

少年は一人で滑走路の端に立っていた。

 

赤く染まった空を、じっと見上げている。

 

遠くで米軍機が着陸し、重い風が地上を撫でる。

 

それでも少年は、目を逸らさんかった。

 

「空は変わっても……。」

 

ぽつりと呟く。

 

「ぼくは空のそばにおる。」

 

その声は静かやった。

せやけど、不思議なくらい強かった。

 

わしは、その背中を見下ろしながら思った。

 

「あんたは強いな。」

 

ほんまに強い。

 

空に裏切られても。

戦争を見ても。

焼け跡を歩いても。

 

それでも、まだ空を愛そうとしている。

 

けれど――。

 

「わしは、まだ怖い。」

 

その言葉は、誰にも届かん。

 

八咫烏が恐れを口にするなど、本来あってはならんことや。

 

導く者は迷わん。

それが八咫烏や。

 

せやのに今のわしは、変わりゆく空の前で立ち尽くしていた。

 

夜になる。

 

滑走路の灯りが一本の光の川みたいに浮かび上がる。

赤、青、白。

異国の飛行機が、その上をゆっくり滑っていく。

 

わしは高い空を旋回した。

 

風が変わる。

音が変わる。

匂いが変わる。

 

空の道そのものが変わっていく。

 

けれど。

 

その変化の中でも、変わらんものがあった。

 

少年の目や。

 

あの子は、今も同じ目で空を見とる。

 

恐れながら。

傷つきながら。

それでも空を見上げとる。

 

その姿を見た時、わしは少しだけ息を吐いた。

 

「……そうか。」

 

空は変わる。

 

せやけど、空を見上げる心までは消えへんのやな。

 

わしは夜風の中で翼を広げた。

 

「あんたが迷わんように、わしが風を読む。」

 

たとえ、この空がわしの知らん姿へ変わっていっても。

 

その道の先を見届けるのが、わしの役目や。

 

その時ようやく、わしは少しだけ理解した。

 

変わることは、失うことだけやない。

 

新しい空が生まれる、いうことなんやと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ