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黒羽ノ介 ― 空の変化に戸惑う
(語り部:黒羽ノ介)
米軍が伊丹へ来てから、わしは眠れん夜が増えた。
八咫烏は、本来眠らん。
千年のあいだ、風を読み、空を渡り、人の行く先を見守ってきた。
せやけど――。
この頃のわしは、妙に胸がざわついていた。
理由は分かっとる。
空や。
伊丹の空が、わしの知っとる空やなくなり始めていた。
夜明け前。
わしは猪名川の上をゆっくり旋回していた。
川霧が流れ、山から湿った風が下りてくる。
その感触は、昔と変わらん。
千年前から、この土地の朝は同じ匂いをしていた。
春は土の湿り気。
夏は青葉の熱。
秋は乾いた草。
冬は山から降りる冷たい風。
全部、身体に染み込んどる。
それが“日本の空”やった。
けれど。
東の空から、低い唸り声が近づいてくる。
ゴォォォォォ――。
腹の底へ響くような重い音。
銀色の巨体が雲を裂き、伊丹へ降りてくる。
米軍機や。
その瞬間、空気の流れが変わる。
山から来る風が押し返される。
雲の筋が乱れる。
鳥たちが散る。
わしは翼を止め、じっとその流れを見つめた。
「……違う。」
日本の機体は、風を切る。
せやけど米軍機は違った。
風を押し潰す。
空そのものを押しのけながら飛ぶ。
その感覚が、わしにはどうにも落ち着かんかった。
滑走路へ降りるたび、空の“呼吸”が乱れる。
わしが千年かけて覚えてきた風の道が、少しずつ書き換わっていく。
「この風……読めん。」
その言葉を口にした瞬間、自分で驚いた。
風を読めん。
八咫烏であるわしが、そんなことを思う日が来るとは思わんかった。
昼になると、基地には異国の匂いが満ち始める。
濃い油。
焼けた金属。
煙草。
コーヒー。
缶詰の肉。
知らん香辛料。
それらが夏の熱気と混ざり、伊丹の空気を変えていった。
昔の伊丹は、土と草の匂いがした。
田畑があり、川が流れ、夕方になると飯の匂いが町を漂っていた。
それが今は、鉄と油の匂いになっとる。
格納庫の鉄骨に止まりながら、わしはその空気を吸い込んだ。
「空は国境を持たんはずやのに……。」
そう呟いた。
「匂いは、国境を越えてくるんやな。」
その時や。
下で少年と坂東が笑っとった。
工具箱を挟んで、英語の発音を真似しとる。
「トルク。」
「トーク。」
「ちゃうちゃう!」
二人が吹き出す。
その笑い声を聞いて、わしの胸が妙に締めつけられた。
少年は、もう変化を受け入れ始めていた。
怖がりながらも、新しい空の中で生きようとしている。
けれど、わしは違った。
わしだけが、取り残されとる気がした。
八咫烏は、空の記憶を抱えて生きる存在や。
風の記憶。
雲の記憶。
飛び立った者の記憶。
墜ちた者の記憶。
祈りの記憶。
その全部を背負って、空を渡る。
けれど今、伊丹の空には新しい記憶が流れ込んできていた。
英語の怒号。
異国の機影。
知らん音。
知らん匂い。
それらが、昔からあった記憶を少しずつ押し流していく。
わしは怖かった。
「わしの知っとる空が……消えていく。」
その恐れは、戦争の時とは違った。
戦争は、いずれ終わる。
せやけど“変化”は終わらへん。
時代は流れ続ける。
空も変わり続ける。
その流れに、わしは初めて戸惑っていた。
夕暮れ。
少年は一人で滑走路の端に立っていた。
赤く染まった空を、じっと見上げている。
遠くで米軍機が着陸し、重い風が地上を撫でる。
それでも少年は、目を逸らさんかった。
「空は変わっても……。」
ぽつりと呟く。
「ぼくは空のそばにおる。」
その声は静かやった。
せやけど、不思議なくらい強かった。
わしは、その背中を見下ろしながら思った。
「あんたは強いな。」
ほんまに強い。
空に裏切られても。
戦争を見ても。
焼け跡を歩いても。
それでも、まだ空を愛そうとしている。
けれど――。
「わしは、まだ怖い。」
その言葉は、誰にも届かん。
八咫烏が恐れを口にするなど、本来あってはならんことや。
導く者は迷わん。
それが八咫烏や。
せやのに今のわしは、変わりゆく空の前で立ち尽くしていた。
夜になる。
滑走路の灯りが一本の光の川みたいに浮かび上がる。
赤、青、白。
異国の飛行機が、その上をゆっくり滑っていく。
わしは高い空を旋回した。
風が変わる。
音が変わる。
匂いが変わる。
空の道そのものが変わっていく。
けれど。
その変化の中でも、変わらんものがあった。
少年の目や。
あの子は、今も同じ目で空を見とる。
恐れながら。
傷つきながら。
それでも空を見上げとる。
その姿を見た時、わしは少しだけ息を吐いた。
「……そうか。」
空は変わる。
せやけど、空を見上げる心までは消えへんのやな。
わしは夜風の中で翼を広げた。
「あんたが迷わんように、わしが風を読む。」
たとえ、この空がわしの知らん姿へ変わっていっても。
その道の先を見届けるのが、わしの役目や。
その時ようやく、わしは少しだけ理解した。
変わることは、失うことだけやない。
新しい空が生まれる、いうことなんやと。




