境界の森にて【後編】
ノクスを置いていったまま、ガルムとアイビーが駆け付けた先──
一本の大木の上に、小さな影がしがみついている。
枝葉に遮られ顔はよく見えない。だが、細い手足に震える肩。
子供一人がやっとつかめるくらいの濡れた幹。
必死にしがみつくその姿は、おそらく少年だった。
木の根元には魔狼の大型個体。周囲には小型の群れが取り囲んでいる。
少年に飛び掛かる気配はまだない。だが、大型の魔狼がゆっくりと幹に体重をかけ始めた。
ぎし、と木が軋む。
その揺れで少年が顔を上げる。
雷光に照らされて見えたのは、冬の晴れ空のような淡い青の瞳。
その色を見た瞬間、ガルムとアイビーの記憶が蘇る。
──“前回”自分たちに剣を向けた、あの目だ。
二人の胸の奥に沈めていた記憶が、ざらりと蘇る。
燃え落ちる魔王城。崩れた塔。
一本の黄金の剣を手に持ち、自分たちに容赦なく向かってくる青年。
血に濡れ、倒れ伏すノクス。
焼け焦げた石の匂いまで、鮮明に蘇る。
その深い記憶で動けなくなっていた時、
恐怖が混じった甲高い声が耳を打った。
「……っ!」
二人の意識が現実へと引き戻される。
ガルムの指は無意識に剣へ伸びかけ、“彼”の名前を呼びそうになる。
「ガルム」
静かな声が、それを止めた。
アイビーは少年から目を逸らさない。
「……今、あの少年を助けなければ」
一度言葉を呑んでから、続ける。
「……“今回”の結末は、ここで断ち切れるかもしれない」
その声は迷いを押し殺しながら紡がれていた。
あの日の惨事を、ガルムもアイビーも忘れたことはなかった。
いや、あの日だけではない。
ノクスが黄金の剣に貫かれる。何度も繰り返した光景だ。
そんな過去を全く知らない少年は、木の上で叫ぶ。
「誰か! 助けて!!」
魔狼はさらに幹に体重をかける。
音を立てて、木が軋む。
「わああっ! やだ! 死にたくない!!」
ガルムの足は地に縫い留められたように動かずに
苦しげに視線を逸らす。
その横顔に浮かぶ、言葉にならない躊躇。
アイビーはそれに気づき、目を伏せる。雨粒が睫毛を伝い落ちた。
「……今なら間に合う」
魔導書に触れる指先が、わずかに強張る。
それが戸惑いから来るものだと、彼自身がよく分かっていた。
「あの木ごと消してしまえば、被害は最小になる可能性が高い」
意味を理解したガルムが鋭く睨む。
アイビーは少し俯いたまま、小さく弱い声で付け足した。
「……合理的、だろう?」
言葉が続かないまま雨が強く地を打つ。
アイビーが意を決したように腰の魔導書を引き抜く。
濡れた革表紙が鈍く光り、指先が頁をめくられる──
「待て!」
ガルムが止めようと声を発しかけた、その刹那。
黒い影──ノクスが二人の間を風のように抜ける。
雨を弾く音が、後からついてきた。
ノクスが数本の矢をつがえ弓玄に張ると、迷いなく放つ。
その矢は迷いなく、群れになっている小型の魔狼の目に、黒い矢が突き立った。
痛みで足を止めた魔狼にノクスは腰元の剣をすらりと抜くと、音もなく切り裂いていく。
一匹。二匹。三匹。
ほぼ同時に膝から崩れ落ちる。
か細い呻き声が、森に落ちた。
雷鳴が空で轟くと、大型の魔狼が唸りながら振り向く。
ノクスは整然と立ち、音もなく地を蹴った。
大型魔狼の視界を、黒い外套が素早く横切る。
抜刀したままの剣を構え、森の暗い帳の中で一閃が走る。
少し遅れてどしゃり、と音がした。
大型魔狼の首が、音もなく胴から滑り落ちる。
血が噴き上がる前に雨がそれを叩き落とす。
巨体がぐらりと崩れ、鈍い衝撃が地面を震わせた。
動かなくなった魔狼の前で、ノクスは何事もなかったかのように佇んでいる。
ふと視線を木の上に向けた。
大木の上で必死に幹に縋りつき、泣きじゃくる小さな影。
その影にノクスは足を向ける。
「待て、ノクス! その少年は……っ!」
アイビーの焦った声が森に響く。
だが、ノクスは歩みを止めない。
土を踏みしめ、一歩、また一歩と大木へ近づく。
「……知っている」
低く、静かな声で。
「分かっている」
そして、振り返る。
雨越しにまっすぐ二人を見据えた。
「……それでも、見逃せなかった」
その声に迷いはなかった。それ以上の言葉もなかった。
ノクスは再び前を向き、大木の下へ立つと再び見上げる。
「……シ、……」
唇が僅かに動く。
飲み込まれた名が、静かに溶けた。
「……少年」
声は普段よりもわずかに柔らかい。
「もう、大丈夫だ」
懐かしいものを見るように、ほんの少し微笑むと手を差し伸べた。
◇◇◇
「ガルムー! ノクスが剣の稽古していいって!」
あの木の上で震えていた少年──シリウスの弾む声で、二人は現在へと
引き戻された。
アイビーがふっと笑う。
「あの後は本当に大騒ぎだったな。シリウスは木の上からなかなか降りてこないし、
城に帰ればアンジェに盛大に叱られるし」
肩をすくめる。
「魔王様、完全敗北だったよ」
シリウスの弾む声が庭を駆け抜ける。
振り向けば陽を受けた髪が揺れ、あの時と同じ空色の瞳がまっすぐに
輝いている。ガルムは、その姿を静かに見つめた。
「……今度こそ守る。魔王様も、シリウスも」
その声は決意のようでいて、祈りにも似ていた。
隣でアイビーは視線を向けないまま、小さく息を吐いた。
「そうだね」
わずかな間。繰り返された記憶が胸を掠める。
「……そう、できたらいいな」
ほんの少しだけ視線が落ちる。
遠くで、自分たちを呼ぶ少年の声がまた弾んだ。
ガルムとアイビーの空気とは違い、
その声だけが、やけに明るく響いていた。




