静かな朝
はっと目が覚めて体を起こす。
背中にまとわりつくような嫌な汗が滲み、荒い息が漏れた。
胸が苦しくて思わずシーツを握り締める。
「なんだ……今の夢……」
夢を思い出そうとすると、頭の奥がじくりと痛み、
何かを拒むように霞がかった。
ただ──
炎の熱さも、剣を握りしめた感触も、夢とは思えないほど鮮明だった。
胸に手を当てて早鐘のように鳴っている心音を確かめる少年、
シリウスはゆっくりと視線を巡らせる。
目に入ったのは魔王城の灰色の石壁。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光が、部屋を照らしている。
そして木材で作られた簡易なベッドと、使い込まれた机。
──いつもの部屋だ
夢の中の燃え盛る城とはあまりにも違う静けさ。
ほっと息を吐いたその時、控え目なノック音と穏やかな女性の声。
「起きていますか?」
扉の向こうから声が響く。
「……うん、起きてる」
「一人で起きれたんですね。朝食の準備ができましたよ」
その声に苦しかった胸がふっと緩む。
けれど同時に理由の分からない不安が、わずかに心に落ちる。
「では、私は先に戻りますね」
その声を聞いてシリウスは、ぱっと顔を上げる。
「ちょっと待ってて! すぐ行く!」
そう言って勢いよくベッドから飛び降りると、寝間着を脱いで生成りの
シャツに袖を通し、膝丈のズボンを履いて靴を足に引っかける。
「よし!」
ぱたぱたと入口に駆け寄り、扉を開く。
「お待たせ、アンジェ!」
そこに立っていたのは微笑みを浮かべた一人のメイドだった。
黒の長袖に、膝よりも長い黒のスカート、フリルがついた白いエプロン。
ミルクティーのような淡い色の髪をひとつにまとめ、優しい雰囲気を
まといながらも、どこか凛とした立ち姿だった。
彼女は魔王城に使える人間のメイド──アンジェ。
「おはようございます、シリウス」
その笑顔はいつもと変わらない。
なのにシリウスの胸の奥では、小さな違和感が消えずに残っていた。
首を振り、その不安をかき消すように、アンジェの元に向かう。
シリウスの部屋から魔王城の食堂まではそこまで離れていない。
アンジェはシリウスの隣を歩きながら、外を向くと小さく微笑む。
「今日もいい天気ですね」
と、柔らかく呟く。
ふわりと朝の少し冷えた風が入ってきた。
「ちょっと寒くない?」
そう言ってシリウスは腕をさするが、アンジェは笑いながら、
「なので、温かいスープを用意していますよ」
その一言に、少年は小さくガッツポーズをするのだった。
食堂に入るとすでにアイビーが席に着き、本を開いていた。
魔術の研究が大好きであり、魔術を得意とする人物。
夕焼け色の短い髪が外に跳ね、エルフ特有の長い耳にピアスが小さく揺れる。
薄着で緩いフード付きのシャツに、ローブのように長い袖なしの外套を羽織り、
中性的な顔立ちにエメラルドグリーンの瞳。
シリウスは辺りを見回して首をかしげる。
「……あれ?ガルムとノクスは?」
ガルム。
この城のたった一人の守護獣人であり、シリウスが憧れている一人。
そして、ノクス。
魔王城の主にして、剣も魔術も得意とするこの世界の魔王だ。
シリウスはそのノクスに拾われて、魔王城で生活をしている。
シリウスが食堂を見回す姿を見ながら、傍に立っていた
アンジェが柔らかく微笑んだ。
「ガルム様はすでに朝食を終えて、訓練に勤しんでいらっしゃいます。
魔王様はまだお見えになっておりません」
そう言いながら、アンジェはシリウスの椅子をそっと引いて座るよう促す。
「えー……またガルム、一緒に食べないの?」
シリウスは頬を膨らませ、不満そうに呟いた。
それを聞いてアイビーは本から顔を上げ、からからと笑う。
「その分夕食は一緒に食べてるじゃないか。それに、この城の主と一緒に食事ができる方が、よほど珍しいと思うけどね」
「うー……」
シリウスは席に座りながら納得のいかない様子で唸る。
アンジェが最後の皿ををテーブルに並べ終えた頃、
遠くから規則正しい静かな足音が響いてきた。
その音は食堂の前で止まり、ゆっくりと扉が開かれる。
「……なんだ、もう揃っていたのか」
低く落ちついた声が響いた。
入ってきたのは長身で青年の姿をした、魔王ノクスだった。
黒い外套に体に沿うような黒い服。
長い黒髪を緩く束ね、頭には湾曲した角。
アメジストの瞳は淡々としているが、場の空気が引き締まる。
ノクスはゆっくり室内に足を踏み入れると、椅子に腰かける。
一息ついたあと、テーブルの様子を一瞥した。
「……また、アンジェに起こしてもらったのか」
ぶっきらぼうな口調ではあるが、その視線は自然とシリウスに向いていた。
「今日は先に起きてたよ!」
シリウスは得意げに胸を張る。だが、すぐに言葉を濁す。
「……ただ」
ノクスの視線がぴくりとする。
「……ただ?」
短く問い返す。
シリウスは視線を落とし、シャツの裾をぎゅっと握った。
一度口を開き、ためらってから、
「……ちょっと、怖い夢を見たんだ」
一瞬、食堂の空気が鎮まる。
ノクスはしばらく何も言わず、シリウスを見つめていた。
そして、低く呟くように言う。
「………そうか」
それ以上、問いは続かなかった。
しばし沈黙が流れる。
その空気を包むように、アンジェが微笑んだ。
「さあさあ、せっかくの朝食が冷めてしまいますよ。いただきましょう」
その一言で張り詰めていた空気がふっと緩む。
「さ、今日の朝食は何かな」
アイビーは本を横に置くと、身を乗り出してテーブルを覗き込んだ。
「今日はあたたかいスープに、新鮮な卵が手に入ったのでスクランブルエッグ、
厚めのベーコンと焼きたてのパンですよ」
そう言いながら、アンジェも席に着く。
シリウスはまだ少し俯いたまま、スプーンに指をかけていた。
その様子を横目で見ながらノクスは低く呟く。
「……嫌な夢なら、そのうち忘れる」
そう言って、スープを一口すすった。
「……食べないのか」
その言葉に、シリウスははっと顔を上げる。
「……ううん」
小さく首を振ると、手を合わせて。
「いただきます」
そう言ってスプーンを握った。




