第二章 選ばれた男
翌朝、青年は目覚めるとすぐにスマートフォンを手に取った。
通知が増えていた。
昨夜の動画は、さらに拡散されていた。再生数は百万を超えている。似たような映像が次々と投稿され、どれも同じ顔を使っていた。
自分の顔だった。
海の上を歩く。
病人に手をかざす。
暗い部屋で目を閉じ、祈るように両手を組む。
動画によって服装も背景も違っていたが、顔だけは同じだった。
青年はベッドの上であぐらをかいた。
「いや、盛りすぎだろ」
ひとつの動画を開く。
男が手を上げると、空から光が降り注いだ。地面に倒れていた人々が一斉に立ち上がる。画面には、荘厳な音楽が流れていた。
青年は音量を下げた。
「誰だよ、この人」
自分だった。
それが妙におかしかった。
コメント欄には、昨日よりも強い言葉が並んでいた。
〈この人は本物だと思う〉
〈目に嘘がない〉
〈ずっと待っていた人が、ようやく現れた〉
〈これがAIなら、なぜこんなに心を動かされるんだろう〉
青年は最後のコメントを読み、少しだけ考えた。
なぜ心を動かされるのか。
映像と音楽がうまくできているからだろう。
顔の表情。光の当たり方。ゆっくりとした動作。見る人間が期待するものを、見る人間が期待するタイミングで見せる。
そういう技術なのだ。
それを奇跡と呼ぶかどうかは、見た人間の自由だった。
青年は画面を閉じた。
その直後、別の動画が目に入った。
〈救世主の正体を知る方法〉
「まだやってんのか」
青年は笑いながら、サムネイルを通り過ぎた。
そのとき、ひとつのコメントが目に留まった。
〈本人に会ってみたい〉
指が止まった。
〈どこにいるんだろう〉
〈きっと、私たちの近くにいる〉
青年はスマートフォンから目を離した。
部屋を見回した。
散らかった床。洗濯物。食べ終わったカップ麺。閉じたカーテン。
ここにいる。
自分は、ここにいる。
そう考えて、彼は少し笑った。
まさか、本当に探しに来る人間がいるわけではない。
動画の中の顔が自分に似ているというだけだ。住所も名前も知られていない。誰かが本気で信じていたとしても、どうしようもない。
青年はスマートフォンを枕元に置いた。
それから、すぐにまた手に取った。
*
昼過ぎ、青年はカメラの前に座った。
撮影するつもりはなかった。
ただ、コメント欄を眺めているうちに、少し腹が立ってきたのだ。
勝手に神様にされ、勝手に期待され、勝手に言葉の意味まで決められている。
一度、本人が説明すれば済む話だった。
青年はカメラを起動した。
画面には、見慣れた部屋が映っていた。
壁紙の剥がれたところ。テーブルの上のペットボトル。背後に積まれた洗濯物。
神秘的な雰囲気など、どこにもない。
青年は咳払いをした。
「どうも。ネットで神様になってるらしい男です」
自分で言って、笑ってしまった。
「えー、まず、空も飛べません。水の上も歩けません。家賃も払わなきゃいけません」
少し間を置く。
「だから、あの動画はAIです。作り物。俺じゃありません……いや、顔は俺だけど。とにかく、信じるなよ。あれ、AIだろ」
青年は録画を止めた。
見直すと、思ったよりも面白かった。
最後の言い方は少し雑だったが、それくらいの方が伝わるだろう。
動画のタイトルは、簡単にした。
〈ネットで神様にされた男です〉
投稿ボタンを押す。
青年は椅子にもたれた。
「これでわかっただろ」
*
夕方には、コメントがつき始めていた。
最初のうちは、普通の反応だった。
〈本人かよ〉
〈似てると思ったら本人だった〉
〈やっぱりAIなんだな〉
青年は満足した。
ところが、コメントを読み進めるにつれ、様子が変わってきた。
〈こんなことを言わされているのかもしれない〉
〈本物ほど、自分が特別だとは思わないものだ〉
〈謙虚なところが、ますます本物っぽい〉
青年は口を開けたまま、画面を見つめた。
「いや、知ってるよ。俺だよ」
コメント欄の下では、議論が始まっていた。
〈神が自分を神と認めるわけないだろ〉
〈試されているんだ、俺たちは〉
〈彼が否定しても、彼を信じることが大切なんだと思う〉
青年は笑おうとした。
笑えなかった。
「いやいや……」
彼は自分の動画を再生した。
画面の中の自分は、笑っている。
確かに、少しふざけた顔をしていた。
けれど、何度見ても、神様に見えるような表情ではなかった。
青年は動画を閉じた。
コメント欄には、さらに返信が増えていた。
誰かが自分の言葉を引用し、別の誰かがその意味を解説している。
本人が否定している。
だからこそ、本物なのだ。
その理屈の中では、青年の言葉は必要なかった。
彼はスマートフォンを伏せた。
しばらくして、また画面を点けた。
コメントが増えていた。
青年は、ひとつずつ読んだ。
*
夜、動画サイトを開くと、自分の否定動画が切り抜かれていた。
タイトルは、
〈救世主、ついに沈黙を破る〉
だった。
「沈黙してねえよ。しゃべってるだろ」
青年は動画を再生した。
自分が「空も飛べません」と言っている場面だけが切り取られていた。その直後には、海の上を歩くAI映像が挿入されている。
音楽が重なり、最後に自分の顔が大きく映し出された。
まるで、自分の言葉を何かの予言のように扱っている。
青年はコメント欄を開いた。
〈本物だからこそ、普通の人間のふりをしている〉
〈彼の言葉には深い意味がある〉
〈私たちは、彼の言葉を正しく理解しなければならない〉
青年は画面を消した。
「俺、何やってんだろ」
部屋は静かだった。
彼は椅子から立ち上がり、窓の方へ歩いた。
カーテンは閉じたままだった。
何となく開ける気になれなかった。
テーブルの上に戻り、スマートフォンを手に取る。
動画の再生数が増えていた。
否定動画も、切り抜きも、どちらも伸びている。
青年は数字を見比べた。
それから、切り抜きをもう一度再生した。
自分の顔が画面いっぱいに広がった。
青年は、その顔を見つめた。
知らない人間の顔を見ているような気がした。
*
深夜。
青年は布団に入っていた。
眠るつもりだった。
だが、おすすめ動画をひとつ開いたところで、目が冴えてしまった。
画面の中の男は、自分と同じ顔をしていた。
今度は、何もない白い空間に立っている。
表情は穏やかだった。
男はカメラを見つめ、静かに口を開いた。
「恐れることはない」
字幕が表示される。
「私はあなたたちを見ている」
青年は動画を止めた。
「……見てねえよ」
スマートフォンを閉じようとした。
指が止まった。
画面の男は、こちらを見ていた。
青年は再生を続けた。
男は何も言わなかった。
ただ、微笑んでいた。
動画は終わった。
自動再生が始まる。
同じ顔。
今度は、夕暮れの海岸に立っている。
青年はスマートフォンを置いた。
暗い画面に、自分の顔が映った。
彼は画面を点けた。
さっきの動画を、もう一度再生した。
男の顔を見つめながら、青年はふと思った。
俺、こんな顔するんだ。
そう思った瞬間、画面の男が笑った。
青年も、少しだけ笑っていた。
スマートフォンが震えた。
新しい通知だった。
青年は動画を止め、通知を開いた。
再生数が、また増えていた。
彼はその数字をしばらく見つめていた。
それから、動画をもう一度再生した。




