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伊丹・米軍基地時代
少年と労務者の友
(語り部:黒羽ノ介)
昭和二十一年。
戦争が終わっても、伊丹の空は休まへんかった。
むしろ前より忙しなっていた。
朝になると、滑走路には銀色の機体が並び、異国の言葉が飛び交う。
“Move it!”
“Hurry!”
怒鳴り声。
ジープの走る音。
鉄の工具がぶつかる乾いた響き。
そして――。
コーヒーの匂いや。
あの匂いだけは、戦前の伊丹には無かった。
苦くて焦げたような香りが、油の匂いと混ざって格納庫の中を漂っとる。
少年は、その空気の中を小さな工具箱を抱えて走っていた。
軍の整備兵やった頃より、少し背が伸びていた。
けれど、まだ顔には幼さが残っとる。
ただ、目だけが違った。
空襲を生き延びた者の目。
空に憧れながら、空に怯えることも知った者の目や。
「……ここ、ほんまに伊丹なんやろか。」
少年がぽつりと呟く。
その声は、機体のエンジン音に掻き消されそうなくらい小さかった。
わしは格納庫の鉄骨の上に止まり、その姿を見下ろしていた。
地上は変わった。
言葉も、旗も、人間の服も変わった。
せやけど少年だけは、まだ空を見続けていた。
その日の昼。
少年は格納庫の隅で、一人黙って工具を磨いていた。
スパナを布で拭きながら、時々ぼんやり空を見上げとる。
その時や。
「おい坊主。」
低い声が飛んだ。
少年が振り返ると、背の高い青年が立っていた。
作業着の袖を肘までまくり、油まみれの手で煙草を弄んでいる。
年は二十代半ばくらいやろか。
目つきは鋭い。
けれど、どこか笑っとるような顔やった。
「その工具、逆さに持っとるぞ。」
少年は慌てて持ち替えた。
青年は吹き出した。
「そんな緊張せんでええ。取って食わへん。」
少年は恥ずかしそうに頭を下げた。
「……すみません。」
青年は少年の手元を見て、それから顔をじっと見た。
「お前、日本軍の整備やっとったやろ。」
少年の肩がびくっと揺れる。
「……なんで分かるんですか。」
青年は鼻で笑った。
「目ぇや。」
そう言って、自分の目を指差した。
「空を見る目ぇしとる。」
その瞬間、わしは少し驚いた。
空を見る目。
それは、わしがずっと少年の中に見てきたもんや。
それを、この青年も感じ取っとる。
青年の周りには、どこか懐かしい風が流れていた。
空の匂いや。
飛行機を恐れながら、それでも離れられん者の匂い。
「坂東や。」
青年は親指で自分の胸を叩いた。
「坂東健次。労務者やっとる。」
少年も慌てて頭を下げた。
「……よろしくお願いします。」
坂東は少年の返事を聞いて笑った。
「堅いなぁ。軍隊抜けきっとらんやんけ。」
そう言いながら、坂東は少年の工具箱を覗き込む。
「お前、工具は丁寧に扱うんやな。」
「壊れたら飛行機落ちるから……。」
その答えに、坂東は少しだけ真顔になった。
「……そうやな。」
その一瞬だけ、格納庫の騒音が遠くなった気がした。
坂東もまた、戦争を生き延びた男やった。
大阪の町工場で働いとった頃、空襲で工場を焼かれたらしい。
友達も何人か死んだ。
家族とも離れ離れになった。
それでも、なぜか飛行場へ戻ってきた。
空を憎みきれんかったんやろう。
それは少年と同じやった。
坂東は煙草を咥えたまま言った。
「まあええわ。今日からお前、俺の横ついとけ。」
「え?」
「英語分からんやろ。」
少年は悔しそうに黙る。
坂東は笑った。
「安心せぇ。俺も半分くらいしか分からん。」
少年が思わず吹き出した。
その笑い声を聞いた時や。
わしは、胸の奥が少し軽うなった。
あの空襲の日から、少年はほとんど笑わんかったからや。
それから二人は、毎日のように一緒に働くようになった。
格納庫を掃除し、工具を並べ、部品を運ぶ。
米軍整備士の早口英語に二人で首を傾げ、夜になると格納庫の裏で発音の真似までしとった。
「トルクレンチ。」
「トークレンチ?」
「ちゃうちゃう、トルク。」
「……舌噛むわ。」
二人で笑う。
そんな何気ない時間が、少年を少しずつ戦争から引き戻していった。
ある夕方。
二人は滑走路の端に座り、缶コーヒーを分け合っていた。
夕陽が滑走路を赤く染め、銀色の機体が長い影を引いている。
坂東がぽつりと言った。
「空の仕事ってな、嘘つかへん。」
少年は黙って聞いていた。
「ネジ一本緩んどったら落ちる。油漏れとったら飛ばん。誤魔化したら、最後は全部返ってくる。」
坂東は空を見上げる。
「嘘つくんは、いつも人間のほうや。」
その言葉に、少年はゆっくり頷いた。
黒羽ノ介であるわしも、同じことを千年思ってきた。
空は正直や。
風も、重力も、機械も、全部正直や。
人間だけが、自分をごまかす。
その日からや。
少年は坂東を“兄貴”みたいに慕うようになった。
坂東もまた、少年を放っとけんようになっていった。
血は繋がっとらん。
せやけど二人には、戦争を生き残った者同士にしか分からん絆があった。
空に居場所を探し続ける者の絆や。
けれど――。
わしは知っていた。
この穏やかな時間が、永遠には続かんことを。
伊丹は、これからもっと巨大になる。
民間空港へ変わり、世界と繋がり、人で溢れ、騒音で揺れ、また人々に愛され、憎まれる。
その全部を、この二人は生きることになる。
夕暮れの風が吹く。
坂東が立ち上がり、少年の頭を軽く叩いた。
「ほら帰るぞ、相棒。」
少年は少し照れながら立ち上がった。
相棒。
その言葉を聞いた瞬間、少年の顔が少しだけ大人になった気がした。
わしは高い鉄骨の上から、その背中を見つめていた。
「ああ……。」
思わず呟いていた。
「これは、長い物語の始まりや。」




