第一章 奇跡の作り方
青年は、朝の十時に目を覚ました。
目覚まし時計は鳴らなかった。そもそも、目覚ましを設定していなかった。
カーテンの隙間から、白っぽい光が差し込んでいる。
床には脱ぎ捨てた服があり、テーブルには空のペットボトルと、昨日食べたカップ麺の容器が残っていた。部屋の隅では、コンビニの袋が口を開けたまま倒れている。
青年は布団の中でスマートフォンを探した。
枕の下にあった。
画面を点ける。通知がいくつか並んでいたが、急いで確認するようなものはない。
動画サイトを開く。
最初に表示されたのは、海の上を歩く男の映像だった。
男は裸足で水面に立っていた。波が足元を通り過ぎても、身体は沈まない。背後には雲の切れ間から光が差し、画面全体が金色に輝いている。
映像の上には、こんな文字があった。
〈現代に救世主が現れた〉
青年は動画を再生した。
男が歩く。
水面に波紋が広がる。
男は立ち止まり、ゆっくりと空を見上げた。
そこで映像が終わった。
青年はもう一度再生した。
今度は、足元をよく見た。
波の動きが少し不自然だった。男の身体も、よく見ると水面に浮いているように見える。
「すげえな。何でも作れるんだな、今は」
感心したというより、呆れた声だった。
AIで映像を作れるという話は知っていた。文章を入力すれば絵ができる。写真の人物が動き出す。存在しない人間が、存在しない場所で、存在しない出来事を語る。
以前なら、映画やテレビの制作会社が大勢の人間と機材を使って作っていた映像が、今では個人のパソコンでも作れる。
もちろん、細かく見ればおかしなところはある。指が増えたり、顔が一瞬だけ変わったり、物の形が途中で別のものになったりする。
それでも、何となく眺めているだけなら、十分に本物らしかった。
動画のコメント欄には、感嘆の言葉が並んでいた。
〈本物だ〉
〈ついに来た〉
〈世界は変わる〉
青年は鼻で笑い、動画を閉じた。
「腹減った」
朝の十時にしては遅い朝食だったが、誰に迷惑をかけるわけでもない。
彼は布団から出て、テーブルに残っていた空のカップ麺をゴミ袋に放り込んだ。
袋はすでにいっぱいだった。
見なかったことにした。
*
昼過ぎ、青年は新しいカップ麺を作った。
湯を注いで三分待つ。
その間、パソコンで求人サイトを開いた。
募集職種、勤務時間、給与、福利厚生。
画面をスクロールする。
気になる求人をひとつ見つけたが、応募条件を読んで閉じた。別の求人を開き、勤務地を確認して閉じた。さらに別の求人を開き、給与を見て閉じた。
カップ麺の蓋を剥がした。
麺は少し伸びていた。
青年はテレビの代わりに動画サイトを開いた。
おすすめ欄には、さっき見たものと似た動画が並んでいた。
〈科学では説明できない現象〉
〈この男を見てはいけない〉
〈世界が隠していた真実〉
「見てはいけないって、見せたいんじゃねえか」
独り言を言いながら、ひとつの動画を選んだ。
薄暗い海岸に、男が立っていた。
長い髪。白い服。逆光で表情はよく見えない。
男が一歩踏み出す。
足元の砂が、水に変わった。
次の瞬間、男は海の上を歩いていた。
青年は麺をすすりながら見ていた。
男がカメラの方を向く。
顔が見えた。
青年は箸を止めた。
もう一度、画面を見た。
男の顔は、自分と同じだった。
髪型も、目元も、鼻の形も。
少なくとも、ぱっと見た限りでは、自分以外の誰かだとは思えなかった。
青年は動画を戻した。
再生する。
男が振り返る。
自分の顔が、海の上に現れる。
青年は箸を置いた。
「俺じゃん」
動画を止めた。
画面の中の男は、静かな表情でこちらを見ていた。
青年は自分の頬に触れた。
それから、画面の男の頬を指でなぞった。
もちろん、指先に触れるのはスマートフォンのガラスだけだった。
動画のタイトルは、こうなっていた。
〈海に現れた奇跡の男。その正体とは〉
青年は笑った。
「何だよ、これ」
コメント欄を開く。
〈この目を見てほしい〉
〈作り物にしてはリアルすぎる〉
〈AIでここまでできるのか?〉
〈いや、これは本物だと思う〉
青年はカップ麺を食べ終えた。
麺はすっかり伸びていた。
画面の中の自分は、海の上に立っていた。
こちらの自分は、狭い部屋で、伸びた麺を食べていた。
その落差がおかしくて、青年はしばらく笑っていた。
*
午後三時。
青年は動画を保存した。
誰かに見せるつもりだったのかもしれない。
だが、連絡先を開いても、すぐに送れる相手は思いつかなかった。
昔の知人とは、ほとんど連絡を取っていない。
家族に送るほどのことでもない。
結局、保存した動画をもう一度再生した。
海の上を歩く自分。
顔を上げる自分。
カメラを見つめる自分。
青年は動画の説明欄を読んだ。
撮影場所は不明。
投稿者の情報もほとんどない。
説明欄の最後に、短い一文があった。
〈彼が誰なのか、あなたにはわかるはずです〉
「わかるわけねえだろ」
青年は検索欄を開き、自分の名前を入力した。
同姓同名の人間が何人か表示された。
ニュース記事、スポーツの記録、古いSNSのアカウント。
どれも自分とは関係がなかった。
自分の顔が出ている動画も、ほかには見つからない。
青年は検索結果を閉じた。
「俺、水泳苦手なんだけどな」
誰に聞かせるでもなく言った。
そのとき、動画サイトの画面に新しいおすすめ動画が表示された。
同じ顔。
今度は、病院らしき場所で、ベッドに横たわる人物に手をかざしていた。
人物が目を開ける。
周囲が光に包まれる。
画面の下には字幕があった。
〈奇跡の瞬間〉
青年は再生しなかった。
サムネイルの中の自分だけが、こちらを見ていた。
*
夜。
部屋の照明をつけないまま、青年はベッドに腰掛けていた。
スマートフォンの光が、顔の下半分を照らしている。
昼間の動画は、いつの間にか再生数が増えていた。
数万回。
数十万回。
青年は数字を見直した。
桁を読み違えたのかと思った。
動画を開く。
コメント欄には、さらに多くの言葉が流れていた。
〈この人を見ていると涙が出る〉
〈何かを思い出しそうになる〉
〈私たちはずっと待っていた〉
〈この人は、きっと自分が何者なのか知らない〉
青年は口元を緩めた。
「いや、知ってるよ。俺だよ」
自分の顔が勝手に使われている。
それだけの話だ。
誰かがAIで作った映像が、たまたま自分に似ていた。いや、似ているというより、自分の顔そのものに見える。理由はわからないが、顔写真をどこかから拾われたのかもしれない。
それでも、動画を作った人間が何を考えているのかはわからなかった。
青年は投稿者のページを開いた。
動画はほかにもいくつかあった。
どれも、同じ男が登場する。
海の上を歩く男。
光に包まれる男。
何もない場所で、ただ静かにこちらを見つめる男。
青年は動画をひとつずつ再生した。
気づけば、日付が変わっていた。
画面の上に通知が表示された。
〈あなたに関する動画が急上昇しています〉
青年はその文章を読んだ。
「俺に関する動画?」
小さく笑った。
通知をタップする。
検索結果が開いた。
自分の顔が並んでいた。
ひとつ、またひとつ。
海の上に立つ自分。
光の中に立つ自分。
こちらを見つめる自分。
青年は画面をスクロールした。
その顔は、どれも自分だった。
そのどれもが、自分ではなかった。
彼はスマートフォンを置いた。
暗い部屋の中で、画面だけが光っていた。
しばらくして、青年はまたスマートフォンを手に取った。
再生数は、さらに増えていた。




