背負う者の重さ
剣を握る日々は、静かに少年を変えていった。
だが、それは守られる側の時間が終わりへ向かう歩みでもあった。
「まずは走り込みだな」
ガルムのその一言で、シリウスの“剣術”は始まった。
「えっ」
最初から剣を持たせてもらえると目を輝かせていた少年は、
あっさり現実を突きつけられる。
「体力が資本だ。剣はその後だ」
その日から、ガルムと一緒に走って息が切れなくなるまで
毎日長距離の走り込みの日々が続いた。
それから数か月後。
ガルムと走っても置いて行かれることもなくなったが、提案されたのは
またもやシリウスの期待を裏切る言葉だった。
「次は筋力だ」
「まだ剣を振らせてくれないの!?」
地面に倒れこみながら抗議する声に、ガルムは淡々と告げる。
「倒れない体がなければ、人は守れん」
剣の稽古……という名の有酸素運動と筋力トレーニングに、
シリウスの食事量はだんだんと増えていった。
昼食では山のようなパンを頬張り、肉にかぶりつき、熱いスープで流し込む。
それを見ていたアイビーは呆れたように口を開く。
「そんな食べ方じゃ、喉に詰まらすぞ?」
それを聞いたシリウスは一度手は止まるが、眉を少し寄せて
口いっぱいに頬張ったまま喋り始める。
「らって、お腹へるんらもん」
「……アンジェに叱られない程度にしろ」
「そうそう、食事のマナーはどこにいったのかな?」
小さく呟いたノクスの声とからかう声音のアイビーに、
シリウスの手は完全に止まる。
そろり、と視線を横へ向けると、アンジェは柔らかな笑みを浮かべていた。
「シリウス? 教えましたよね?」
ぴしり、と背筋が伸びる。
不満そうにしながら、シリウスはナイフとフォークを握り直して、
口に運ぶ料理をきちんと切り分け始めた。
それでも、皿が空になる速さだけは変わらなかった。
夕食後はガルムとアイビー選んだ戦術書と、剣の型の指南書を
自室のテーブルに広げる。
ランプの灯りの下、頁をめくりながら、翌日出されるであろう
問題を頭の中に叩き込む。
夜が更けても、部屋の明かりは消えなかった。
それから何時間たっただろうか。
廊下を歩いていたアンジェはシリウスの部屋の扉が、
わずかに開いていることに気づく。
静かに近くと、そっと中を覗き込んだ。
「シリウス?」
声をかけるが、返事の代わりに聞こえてきたのは規則正しい寝息。
机に突っ伏したまま眠るシリウス。
ゆっくりと側に近寄ると、いつの間にか着ている服の袖が短くなり、
細かった腕にはうっすらと筋が浮いている。
まだ幼さの残る寝顔。
けれど、確かにシリウスは少しずつ逞しくなっていた。
アンジェは一つ笑みをこぼして、その姿を見つめる。
成長が嬉しいはずなのに、拭えない不安が胸の奥で絡み合う。
この手がいつか血に濡れる日が来るのだろうか。
そっと髪に触れ、乱れた前髪を払う。
起こさぬように毛布を肩にかけるその仕草は、まるで母のようだった。
◇◇◇
剣の稽古はいつの間にか木剣の素振りにまで進んだ。
中庭の踏み固められた土の上で、風を裂く音が繰り返し響いている。
振って、止めて、構え直す。
息は荒く、それでも腕は下がらない。
汗が顎を伝い、地面に落ちる。
「少し、厳しすぎじゃないかい?」
回廊の陰から歩み寄り、アイビーはガルムの隣に並ぶ。
少し距離を置いたまま、低く声を落とした。
ガルムは腕を組み、視線を逸らさない。
「大切なものを守るためだ」
その声は低く、揺らがない。
中庭では、シリウスが素振りを続けている。
木剣を握る手は白くなっていた。
汗で握っていた剣が滑り落ちるが、腕で額の汗を拭いながら
そのまま剣を拾って構え直す。
遠くの回廊、石柱の陰にもう一つの影。
ノクスは何も言わず、シリウスの背を見つめていた。
甘やかせば己も相手も守れない。
だが、鍛えればいずれ自らの手を離れていく。
その矛盾を抱えたまま、静かに立っていた。
◇◇◇
そしていくつか季節が巡り、シリウスが十歳になる頃──
朝霧の残る中庭で、ガルムは一本の剣を手に立っていた。
向かい合う少年は、いつの間にか視線の高さが変わっている。
細かった肩は張り、握る拳にも迷いが減った。
ガルムの手にあるそれは、もはや木剣ではない。
刃を持つ、本物の剣だ。
「今日からは、本物だ」
ガルムは一歩、静かに歩み寄る。その動きに無駄はない。
「軽いと思うな」
重く、低い声が落ちる。
「それはお前の腕を斬る刃でもある。剣は守るために持て。
振るう理由を忘れるな」
そう言って剣を差し出す。
シリウスは息を呑み、恐る恐るそれを受け取った。
手に伝わる重みは、これまで振ってきた木剣とはまるで違う。
腕に、肩に、身体の芯にまで沈む質量。
命を奪える重さに、声が出なかった。
ガルムは静かに剣を抜く。
刃が空気を押しのけ、低く鳴る。
シリウスは慌てて構えた。
だが──足が動かない。
重い。
怖い。
ほんの僅かに踏み込むだけの距離が、やけに遠い。
ガルムは視線を逸らさない。
「どうした、かかってこい」
責めるでも、煽るでもない。事実を告げるだけの声。
その余裕が、余計に悔しかった。
「くっ……!」
シリウスは奥歯を噛みしめ、無理やり踏み込む。
振り上げられた剣は軌道も定まらぬまま、叩きつけられた。
金属がぶつかり、衝撃が容赦なく跳ね返る。
そのままの勢いで吹き飛ばされた。
痺れるような衝撃が腕を走り、指が動かなくなる。
踏ん張ったはずの足は耐えきれず、身体ごと土に転がった。
「立て」
短い声。
冷たいわけではない。だが、甘さは欠片もない。
シリウスは歯を食いしばる。
震える腕で地面を押し、立ち上がる。
掌の皮が擦り切れ、じわりと血が滲んだ。
それでも、剣を握り直す。
もう一度踏み込むが、ガルムに弾き飛ばされ、土に倒れる。
息を整えようとした、その時。
空気がひりつき──重い轟音が響く。
晴れた空を裂くよう雷の閃光が、森の奥へ落ちる。
一度ではない。間を置かずに二度目。
その音に地面が震え、シリウスが顔を上げる。
「……なんだ、今の」
ガルムは空を見上げることもせず、淡々と告げる。
「さあな。それより、いつまで寝転がっている」
手を差し出すでもなく、ただ立つことを当然とする声。
シリウスはぐっと足に力をこめると、立ち上がる。
その背を見ながら、ガルムの目だけが森の奥へ向いた。
城内ではアイビーが窓辺で空を見上げる。
「あの雷……」
声が僅かに硬くなる。
「まさか、もう来たのか?」
ノクスは答えない。ただ静かに立ち上がる。
「確認に行く」
それだけ言っていつもより早い速度で歩き出す。
アンジェは窓辺に残ったまま、不安そうに中庭のシリウスを見つめている。
森の奥深く、雷光の残滓が森の奥で燻っていた。
誰にも知られぬまま、何かが目を覚ました。
それが、すべての始まりとなる雷だったとは。




