Phase・Ⅴ 第三の男
その部屋には局地的に濃霧が発生していた。
人によっては、それは厚く雲が垂れている状態というかもしれない。もしくは、白煙がかすみのごとく充満している、と。
おそろしい、有害な悪魔の物質が、室内を席巻しまくっていた。
「ううーむ」
加えて低く、うなり声が……あたかも匍匐前進するかのようにそろそろと、出る。
「まずい。こいつは、まずい……」
ここ数日の泊まりこみで、まったくあたられることのなかった不精ひげをぞろりと撫でながらつぶやく。ついでに、ずり落ちていた眼鏡を無意識に上げる。資料と称して持ちこんだ多種多様な形態の映像を、めったやたらと見まくって血走った眼精疲労の目にも、それは正確に捉えられた。
さわやかな巧舌が一分の疑いすら与える隙もなく、公表する。
『──惑星アポロニアのヴィーナス』
彼にとって現世の美の女神の情報を得ることは、趣味と実益を兼ねている。気分転換のつもりで周辺機器モニタからライヴのテレビ放送へと切り替えたタイミングの良さに、鼻歌気分になっていたのだ。
ところが!
『クィーン・オヴ・ミラーズはメイハ・プロダクション所属のモデル、エスメラルダ・グリーンさんに決定いたしました』
愛嬌たっぷりの笑顔で、好感度を誇るアナウンサー嬢は彼の希望を……あっさりと蹴散らしてくれた。
「うううーむ」
彼はうなる。
大も大、超特大のどんでん返しだった。
いや、五人に絞りこまれた候補者の中にそういう名前のモデルがいることは、業界の裏のつながりから知らされていた。確かに、硬質な、凛とした容貌は、史上に残るレベルの美女だと思う。
だがその美女は、スーパーがついてしまうような、モデルなのだ。
高画質ディスプレイが映すエスメラルダの姿を、彼ほど、ブルーな気持ちで眺めた男はいまい。
第三の男──その名を、レーブ・トリッケンという。
「まちがい、なんてことは……ないよなあ……?」
半ばヤケで手にしたリモコンでチャンネルをさすらい、たったいま見たばかりのニュースが誤りであった可能性にすがろうとする。
ニュースは正確そのものだった。
何度、チャンネルを変えようと、脂でべたついた眼鏡をシャツの端で拭こうと、彼の目に映るのは黒髪緑眼の女性だった。
『どんなリングができるか楽しみですな』
「わぁああーっっ!」
トリッケンにしてみれば、楽しみどころではないのだ。
彼の作ろうとする映画《ニーベルングの指輪》のスポンサーには大手の化粧品メーカー、コウシン・コスメティクスも入っている。クィーン・オヴ・ミラーズを女神フライアとして起用し、映画と化粧品のPRを一石二鳥でもくろんだのが誰であれ、彼に異論はなかった。ちらりと聞いた話だと、コウシン・コスメティクスでは、クィーン・オヴ・ミラーズを次期販売商品のイメージパーソナリティに据える計画だという。
結構なことだ。
コウシン・コスメティクスの発展?
ばんばんざい、だ。
すでにライバル社のリューズ化粧品がエスメラルダを使っていることなど、トリッケンには関係ない。コウシン側が彼女との契約を奪取できず、スポンサーが更迭しようが、彼の映画に金を出せるところがどこか残ればノープロブレムだ。
「エスメラルダ・グリーン……」
彼にとっての問題はそのクィーンだった。
「キャストか、撮影方法か……変えなきゃならんな」
美中の美たる女性をあてるならば、その役は愛の女神フライアでなければならない。ギリシア神話をやるならば愛と美の女神アフロディーテやトロイヤのヘレン、メソポタミアならばイシュタル、歴史上の人物ならばクレオパトラⅦ世も唐の楊貴妃も(史実に合わせるなら、エスメラルダはやせすぎだが)、倭の女王卑弥呼も弟橘媛も額田王にしても、おおよそ、世に名立たる美形の役でなければ惑星一の美女を使う意味がない。
「フライアをやるには」
ああ哀しいかな、トリッケンの特殊フィルターには、エスメラルダは女神フライアとして、映りようがなかった。
神々の中で最も美しく、愛らしく、不老の果実の所有者たるフライアは……やわらかな春の陽射しと若草のみずみずしさを持った甘い砂糖菓子のような乙女だと、トリッケンはイメージしている。
妖精のように華奢ではかない女神さまは、百八十センチを軽く超しちゃう大女ではないのだ!
けっして!
むろん彼とて、彼女がクィーン・オヴ・ミラーズたる美女であることを認めていないわけではない。
水晶を彫刻したかのような怜悧な細面は、まごうことなく審美眼を刺激する。
撮るのが《雪の女王》や《石の花》《ジュリアス・シーザー》などであったら、迷わず彼は女王役にエスメラルダを起用するだろう。あるいはアポロニアの革命史を撮るならば、現首相オーガスタの永遠のライバルと称された美貌の革命家リドラ・ハーコヴをあてたいとまで思うくらい、彼の監督魂は彼女の美に酔っている。
『──年ぶりに交代になる地球よりの全権大使が今日、到着しました』
ジャジャーン、ジッジッジャーン!
アナウンサーの声にかぶせて流れたアイキャッチに文字どおりつられ、トリッケンはテレビに目をやった。
『特命全権大使エフゲニー・ディラーデス・フォース氏は今日午後、ステーションから降下、ヘリオス市に入られました』
さかんにまたたくフラッシュを浴びて、スーツ姿の若い男が歩く映像が、流れている。一筋の乱れもなく撫でつけられた金髪、なかなかのハンサムでしかもまだ若い……エリートってやつだなと評価を下しかけたそのとき、エメラルドグリーンの残光が監督の目を、射た。
「ぅおおおおおおおーっっ!」
トリッケンは吼えた。
「これだああっっ!」
勢い余って立ち上がったはずみで散乱した映像記録媒体にはかまわず、ぐっと握りこぶしに力をこめる。ずり落ちた眼鏡をまた上げる。
天は彼を見放さなかったのだ。
特撮というテクニックに走ることも、フライアに執着する巨人族の兄弟役として二メートルの格闘家を見つけたり、ウォータン神に決めた渋いがそれほど背の高くないオペラ歌手を降ろすといった意に染まぬキャスティングをする必要も、ない!
だが、まちがいなくクィーン・オヴ・ミラーズを出演させ、なおかつ、花を持たせることができる……《ニーベルングの指輪》だからこそ、可能なのだ。
女神フライアは美の象徴である。
美人が演じて当然の役だ。
だから、この世界でいちばんの美女の称号を得た女性をそこに据えるのが必然と、誰もが考えるだろう。事実、彼もその考えに固執していた。
しかし女神や女王でなくとも、美女をあてはめるべき役が、ある。
悲劇のヒロイン、というやつが。
「ジークムントとジークリンデだ!」
トリッケンの眼裏にはすでにビジョンが浮かんでいた。
漆黒の髪を艶やかに結い上げた人妻ジークリンデと、黄金の髪をなびかせた荒武者ジークムントが、ただ、見つめあう。
その性も髪の色も異なるふたりが、同じ緑柱石の瞳で互いを見いだし兄妹でありながら恋におちる……愛を語る言葉ではなく、まなざしだけが恋人たちの交わす告白なのだ。
「できる!」
自信があった。
エスメラルダのあの瞳があれば、ジークリンデに台詞はいらない。
そしてジークムントは……彼でなくてはならない!
エフゲニー・ティラーデス・フォース、地球から来た特命全権大使。
金髪の白皙は男性ながら美貌といって過言ではない。
なにより、エスメラルダと対となりうるあのグリーンアイズ! あんな緑、アポロニアにふたり、いや三人と、いるはずがない!
なんとしても彼をおとさねばならない。
エリートとはいえ公僕、狙うとすれば俸給システムに従っての薄給だ。莫大な契約報酬をエサに釣るのは気が引けないでもないが、願わくば〈Ⅳ世〉が首を縦に振ってくれればいいのにとトリッケンは思う。
あるいは名声欲でもいい。
とにかく、彼を獲得するのにどれだけ経費がかさもうと、エスメラルダがジークリンデを演ずれば、フライア役をコウシン・コスメティクスの顔にできる。リューズ化粧品との摩擦はなくなるし、となればコウシンからの出資も心配なくなる。映画があたればモトだってとれる。それには納得いく映画を作る必要があり、そのためには……。
コンマ数秒のあいだにひとりの男性に、熱烈に想われる存在となってしまったことを、エフゲニーは現在、夢想だにしていなかった。
「エスメラルダ?」
寝室の入口で、アイリンがつぶやいた。
その横ではショウが硬直している。口をぽかんと開け、完全に絶句していた。
平常状態でいるのは東尽だけで、他の誰もが驚き顔の中でリュイは唇を引き結んで彼をにらみつけた。黒いサングラスが無言の圧力をかける。
「……ここに立ってみれや」
突然、彦左がリュイの腕をひっぱった。ショウが貼ったポスターの前に立たせてサングラスをむしりとる。それから……あごに手をかけてポスターと同じように横を向かせた。
髪をほどき、手櫛でさらりと流れをつける。
「ほんもの、だ……」
信じられないといった表情のまま、ルオが言った。彦左の手を払いのけてリュイはサングラスをひったくり返す。が、かけずに着ているシャツの胸ポケットに収め、前髪をかきあげて再び東尽を睨めつけた。
「エスメラルダに、何の用だ?」
険しいまなざし。リュイとしての対応だ。
「会ってどうする?」
それこそは、リュイの望みのはずだった。
フォースに会って確かめる。
おまえはいったいわたしの何なのだ、と。
おまえが存在するということは……あの男には故郷に……地球に、妻がいたということではないのかと。
それならば、わたしの母は……恵利奈の恋はなんだったのだ?
この薄汚れた貧民街で私生児を産み、育て、力つきて死んでいった彼女の一生は?
必ず戻ってくると約束したろくでなしを信じて待ち続けた……愚かな行為でしかなかったというのか!
「さあ?」
東尽は事務的だ。
「私は……エスメラルダ・グリーンという女性に会いたいという彼の希望をきいただけですので」
「咲王恵利奈でも、緑惟でもなく?」
「あなたのお母さまが亡くなっていることは、その前に彼に話してあります」
リュイは唇をそっとかみしめた。少しく、震えている姿なんて見られたくない。
「そして」
淡然と彼は告げた。
「咲王緑惟という名を彼は知りません」
つまりはそういうことだったのだ。
一地方惑星の一経済人でさえ入手しうる情報を、地球人のお役人さまはご存知ない、と。
それは、草原に落ちるたった一本の針の音を、聞き分けろというに等しいことかもしれない。惑星アポロニアと地球のあいだには深遠の宇宙空間が広がっているのだから。
新任の全権大使のあの若さでは、サードと呼ばれた男のロマンスをほじくりかえしている時間も、必要も、なかったのであろう。
「ひとつ訊きたい」
「なんですか?」
東尽は微笑を消し去っていた。彼をにらむのをやめて長い睫毛を伏せ、またすぐに真っ向から見つめる。
「サードは、なぜ来なかった?」
「ああ」
薄く、笑ったように見えた。
「宇宙船の事故があったのですよ。ニ十年前に……」
そんなことではなく、メンタルな理由を言ってほしかったことに気づく。
「……わかった、会おう」
不満をかみ殺して承諾すると東尽が段取りした。
「では明日の午後四時、迎えをよこしましょう」
「明日?」
「政財界のごくありふれたパーティーがあります。エスメラルダならば、私が同伴しても不自然ではないと思いますが」
リュイは顔をしかめる。
「休暇中だ。そんなウザったい集まりに出るつもりも、義理もない」
「それは、困りましたね」
ちっとも困っていないくせに、このビジネスライクなビジネスマンはそう言った。
「仮にもアポロニア最高の美女と地球の全権大使、パーティーでついでに紹介するならばともかく、それ以外でのシチュエーションでの対面となるとスキャンダルとしてスクープされるリスクが」
彼が示唆しているのはスキャンダルによるエスメラルダのイメージダウンであり、それによってもたらされる赤竜コンツェルンの業績ダウンでもある。なんといっても彼女は、赤竜の稼ぎ頭のひとつ、リューズ化粧品の顔なのだ。べらぼうな損害賠償を請求されることもありうる。
言外の含みに、選択の余地はなかった。けれども、黙って従うのも業腹だ。
「東尽普がエスメラルダを同伴するのはスキャンダルじゃないのか?」
経済界きっての堅物として有名な男が時流の華を連れ歩くなど、恋の狂い咲きか、ゴールイン一直線の真面目なおつきあいとしか考えられない。メディアはこぞってそう伝えるだろう。それこそ、ルックスのよい地球人の役人小僧と会った会わないどころではない、特大スキャンダルだ。
リュイが放った辛口のジャブを、東尽はいとも容易にかわす。
「あなたの幼なじみ君が善処してくれるので、私はそういったことを危惧する必要がないのですよ」
「……なるほど」
手駒としてルオを使える男に、脅しは通じないというわけだ。
「同様にエスメラルダの名誉を守ることも万全であると、保証しましょう」
「そりゃどうも」
「では明日、四時に。ドレスや美容スタッフはこちらで用意しますので」
「そりゃまたどーも」
着替えやメイクに要する時間込みの待ち合わせとは、そつがない。おそらくはエスメラルダが人目を引いて、必要以上にそのありふれたパーティーに──大使との対面に、関心を集めないように。こっそりと美しくお人形を飾り立て、すみやかに会場に運びこみ、ひそやかに用件をすませてしまおうというのだ。
たいした陰謀家だ、とリュイは思った。
「……あのう、東尽さん?」
陰謀家の策は、百パーセント自前の装備で走りだすには至らなかった。
ひかえめにではあるが、はっきりとアイリンは言った。
「明日のリュイのメイク、あたしにやらせていただけませんか」
「ばっ……アイリン、なに言いだす……っ?」
うろたえたのはルオだ。無理もない。自分が尊敬する企業家であり、心酔する年上の友人でもある男に、恋人が喧嘩を売っているのだ。
どう善意にとろうとしたって、それは「あんたの手配する美容師なんて腕が信用できないわよ」という意味の発言だった。
もちろん、彼女の真意はリュイだから自分がメイクしたい、それだけである。ルオにはわかっている。彦左にも、未だ凍りついたままのショウにも、理解できる理屈だ。
ただし、理屈がわかったところで根底の心情を肯定できるかと問われると、そこは、「うーん」とうなるしかないのだが……。
初対面の東尽にアイリンを判れとは、きつい注文だ。彼はおだやかに言った。
「きみが?」
にっこりと微笑み、アイリンはうけてたつ。
「あたし、プロじゃありません。でも、仕事だからやる他人にリュイを触らせたくないんです。せめてオフのあいだだけでも!」
「きみは……」
交渉時にとまどった様子の東尽を、ルオは初めて見た。
勝負はあった。自分を見る上司に、ルオはすまなそうな表情を返す。
「そうだな」
リュイの唇に笑みがのった。
「アイリンがメイクしてくれるんなら、お偉いさんのお誕生会だろうと披露宴だろうと、出てやるさ。だけど彼女がだめってェんならこの話、チャラだな」
「リュイ!」
大歓喜でアイリンはリュイにすりよる。
ルオの顔がひきつった。
「リュイ、てめ、この、いい気になるなよ! そもそも、こっちの手を借りなきゃ、スキャンダルなしで大使に会えねえって前提を、忘れんなよ」
「それはエスメラルダ・グリーンの問題だ、わたしの、じゃない。そしてエスメラルダというお人形が必要なのもわたしではないさ。違うか、東尽?」
トップモデルの花冠があってこそ、特命全権大使の目の高さに入りこむ機会が得られるのだ。
「これは契約だ」
もしもマネージャーが見ていたら、嘆息しそうなほど、積極的に交渉に出た。
「プロダクションも赤竜コンツェルンも、関係ない。わたしとおまえの契約だ、東尽普。おまえはエスメラルダを必要としている。だから、わたしはおまえのためにエスメラルダを用意する。いいな?」
「否、とは言えませんね」
彼が浮かべたのは、苦笑ですらなかった。ゆっくりとアイリンに視線を移す。
「明日、午後三時、ルオにドレスを届けさせます。六時までに仕度をしていただきたいのですが」
「ええ。わかりましたわ」
アイリンが形だけ微笑む。
両者のあいだを……まちがいなく何かがよぎった。
「では」
何事もなかった顔で立ち去る東尽を無愛想にリュイとアイリンは見送る。一呼吸遅れて、ルオが続く。
「アイ……」
ものいいたげに振り返ったところで、
「バイ、ルオ。また明日ね」
にべもなく追い払われる。
「あ、ああ。明日、なっ」
片手を上げて応じつつも、ぎろっとリュイにガンたれるのは忘れないルオであった。
「……かわいそうなやつ」
彦左の友情だけは、健在だった。礼儀正しく静かに閉じられたドアに向かって言ってやる。でも、もっとかわいそうなのは……己の受けた衝撃から、現時点になってもまだ復活できないでいるショウかもしれない。
午前十一時、東尽は星都ヘリオス市のホテル、アルハパティにいた。特命全権大使のご要望を叶えるべく、お膳立てを整えたことを報告するためである。
エレベーターで最上階に昇り、一歩フロアに出た瞬間に彼はそれを見た。
「放せ、バカヤロー!」
眼鏡をかけた男だ。
超一流ホテルに入るに問題ない身なりだったに違いない。光の加減で色彩が変わって見える生地を使ったスーツは、既製品ではない。
だが、着くずれていた。
きっと激しく揉み合ったためだ。撫でつけた髪も、乱れていた。
「おれの話をちゃんと聞けっ。おれはトリッケンだ! 映画監督なんだ! いちゃついてるヒマがあるなら聞きやがれってんだ、コノヤロー!」
丁重に、ガードマンたちによって担ぎ去られようとしていながらも叫ぶのをやめない。
「トリッケン……?」
東尽はいぶかった。本人が言うように映画監督、それも、アポロニアでは五指に入る名監督だ。そんな人間が地球大使に何の用だというのだろう?
「おれはあきらめないぞ! くそった」
トリッケンの捨て台詞はガードマンたちとともにエレベーターの中に消えていった。
疑問を感じつつも東尽は廊下を進み、フォースの部屋を訪ねた。
『どなた?』
コールしたあとの誰何が女性の声だということに、彼は驚かなかった。トリッケンの言葉から推測できたからだ。おちついて告げる。
「東尽普です。エフゲニー・ティラーデス氏にお会いしたい」
『普か、早かったなあ!』
大使の声が応じ、最初に話した女性によって彼は室内に通された。
「よお」
朗らかにフォースは笑いかけた。高々と昇った陽の光が白いレースのカーテンにくっきりと陰翳を散らしている。その清々しい背景に、東尽はめまいを覚えた。
「相変わらず、カテぇかっこー」
濃紺系の三つ揃い。靴は黒で、顔が映りそうなくらいに磨かれている。対するフォースは、くしゃくしゃのTシャツの裾をだらしなくジーンズにたくしこむという着こなしだ。足は裸足で、乱暴にソファーに飛び乗ると、片足だけを抱えて座った。
「お茶を淹れて参ります」
きつめのソバージュを波打たせながら女性が席を外してやっと、東尽は口を開いた。
「あなたというひとは!」
口調があきれはてていた。
怒りは、冷たく心頭に発している。
「ンだよ。言っとくけど俺がひっかけたんじゃないぞ? 私設秘書だとさ。なんとかって経済団体が雇ってよこしたんだ」
「賄賂と同じだと、思わないのですか?」
「だって、俺、いままで賄賂なんか、もらったことねーもん。清く正しい公務員だぜ。そんでもって、遠い異郷で地元の人が親切につけてくれた秘書を断ったりしたら、後々よくなかろ?」
どうせ親切でするなら、男にしろ、と東尽はその経済団体とやらに言ってやりたかった。もしくは、もっと十人並みの容姿のおばさんをつけろ、と。
「ああ見えてもおツムは優秀らしいぜ」
ブラウスの胸がはちきれそうにグラマーで艶冶な秘書なんて、下心が見えすぎなのだ。陳腐な手だ。
「要するに」
身をのりだして東尽のほうに顔を寄せる。合わせて前かがみになると、フォースは彼のネクタイをひっつかんで、ささやいた。
「ただの尻軽女じゃあないってことだ」
東尽が首を傾けて自分の顔を見ようとしているのを察して、ネクタイを放す。目線がぶつかると、皮肉っぽく笑った。東尽は真顔で言った。
「確認した、ということですね」
首筋に残るのは、ほの紅い痕跡。唇やTシャツにルージュが付着していないのをみると、彼女はリューズ化粧品の看板商品をご愛用のようだ。
「ああ」
フォースはぜんぜん悪びれない。
「だいたい、今朝会ったばかりですぐボスとどーこーできる秘書なんざ、俺は信じらんねえよ」
「一目惚れの可能性は?」
「ある! かもしれんが、初対面で押し倒されるのは好みじゃないんだ。あの奇妙な眼鏡のオヤジが乱入してくれなかったら、いまごろ俺はズタボロにされてたぜ、きっと」
「レーブ・トリッケンですね。やはり、あなたのところに現れましたか」
視線のみに非難を残して見つめながら、東尽は話題を切り替える。そろそろ、お茶が出てくるころだ。やおら姿勢を正す。
「知ってるのか」
こちらも、今度は両足を引き上げてソファーの上にあぐらをかいて尋ねた。
「何度か賞をとっている映画監督ですよ。次はワーグナーを撮るそうですので、地球政府の後援でも要請してきましたか」
「いや」
彼らしくもなく言いよどむ。
「出ろって」
「はあ?」
「俺に、映画に出てくれって言いに来たらしいんだ」
「トリッケンが?」
そこへトレイを捧げ持って秘書が近づいてきた。
出されたばかりの紅茶を、気まずそうにフォースがすする。
「出演、なさるのですか?」
「断った」
「それで?」
「あいつが興奮してしゃべくりまくるから、うるさいんでガードマン呼んで追っ払った」
それがあの騒ぎの前編だったのだ。
「左右をがっちり押さえられて、ほとんど担がれていきましたよ、あの人は」
「見たのか」
「ええ」
「話を聞いてると、なかなか愉快なオヤジなんだがなあ。でも俺、公僕だろ? バイトなんて御法度だし、かといって大使の地位をふるわけにゃあいかねぇじゃないか」
約束された高くはないが権威ある地位と、魅惑的で華やかな芸能界へのデビューに揺れる若造を、演じているのだ。彼には特命全権大使の地位など、もはや必要ないのだから。恵利奈のためでなければ、そのような地位に就くことを望みさえしない人間なのだ。東尽は知っている。
──だから、か……。
軽薄で、地位と名誉に目がくらむ派手好みのへらへら野郎など、懐柔され放題でチョロすぎる俗物だ。言うがまま、されるがまま、操ろうとする側にとっては実にありがたい存在ではないか。
そんないいかげんな男ならば、女性に惚れっぽくてあたりまえ。
話題の美女のお尻を追いかけるのは自然の摂理。
すべては彼がエスメラルダに会うための布石なのだ。
なぜなら、地球大使を操りたい人間に、彼が本心から彼女に会いたがっていることを知られるわけにはいかないから。
「ですが大使、残念でしたわね」
美人秘書が言う。
「出演なさっていれば、いま大評判のエスメラルダ・グリーンにも、きっとお会いになれましたわ」
「なぜだ?」
「彼女も《ニーベルングの指輪》に出演するそうですもの」
「そういや、そうだったな。やあ、残念だな」
芝居がくさすぎる。東尽はいっそここで見捨てて帰りたくなった。
「おまえもそう思うだろう、普?」
「そうですね」
おざなりにあいづちを打つが、言葉を添えてみた。
「もしそうだったら、関係者のパーティーや撮影現場で会って話をするチャンスも多かったでしょうね。ああ、パーティーといえば」
かなりわざとらしい転換だが、いつまでも猿芝居を続けているのは苦しい。
ここぞとばかり、さらりと言った。
「ラドリー経済相のパーティー、大使はお出になれますか?」
「今夜のか? ああ。ハウザーおやじがそろって顔見せするいい機会だっていうから、予定に入ってる」
「それは結構」
うなずいて、今日わざわざアルハパティへ出向いてきた趣旨をほのめかした。
「首相をはじめとする各大臣や大物政治家、経済界の栄えどころが集まりますからね。宝石のような美人にも、出会えますよ」
「へーえ、そりゃ楽しみだ」
フォースは軽く受け流す。だが、聞き流してはいない。
「では」
立ち上がった東尽の背に向かって念を押す。
「今夜、また会おう、東尽」
「……はい」
半身だけ振り返って大使を見る。
鮮烈なエメラルドの輝きが、咲王緑惟のそれと重なり、彼はひそやかな息をついた。
── だいさんのおとこ ───────




