Ⅹ
その後はつつがなく、リーシャとフランネと別れ、マリアベルは家へと戻った。
開け放したままの扉を思い出して、少し不安になったが、家にはなんの異変もなかった。強いて言えば、マリアベルのぶんの食器も洗われ、きちんと棚に整理されて置かれていたことだろう。
――気を遣わせてしまったらしい。
マリアベルはしっとりと息を吐きだすと、ダイニングの椅子に腰かけて、長い間時計の針が時を刻む音を聞いていた。
ぼーん―― と間延びした、大げさな音が響く。時計が午後八時を告げていた。そんなに時間が経った意識もないのに。マリアベルはセキトウと食事をしていた朝の光景を思い出した。
祖父はマリアベルと同じでトマトが好きではなくて、ベーコンが好きだった。けれど、色味が悪いからと無理やりサンドウィッチにトマトを入れる。そうしておいて、自分でそれを食べた時に苦笑いをする。
マリアベルもトマトが苦手なくせに、自然とサンドウィッチにはトマトを入れてしまう。祖父はもういない。マリアベルは色味なんて気にしない。それなのに、自然と入れてしまう。
野菜が余っているからだ、と自分に言い訳をする。
けれど、ほんとうは自分でもわかっているのだ。祖父が返ってきたようなつもりで、自分がいつもよりうきうきしながらトマトをパンにはさんでいたことを。
けれど―― セキトウはトマトを美味しそうに、めずらしそうに食べていた。その違いが、彼が祖父とは違うのだと否応なしにわからせる。
頭では当然理解している。セキトウと祖父は別だ。ぜんぜん違う。……ただ彼と一緒にいると、感じたことがない、心の奥を温められるような懐かしさを覚えることがある。その雰囲気が―― それだけが祖父と被って、ときどき狂おしくなる。この感情の正体はなんだろう。
ぼうっと時を過ごす。八時三十分、四十分―― 時は日めくりのカレンダーをパラパラとめくるように、呆気なく過ぎ去っていく。マリアベルはまた別のことを考え始めていた。
結局、あの告別式で誰かが「納得」したのだろうか。そうは思えない。
人々は始まる前も終わった後も、まるで魂が抜けおちたかのようだった。
例えば、そう。まるで大切な我が子を失って、その死が未だに実感できない親のような。
我ながら酷いたとえだと、マリアベルは思った。けれど彼らの顔は一様に、祖父を失った時に鏡で見た自分の顔にそっくりだ。
何か、何か目に見えないものがある。彼らはほんとうに「照らす魔女」に別れを告げにやってきたのだろうか。わからない。
ぼーん、と再び時計の音が、マリアベルの指向にくさびを打ち込んだ。午後九時。街の消灯まで残り二時間。
そこを区切りにして、マリアベルは立ちあがった。
腹は減っていなかったが、何かを口にしたい気分だった。階段を上り、セキトウを呼びにいく。
タラップを上がって屋根裏に入っていくと、セキトウはやはり大きな窓の近くに居た。しかし、その雰囲気にはただならぬものがあった。
彼はいつも、窓に寄り添うように、頬杖をついて外を眺めている。それが今、膝を立てて窓の外へ飛び出して行かんばかりに硝子に手を突いて、食い入るように何かを睨みつけていた。
「――何を見てるの?」
不安になって声をかけてみると、セキトウは意外にもあっさりと振り返った。
その顔に浮かんでいたのは、この二日間のうち、見たこともないような表情だった。包み込むような微笑みではなく、焦燥感と期待、決意に満ちた表情だ。
「予想と違った」
セキトウは機会的な、しかし芝居がかった口調でそういった。
「違った、って何が」
「何があったかは知らないけど―― いや、何かあったんだろう? 告別式とやらで」
心なしか、口調も固い。セキトウは鋭い目つきのまま、見つめていたもの―― 街の中心にそびえる塔を指した。
「何かって言われても、ただ話を聞いてただけだし。あ、でも」
マリアベルは最後の最後で、塔が光を放ち始めたことを思い出した。そのことを話して聞かせると、セキトウはようやく見慣れた頬笑みを浮かべる。
「なるほど、きみもあの光は見えるんだね。……あれは、時が満ちた証拠だよ。まさか足りなかった分が、一気に集まってくれるとはね。思いもしなかった」
額に手を這わせ、くつくつと喉を鳴らす。
「塔が光出す前に、みんなで何をやったんだい? 遠目から、広場全体が光を放っているように見えたけど」
「送り火の代わりに、みんなで『灯りを燈す』魔術を使ったのよ」
「……魔術を使ったんだね。街のみんなで?」
セキトウの念押しに、マリアベルは頷いた。
「わかった。……この街の人たちの、彼女への思いは本当だったんだな」
突然、セキトウが指をパチリと打ちならす。彼の指先から赤い粒子が舞いあがって屋根裏部屋を満たした。薄暗い室内が赤く煌めく。マリアベルはその光景を目を白黒させながら見守った。
「マリアベル」
セキトウが、初めてマリアベルの名を呼んだ。
「ありがとう。ほんとうは三日待つつもりだったけど、もう充分だ。今度こそ成功できるって確信があるよ」
懐かしい壁が、床が光っている。それらに視線を忙しなく運びながら、マリアベルは訊ねた。
「あんた、どこにいくつもり?」
「今度こそ、使命を果たしにいくんだよ。……あの塔に」
「塔に?」
あの塔の扉は開かないはず。マリアベルはぼんやりとそう考えた。
しかし、彼は―― セキトウは「魔女の息子」だ。ましてや、塔は今でも何かを知らせるように妖しく光っている。それがセキトウの言うように「時が満ちた証拠」なら、扉が開いてもおかしくないような気がした。
「そう。考えもしなかったけれど、あの塔は「そのための」塔なんだ。今ならきっと扉が開く。ぼくはいかなくちゃならない」
そういうなり、セキトウは颯爽と立ち上がる。翻った外套の裾から、輝く砂のような粒子が洩れて、床を漂う。
「きみも行こう」
セキトウが夢のような声音でそう誘った。マリアベルは「えっ」というかたちに口を変形させたが、声は出なかった。
「知りたいんだよね? ぼくが何で、何をする者なのか。ずっと保留にしていたんだ。きみには知る権利がある。それに――」
セキトウの光に包まれた手が、差し出された。マリアベルは恐る恐るその手に中指を、人差し指を―― と順番に触れる。
「個人的に、見てもらいたいんだ。きみに。魔女が遺したものを」
手がそっと包まれる。
セキトウの不思議な手は、今まで触れてきた誰の手よりも、温かくて柔らかだった。




