第五章 同じ顔
翌朝、青年は自分の顔を撮影した。
特別な理由はなかった。
昨夜、鏡の中の自分に違和感を覚えたことが、まだ少し気になっていた。それだけだ。
スマートフォンを棚に立てかけ、録画を始める。
青年はカメラを見た。
「おはようございます」
何も起こらない。
「……何やってんだ、俺」
録画を止めた。
再生する。
画面の中の青年は、少し眠そうな顔でこちらを見ていた。瞬きもする。鼻の頭を掻く。口元を歪める。
普通だった。
青年は動画を削除しようとして、指を止めた。
おすすめ動画に、見覚えのある顔があった。
自分だった。
白い衣服。背景には見渡す限りの荒野。青年の顔は静かで、目には深い慈愛が宿っている。
字幕が現れた。
『あなたは、なぜ自分を疑うのですか?』
青年は動画を再生した。
画面の中の青年が微笑む。
「お前は、いいよな」
青年は思わず口にした。
「俺より、俺らしいじゃん」
動画の青年は答えない。
ただ、微笑んでいる。
青年は一時停止した。
拡大する。
顔の輪郭。眉の形。目尻の小さな皺。自分の顔だった。だが、画面の中の青年には、現実の自分が持っていない何かがあった。
自信、と言えばいいのか。
迷いのなさ、と言えばいいのか。
青年は自分の顔を撮影した動画を、もう一度再生した。
眠そうな男が、ぼんやりとカメラを見ている。
画面を切り替える。
神のような男が、世界を見つめている。
切り替える。
眠そうな男。
神のような男。
眠そうな男。
神のような男。
青年はスマートフォンを伏せた。
部屋が静かになった。
しばらくして、端末が震えた。
新しいコメントがついていた。
『彼は、こちら側の世界に気づき始めている』
青年は眉をひそめた。
こちら側。
何のことだ。
返信があった。
『もうすぐ、彼は自分が何者なのかわかる』
さらに返信。
『いや、もうわかっているんだと思う』
青年はコメント欄を閉じた。
閉じたはずだった。
画面には、別の動画が表示されていた。
いつもの顔。
いつもの微笑み。
字幕が浮かび上がる。
『あなたは、ここにいる』
青年は画面を見た。
「……俺は、ここにいるよ」
口に出してから、自分が誰に向かって話したのか、わからなくなった。
画面の中の青年は微笑んでいた。
青年は録画ボタンを押した。
「俺が、本当にここにいるのかって話です
言葉が、思ったより自然に出た。
「あなたが本当にいるのか、俺にはわからない。だって、あなたの意識なんて見えないだろ」
少し考える。
「俺も、同じじゃないか」
録画を止めた。
投稿するつもりはなかった。
ただ、自分が何を考えているのか、声にして確かめたかった。
青年は動画を保存した。
数分後。
その動画は、動画サイトに公開されていた。
タイトルはついていない。
公開した覚えはなかった。
青年は投稿画面を確認した。自分のアカウントだった。操作履歴を開く。何もわからない。
再生数が増えていた。
コメントもついていた。
『彼は、ついに気づいた』
『自分と他人の違いを考え始めたんだ』
『あなたなら、もうわかっているはずです』
青年は画面を閉じようとした。
指が止まった。
最後のコメントを、もう一度読む。
あなたなら、もうわかっているはずです。
「何をだよ」
返事はなかった。
青年は自分の動画を再生した。
画面の中の自分が、こちらを見ていた。
「俺が、本当にここにいるのかって話です」
青年は画面を見つめた。
「あなたが本当にいるのか、俺にはわからない」
そこで動画が終わった。
青年は、もう一度再生した。
今度は、自分の顔だけを見た。
三度目。
四度目。
五度目。
再生するたびに、自分の声が少しずつ他人の声に聞こえた。
スマートフォンを置く。
青年は部屋を見回した。
脱ぎ散らかした服。飲みかけのペットボトル。流しに積まれた食器。壁の染み。
どれも見慣れたものだった。
自分が暮らしている部屋。
自分が生きている場所。
青年は、ゆっくりと鏡の前に立った。
鏡の中の青年も立っていた。
目を合わせる。
瞬きする。
鏡の中の青年も瞬きする。
青年は笑ってみた。
鏡の中の青年も笑った。
今度は、ズレなかった。
青年は安心した。
そして、ふと思った。
――もし、ズレていたとしても。
自分に、それがわかるだろうか。
背後でスマートフォンが震えた。
青年は鏡から目を離した。
画面には、新しいおすすめ動画が表示されていた。
タイトルは、
『彼は、どちら側にいるのか』
だった。
青年は動画を開いた。
画面は真っ暗だった。
数秒後、白い字幕が現れた。
『あなたは、もうこちら側にいます』
青年は、画面を見つめた。
動画の再生時間は、まだ残っていた。
けれど、それ以上、何も表示されなかった。




