Phase・Ⅶ RUN
約束の三時に七分くらい前に、ルオが来た。
衣装ケースを左手に、右肩には彼が乗ってきたとおぼしき自転車を担いでの、登場だ。ちなみに昨晩同様、ビジネススーツを着用している。
「……ご苦労なことだ」
洗い髪にシャツを羽織った、見様によっては色っぽく、あられない姿のリュイが言った。
その苦労の原因を作ったのは自分だが、大本は東尽にあるという、やつあたりもどきの感情がこめられている。
ルオはそれを知っているので、いちいち目くじらを立てない。
「ああ、そうだな」
鷹揚にあしらって衣装ケースをアイリンに手渡す。
「せいぜい、オモチャにしてやってくれ」
「もちろん」
彼女の機嫌はすこぶる好かった。リュイの髪に、肌に、直接触れて手ごたえを得たばかりなのだ。腕が鳴る。
テーブルの上で早速ケースを開いて、東尽が選んだ衣装をチェックする。
アイリンは真顔で「ふう〜ん」と言った。
最高級の絹織物だった。ブラッドストーンの地色ほどに深いみどりから、ゆるやかな自然さで、やがては翡翠緑青へと移るグラデーション。
リュイの色、だ。
「……そういうことか」
リュイがつぶやく。
既視感があるというか……見て、わかってしまったのだ。
これは、あの夜の彼女を、再現するためのものだと。
東尽普、おキレイな聖人君子顔をしていながら──否! そうだからこそ、あなどれない男だ。こんな衣装、前もってでもないかぎり、用意できっこない。
たいした執念深さだ。
よしんば彼の手腕と赤竜の財力が、一夜にしてそれを手配することを可能にしたのだとしても……それはそれで、脅威を覚えざるをえない。
こなくそ、と思った。
そして東尽の魂胆はどうあれ、彼が斯く行動するということはリュイが思うように……フォースは、当たり、なのだ。
「やな男!」
言い捨てると、アイリンは衣装ケースに蓋をした。
幼き日、自分の娘のように彼女をかわいがってくれた恵利奈から、初恋の話を何度聞かされただろう。
月明かりの中、突然に現れた金髪の貴公子との出会い。
物心つくころには、いつか自分にも王子さまが出現して恋におちるのだと思っていた。
幸か不幸か、アイリンのために運命が用意してくれた男性は、見目麗しき王子さまではなかったが。
恋──感情をかきたてる熱い気持ちを、それでもアイリンは知っている。
リュイと視線がかちあった。
無言でうなずきあう。
たとえ何さまであろうと、ひとりの人間の、一生をかけた想いを、その思い出を、こんな形で利用するなど、ゆるせない。
「まず、髪を乾かそうか」
リュイの目に、思いがあった。
「そうね」
アイリンも応えた。
あえて、その策にのってやろうというのだ。ただし……策士が策に溺れてしまったとしてもこちらの知ったことではない。というより、それをもくろんでいる。
「止めないのか、ルオ?」
オーラの色まではっきりと見えそうなほど、意気軒昂と寝室に入ってゆく二名を眺めながら、彦左が訊く。
「大丈夫だ、と思う」
「思うぅ?」
「たぶんな。東尽は……信用できる人だ。あのひとには、俺には計り知れない考えがあるんだと、思うことにしている」
一瞬だけ、温和だった彦左の表情に厳しいものが走る。
「……傾倒しちゃってるんだなァ」
「そう見えるか」
照れたように、ルオは笑った。
「おお。だが、人をみる目は確かだな」
「だろ? って、俺が自分で言ってりゃあ自画自賛か?」
きっかけは当時のルオにしてみれば、日常的なことだった。
彼の仕切る縄張りで、よそ者がおこした恐喝事件の被害者になりかけていたのが東尽で……結果的に救済者となったルオを、東尽は拾ってサラリーマンとしての地位を与えてくれたのだ。一種の玉の輿だ。恩義よりもなによりも、ルオはその東尽の心意気に惚れこみ、東尽は東尽でルオを高く評価している。また、お互いに相手を知っていくうちに両者の胸には、尊敬なり友情なりが芽生えていた。
ルオがリュイよりも東尽に肩入れするのは、当然なのだ。
「で、あのひとの狙いは何なんだ?」
「わからん」
「ルオ!」
「というか、俺は考えないことにした。だけど、これだけは断言できる。あのひとは恵利奈の義理の弟だ。リュイは義理の姪、ってことになる。だったら、悪いようにはしないと思う」
ルオは彦左を見つめた。長いつきあいなのだ。口に出したのを聞いたことなどないが、ルオは察していた。彼の恵利奈に対する強い憧憬と思慕とを。
彦左の気持ちを知っていたから、東尽のも理解できたのだ。
「俺も……リュイはどうでもいいけど、アイリンを悲しませないためだったら、何だってしてやらあって気になるんだ。できるだけのことは、する!」
「ふーん。それで、何か策はあるのか」
「ある。というか、なにがなんでも死守しなきゃならんことがある。そこから、かかる」
ビジネスに揉まれてきた男は瑣末を超越していた。
いまでも彼にとって、リュイは虫が好かない相手だ。だが、だからといって見殺しにはできない男なのである。そんな心の広さがあればこそ、リュイが認めアイリンが折れた。
「いかにしてエスメラルダのスキャンダルを表に出さないか、死守すべきポイントはそこだな」
ルオの懐刀だった男は、その切れ味を見せた。
「そうだ」
うなずくルオの口元が……こんなときなのに、楽しそうだ。
「それにはまず、極力、目撃者を作らない必要がある。行きも帰りも!」
「そこでだ、ショウ。悪いが手を貸してくれんか」
一線を退いたとはいえ、ルオの頼みをショウがきかないわけがない。
一語一句、聞きもらすまじと真っ向からルオに向き直る。
かくして、ジャンクⅢ二階のリュイの部屋は策謀本部と化したのであった。そこでは男と女の二種から成るはかりごとが、それぞれの内情をまじえてしっかりと、あるいはきらびやかに、構築されてゆく……。
「うううーん」
アイリンはうなった。
「もうちょっと! もうちょっとだからリュイ、我慢してねぇ」
「ああ平気だ。アイリンのほうこそ、無理するなよ?」
リュイは、仁王立ちだ。
両腕に正絹の袖をからめて、ふんばる。
メイクもヘアもアイリンのイメージどおりにきまっていた。あとは衣装の着付けのみ。
「うん。でも、おかしいなぁ。恵利奈に教わったときはもっと楽にできたのに」
「ずいぶん使いこんであったからな」
「これ、新品だもんね」
アイリンの手は小さい。腕力もふつうだ。東尽がエスメラルダの衣装としてこれを選んだ意図はわかるのだが……ひょっとしたら単なるいやがらせなのではないかと、邪推したくもなる。
「ごめんね」
わびながら、今度はリュイの細腰を足で押さえて締めあげる。
「んんんーっっ」
またしても、アイリンが息を継いだ瞬間に帯はするりとゆるんでしまった。
ルオが衣装を運んできてから、二時間半が過ぎている。
「くっ……!」
さすがにあせる。そんな彼女を気遣ってか、リュイは泰然としていた。
「おーいアイリン。ちょっといいか?」
形式的なノックを入れて、彦左が顔を出す。下着姿のように見られて困る状態でもないので、リュイは黙認した。
「なに?」
アイリンのきつい声にひるまず、ずかずかと入ってきて彦左は評した。
「まあまあ、いいな。良家のお嬢さまみたいだぜ。っと、帯が途中なのか。こりゃあカタそうだな、どれ……」
あっという間にリュイの後ろをとると、ぎゅむぎゅむと結んでしまった。
「ふくらすずめでいいんだよな?」
確認したときには終わっている。ここ数年、実家には寄りついていないが、呉服屋のドラ息子なのだ。脱がせるばかりが能じゃない。
「……用はなんだ?」
袖を下ろしてぐいぐいと帯揚げを片づけながらリュイが訊くと、帯締にとりかかるアイリンの手つきを見ながら彦左は言った。
「ん、いまもルオと話してたんだが、大使と会ったあとにその格好でここへ帰ってくるんじゃ目立ってしょーがねえから、途中で着替えることにして、その手伝いを」
「あたし、やるわよ」
アイリンはみなまで言わせなかった。
「きっとルオは反対したんでしょ。でもあたしはやる!」
「そう言うと思ってたさ」
彦左の声ににじむのは、容認だ。
「それに伴うリスクは?」
「ない」
ならばルオが反対する理由は。
「パーティーの会場はホテル・ソレイユだ。そこに一室とって、アイリンが待機する。頃を見てエスメラルダはパーティーを抜けてその部屋へ行き、着替えて、リュイとして出てくる」
危険なことなど、なにもない。
行きはルオか彦左かショウが付き添うだろうし、帰りはリュイが一緒なのだ。もしも運悪く現場写真を撮られたとしても、相手がアイリンならば問題にはならない。
ルオが反対するのは……要するにやきもちだ。
「……ルオ」
確かな裾さばきでリュイは寝室を出た。テーブルに肘をついていたルオは、呼びかけにぶすっと顔を上げる。
そこで彼は凍りついてしまった。
「おまえ、いいかげんにしろよ?」
両サイドの髪を編み上げて頭頂から一本の細い三つ編みにまとめた以外、手を加えず、ストレートにおろした髪型。
清冽な滝のようで、優美だ。
やさしい形に描かれたまゆ、ほそい鼻筋、うすくれないの唇……すべてが女性らしい美しさに彩られた和装の麗人は、ぞんざいに言った。
「リ……!」
こちらは言葉が出てこない。
「見てわかるだろうに。わたしは、これでも、女なんだぞ」
──だから男のおまえにアイリンを譲ったというのに!
それなのに、その女性相手に嫉妬心を燃やしまくるなんて、大たわけとしか言いようがない。男ならもっと、どーんと構えていろと思う。
勢いよく、スーツの襟をひっつかんで見据える。
「わかった!」
真っ赤になって、ルオが雄叫ぶ。
白状すると、本当はなにもわかってなどいない。
多くの花に囲まれた職場環境で働く身なのに、母親とアイリン以外の女性をこんなに間近に寄らせた経験がないため、思考回路にエマージェンシーが発動していた。
感情的にこれは小憎たらしいリュイだと識別している。だけど、視覚が捉えているのが彼がいままでに会ったことのないグレードの美女のため、どう対処していいのか、即断できないのだ。
不愉快な手を払いのけることは容易いのに……〈壊れ物注意〉という単語が、頭蓋内を駆けめぐっている!
「わかったから、離れてくれ。白粉くせーぞ、おめぇ」
「ったりめーじゃねーか。化粧してんだから、何かの匂いぐれぇつかぁ」
まさか、このリュイに対して赤面したなど、ルオにとっては恐ろしすぎる出来事だ。
苦肉の策の偽装工作は功を奏し、彼の反応を頭にかっと血がのぼったせいと断定してリュイは手を放した。一触即発とまではいかないが、その方向へいくのは……いまはまずい。
いつでもどこでも誰とでも戦う気骨は、あるにはある。
でも、やはり、いまはまずいのだ。
「じゃあ、決まりだな」
のほほんと薄笑いを浮かべる彦左が、あいだに入った。
「七時半、いや、八時に会場から抜け出せよ、リュイ。それから着替えて……十時には帰ってこられるんじゃねーの」
「そうだな」
タクシーを使えば、ホテルからここまで三十分もかからないだろう。
ゆとりのある計画は、歓迎だ。
「時計は」
ちゃんと持ったのか、と訊こうとしてまたリュイの艶姿を直視してしまい、あわててルオはそっぽを向いた。
「してるわけねーだろ」
振袖に腕時計はそぐわない。それに、金具で生地が傷む。おかげでエスメラルダは現在、トレードマークの緑石のアクセサリーをつけていない。
「してない?」
「ハンドバッグにも、入れる場所はないわ」
遅れて寝室から出てきたアイリンが、そのバッグをリュイに渡して言った。総じて和装用のバッグは小型だ。財布とコンパクトや口紅を入れたら、ハンカチを一枚かティッシュを入れるかの選択を迫られるような代物である。
「どうせ、東尽がそばにいるんじゃないのか」
「ああ。じゃなかったら、俺が知らせてやる。部屋も教えなきゃならんしな」
こういうとき、部下という立場は便利だ。横手から上司に秘密のメモを渡そうと耳打ちしようと、ビジネスという大義名分が立つ。その同伴者にも自然に接触できる。
「よぉし。それはそんでいいとして、他に言っとくことは?」
「もうないだろ」
彦左は彦左なりに、ルオはルオなりに考えてくれたのだ。リュイはうなずいた。
「それでいい」
あとは行動あるのみ。東尽との約束の時間も近づいてきていた。
「下で待つのか?」
少しでもルナポリスらしからぬモノが存在する接点を削れば、目撃される確率も減る。
「あ。ちょっと待て」
機敏に動こうとしたリュイをルオが止めた。彼の携帯機がコールされていた。
「はい。……出ます。いいぞ、降りてくれ」
ぞろぞろと、四人連れ立って廊下へ出る。
「そういえば、ショウは?」
アイリンが聞いた。
「このあたりに誰も近づかないようにさせた。こんなことでボスの力を借りちまって、悪いんだがよ」
ちらりと彦左を見てルオは答える。後見人はいいんじゃないの、とコメントした。
「小回りが利くのも、組織の機動性だ」
いちばんフットワークを利かせているのはボス本人なのだが……。
「ルオっ!」
ショウが自転車で飛びこんできた。ルオが乗ってきたやつを借りているのだ。
「来たぜアっ!」
それっきり声もなく、すっ転んだまま、ハンドルを握りしめて惚ける。
「化けもんじゃねーんだ。びっくりすんなよ、胸くそ悪い」
アポロニア一の美人が毒づく。
「「リュイぃ〜」」
年長のふたりが、そろって額に手をあてた。
ため息をつくタイミングまで一緒だった。
「おめぇ、もうしゃべるな」
「東尽に恥かかせたら許さねーからな!」
「ンだとぉ?」
あるがままの自分でいて、なにが悪いのだ。リュイの怒りはもっともなこと。
だが幸いなことに、プロ意識という分別をエスメラルダは持ち合わせていた。すうっと背筋をのばし気味に姿勢を正すと、売り物の冷美顔を掲げて返礼する。
「それくらい、承知していますわ、ミスター羅」
イントネーションはおろか声音までもが別人だった。
ぞわあぁーっと、言われたルオばかりか彦左とショウまで総毛立ち、ぼつぼつと鳥肌を発生させまくる。対照的なのはアイリンで、女王然とふるまうその凛々しさにただもう、うっとりと見惚れていた。
そこへ巧みなハンドルさばきで一台のセダンが横付けされる。
人目をはばかるためにリムジンにしなかったのが、よかった。ジャンクⅢの前の道幅はそのクラスでもぎりぎりだ。
側溝をうまくよけてドライバーが降り立つ。
「時間どおりだ、東尽」
風味はトップモデルで、緑色の絹を身にまとったお人形さんが、リュイらしい言葉を吐き出す。
「恵利……!」
からくも、彼は言葉を切った。
こうなるはずだと思っていたのに。
ただでさえ似ている娘に、その母親とそっくりおんなじ衣装を着せれば……。
──これは、恵利奈ではないのだ!
タキシードの胸ポケットから眼鏡を取り出す動作でようやく視線をそらし、自分に言い聞かせる。
「だて、か」
リュイの声は小さく、アイリンにも聞こえていなかった。裸眼で自動車を運転できる視力があれば、眼鏡はいらない。コンタクトレンズを装着しているとすれば、なおさらに。
ビジネスマンの顔で、東尽は改めてエスメラルダを検分した。
「……いいでしょう。あなたは充分に私の要求を満たしています、マオ・アイリン」
「ありがとうございます」
殊勝にも、アイリンは少しにこっとしただけで、軽く頭を下げて賛辞を受けた。ほんのわずかだったが、東尽の動揺は彼女にも見て取れた。
作戦はまだ始まったばかりなのだ。
「ではエスメラルダ、車に。ルオは運転席へ」
きびきびと彼は行動した。
白塗りお化けをエスコートするときのマナーどおりの鋼鉄仮面ぶりで、後部座席のドアを開けて女性を待つ。しかし、鉄仮面のかぶりっこなら、リュイも負けてはいない。
右手にバッグを持つと、その腕に両袖をからげて左手をさしだした。
東尽がその手をとる。
ひゅう、彦左が口笛を吹いた。
それにはかまわず、セダンの後部座席に収まるとリュイはアイリンに、笑いかける。
「またあとで」
「うん」
うなずいたところで東尽がドアを閉めた。まわりこんで右側に乗る寸前、彼もまた彦左とアイコンタクトをとっている。
「あれは絶対リュイじゃねえ! 未知の物体Xかエイリアンが取り憑いて、勝手に動かしてんだ。絶対そうだ。そうに違いねえ。だから、いいんだ、見まちがいじゃないんだ。オレは大丈夫だ! よし、いいぞ……」
奇しくも、ショウの自己暗示とルオの心の中とが一致していた。
ふたりとも、わけのわからん論法で自分を納得させている。
「……ルオ、出してくれ」
東尽が指示したときには彼は、アポロニアでいちばん慎重なドライバーたりえた。
「いってらっしゃ~い」
できるだけ小声でアイリンは見送った。彦左と表まで出てきて、黒いセダンが見えなくなるまで手を振る。
「じゃあオレ、ちょっとロウたちんとこ行ってくるから」
戒厳令を解除しなければならなかった。
「おう、こっちは任せろ」
アイリンのボディガードのことだ。だが、彼の身体には大きすぎる自転車を器用に乗りこなすショウの後ろ姿を見送った十秒後……彦左は自らの発言を撤回せざるをえない事態に陥ることになる。
「あ!」
「ぶねぇなぁ」
決定的瞬間を彼は見なかった。が、入口のコンクリートの階段で蹴つまずいたアイリンが前のめりに飛び出したのを、ひょいとつかまえる。
「ああ。でぇじょーぶみたいだな。どこもぶつけてねぇ」
そのままの勢いで倒れて、顔や手や膝を強打するよりはぶっとい腕がシートベルトさながらに身体を抱きとめ、締めつけられて、うげっとなるほうが……ましだろうか?
アイリンはジャンクⅢの玄関のどこにも、激突はしなかった。
「……そうね」
声が苦い。
「でも彦左……これ、やばいわ……」
「やばい?」
そおっと彦左が腕をほどくと、アイリンは戸口につかまるようにして立った。軽く左膝を曲げ、踵をつけようとはしない。
「足、ひねったみたい……」
「そーりゃあ……確かにやばいわなぁ」
作戦開始直後のアクシデントであった。
「……そう、忘れていました」
曲がりくねった細道を抜けて陸橋をくぐり、星都幹線に入るランプウェイに乗ったところで東尽は言った。リュイが見る。
男は取り出したジュエリーケースの蓋を開けていた。
「エスメラルダの装いにはこれが必要でしたね」
宝石そのものよりも、東尽が何を持ってきたのかということに興味を引かれた。
無感動に視線を走らせる。
「ご丁寧にどうも」
ぜんぜん誠意のこもらない言葉で断り、自分でケースから取って、右の中指にはめた。二本の細いプラチナリングのあいだに、カボッションの緑石を五弁の花の形で六輪、ぐるりとめぐらせてある。リングの溝と、小さなプラチナ球の花芯の溝で、石の縁をはさんで留める構造だ。爪と呼ばれるひっかかりがないので、衣服や持ち物に触れて傷める心配がない。
「ウラルエメラルド……地球産の、緑色のガーネットです」
繊細な花の指輪はエスメラルダにもリュイにも、似つかわしいものではなかった。
自分のためにあつらえられたのではないと思うと同時に、指輪の本来の受け取り手が誰なのかということに気づく。
「わたしは恵利奈じゃない」
はずそうとする指を東尽が押さえた。
「いいえ……緑惟。確かにこの指輪は恵利奈のために作らせたものです。しかし彼女はもうこの世にはいない。ならばせめて、娘のあなたに持っていてもらいたい。そう思って持ってきました」
「本心か?」
残念ながら、リュイは浪花節がそれほど好きではないのだ。冷徹な咲王の、赤竜会の血は、恵利奈を素通りしてリュイに引き継がれていた。
「エスメラルダの宝石の用意を、失念していたのも事実ですが」
彼ほどの男が、エメラルドや翡翠を、通話一本で用意できないわけがない。
「……じゃ、そういうことにしておこう」
「失礼」
リュイが指輪にかけていた左手を下げようとすると、東尽も手を引いた。
「……ありがとう」
それはまったく唐突に告げられた言葉で、正直、東尽は面喰らってしまった。
思わず苦笑する。
「私が持っていても宝の持ち腐れにしかなりませんから。私のほうこそ、受け取ってくださってありがとうと申しあげるべきなのでしょうね」
「指輪のことだけじゃなくて……。カサブランカの、白い花束。あれも東尽がずっと贈ってくれていたんだろう?」
「知って……いらしたのですか」
東尽の顔から、苦笑まじりの微笑が消えた。それを見ないように、コーティングされた窓の向こうの黒塗りの流れゆく世界に、リュイは目線を移す。
「はっきりとは、わからなかった。だけど血のつながらない年の離れた弟がいたと恵利奈に聞いていたから……たぶんそうなんじゃないかと、ずっと、思ってた」
「そうですか。ですがそれについては、あなたからお礼を言われるようなことではありません。私はずいぶんと彼女にはよくしていただいたので、それで……」
それは理由の中のひとつにすぎない。
すべてを語るのは、彼にはつらかった。
「全部……恵利奈のため? じゃあ訊くが、わたしをフォースに会わせてくれるのも、そうか?」
たとえ誰であれ、彼女は憎んだり嫉妬したりしない。
フォースの存在を知ったとしても、自分の恋は真実のものだと胸を張って微笑むだろう。
そうして人知れぬところで、傷ついた心をなぐさめるために涙をこぼすのだ。
リュイの母はそんな女性だった。
片親が違おうと、不倫の結果だろうと、世に生を受けて兄妹として在るものたちの邂逅を喜ばないはずがない。
「……ある意味では、そうです。しかし緑惟、あなたは誤解をしていますよ」
「誤解?」
「私があなたに便宜を図るのは恵利奈のため、これはまちがいのないことでしょう。ですが、フォースのため、ではありません」
「どう違うんだ」
東尽は軽く組んだ膝の上で両手の指を組み合わせ、目を閉じていた。
応えたくないのかと、リュイがうながそうとする前に彼は語る。
「咲王の家に引き取られたとき、私はまだ、ほんの小さな子供でした。優れた経済手腕を発揮する義母は厳しくて怖い人としか思えず──なにしろ子供でしたからね──十一歳年上の義姉がやさしくしてくれなければ、きっと引き取られたその夜のうちに、逃げ出していましたよ。彼女は小さな私の太陽であり月であり、世界のすべてだった」
東尽の心の奥深く、聖別されたひと。いくらリュイが忘れ形見でも、うかつには触れられない絶対不可侵の聖域──マドンナ。
「彼が私から世界を奪い取ったとき、私は十歳にもなっていませんでした」
ごめんね、普──彼女の涙が少年を変えた。
彼は強くなろうと努力した。再び世界を、その手に取り戻すために!
今度は彼が彼女を守り、愛するために。
だが……彼女はもういない。
「だから私の心情は……あなたに近いといえるでしょう」
東尽の口元になごやかな笑みが浮かんだ。
そのおちつきが、なんだかくやしいリュイである。
「つまり?」
「あなたと同様、彼に一発ぶちかましてやらなければとても気持ちがおさまらない、といったところですね」
ブフオォーン、ギャルルルル──!
突如として、安定した走りを見せていたセダンが、吸い寄せられるようにガードレールに急接近した。あわててハンドルが切られ、タイヤが悲鳴をあげる。
東尽らしからぬ発言に目を剥いたのはリュイも同じだった。それでも、さすがにリアクションはルオよりも余裕があった。
「あら」
エスメラルダの大復活だ。
「わたくしが一発ぶちかますなんて、いやですわ、東尽さん」
その直後、ぐぐーっと、後部座席のふたりの身体はシートにめりこんだ。
耳障りな警告音が小刻みに車内に鳴り響く。
「ル、ルオ?」
東尽がだて眼鏡をずり上げる。
物体Xとエイリアン説で封印されていたルオの欺瞞が、あえなく崩壊した結果……彼の運転する車は、星都幹線を爆走していた。
── ラン ───────
恋人なのにルオと呼ばれている男……(笑)




