第四章 こちら側
「哲学的ゾンビ」と検索すると、いくつもの解説記事が表示された。
青年は最初の記事を開いた。
外見も言動も普通の人間と変わらない。しかし、内側には意識がない。痛みを感じているように振る舞っても、実際には何も感じていない。
そういう存在を想定する思考実験らしい。
青年は記事を閉じた。
「何だよ、それ」
次の記事を開いた。
哲学者の名前と、難しい用語が並んでいた。
青年は二、三行読んで、やめた。
他人に意識があることを、完全に証明できるのか。
考えてみれば、相手が何を感じているのか、自分には直接わからない。表情や声や行動から推測しているだけだ。
それでも、普通は疑わない。
青年は検索欄に戻った。
「自分が現実だと証明する方法」
検索結果を眺めているうちに、背後のパソコン画面が暗くなった。
黒い画面に、自分の顔が映っていた。
青年は振り返った。
誰もいない。
もう一度、パソコンを見る。
そこには、散らかった部屋と、自分の顔が映っていた。
彼は画面を閉じた。
*
翌日、動画サイトに新しい映像が投稿されていた。
タイトルはなかった。
サムネイルには、薄暗い部屋が映っている。
青年は再生した。
机。椅子。床に散らばった服。
ありふれた部屋だった。
だが、妙に見覚えがあった。
カメラは部屋の隅に固定されている。画面の中央には机があり、その上にはスマートフォンが置かれていた。
青年は動画を止めた。
自分の部屋を見回す。
机の位置が違う。
椅子も違う。
壁際には花瓶が置かれていたが、自分の部屋に花瓶はない。
似ているだけだ。
青年は再生を続けた。
映像の中のスマートフォンが光った。
画面には、動画サイトが表示されていた。
青年は眉をひそめた。
その画面の中にも、動画があった。
自分と同じ顔の男が、海の上を歩いている。
青年は一時停止した。
しばらく画面を見つめてから、手元のスマートフォンを確認した。
同じ動画サイトが開いていた。
彼は画面を伏せた。
動画の中では、何も起きていなかった。
誰もいない部屋。
机の上のスマートフォン。
ただ、それだけだった。
青年は動画を最後まで見た。
*
その夜、青年は鏡の前に立った。
鏡の中の男は、疲れた顔をしていた。
彼は顔を近づけた。
目を動かす。
口を開ける。
舌を出す。
鏡の中の男も同じ動きをした。
青年は少し笑った。
「当たり前だよな」
洗面台の蛇口をひねった。
水が流れる。
顔を洗い、目を閉じた。
水を止めて、顔を上げる。
鏡の中の自分を見た。
ほんの一瞬、目が合わなかったような気がした。
青年は動かなかった。
鏡の中の男も動かなかった。
水滴が、顎から落ちた。
ぽつり。
洗面台に当たる音がした。
青年はタオルを取った。
振り返る前に、もう一度だけ鏡を見た。
そこには、いつもの自分がいた。
*
深夜、青年は再び動画を開いた。
あの部屋の映像だ。
再生数は少ない。
コメントも、ほとんどついていない。
その中に、ひとつだけ短い書き込みがあった。
〈あなたは、ここにいる〉
青年は画面を見つめた。
動画の中の部屋は、静まり返っていた。
スマートフォンの画面が暗くなる。
その黒いガラスに、青年の顔が映った。
彼は自分のスマートフォンを持ち上げた。
画面の中のスマートフォン。
手元のスマートフォン。
動画の中の画面には、また別の動画が映っている。
青年は動画を止めた。
画面の中の部屋は、そこで静止した。
彼はスマートフォンを裏返した。
黒いガラスに、自分の顔が映った。
青年は、その顔を見つめた。
「……どっちが?」
言葉は、部屋の中に落ちた。
返事はなかった。
スマートフォンが震えた。
新しいおすすめ動画が表示されていた。
青年は画面を開いた。
自分と同じ顔の男が、こちらを見ていた。
字幕が現れた。
〈あなたは、もう気づいているはずです〉
青年は動画を閉じなかった。




