第九話 人の灯
男の足元には、すでに一体のダスクウルフが倒れていた。灰色の毛並みは血に濡れ、首元には深い斬り傷が走っている。
残る一体は低く身を伏せ、男との間合いを測りながら左右へ動いていた。対する男も剣を構えたまま視線を逸らさず、その身体を淡い緑色の魔力が覆っている。
エインは倒木の陰に身を潜め、二人の戦いを見つめた。
ダスクウルフが地面を蹴り、一息に距離を詰める。男は振るわれた爪を身を引いてかわすと、すれ違いざまに剣を薙いだ。
ダスクウルフは身を捻って刃を逃れたが、灰色の毛がわずかに散る。
「ミラ!」
「分かってる!」
後方の女が右手を向けた。掌へ集まった赤い魔力が炎へ変わり、身を翻そうとしたダスクウルフの脇腹を捉える。
短い悲鳴とともに巨体が傾いた。その隙を逃さず踏み込んだ男の剣が、首元へ深く食い込んだ。
ダスクウルフは地面へ倒れ、脚を一度だけ痙攣させる。それきり動かなくなったのを確かめ、男は剣についた血を振り払った。
「第五等級とはいえ、こんな浅いところまで出てくるのは珍しいな」
「群れから逸れただけじゃない?」
「ならいいが、戻ったら報告しておく。ミラ、二体とも見てくれ」
「もう見てるわよ」
ミラは最初に倒れていた一体へ近づき、指先を向けた。
「光よ」
淡い光が灯り、そのまま傷口から身体の各所を照らしていく。
「どちらも普通のダスクウルフみたい。変わったところはなさそうね」
「そうか」
その会話を聞きながら、エインは二人を観察していた。
(あれは……)
『聖灯士って連中だ。教会にいる魔物狩りだと、ジジイから聞いた』
エインは息を潜めたまま、わずかに眉を寄せた。
(……今の私の言葉が聞こえたのか?)
『あ?』
(今、私は声に出して話していない)
『……お前とは頭ん中で会話できるってことかよ。ますます意味が分からねぇな』
(同感だな)
エインがわずかに体勢を変えようとしたそのとき、足元の濡れた土が崩れた。
靴底に弾かれた小石が斜面を転がり、倒木へ当たって乾いた音を響かせる。
男の顔が上がった。
先ほどまでとは空気が変わり、剣を握ったまま真っ直ぐこちらを見る。
「誰だ!」
『……気づかれたぞ』
(そのようだな)
『出るしかねえ。余計な動きはすんなよ』
エインは剣の柄から手を離し、ゆっくりと倒木の陰から姿を現した。
「待ってください。敵意はありません」
男は剣を構えたまま動かなかった。その隣で、ミラが意外そうに目を瞬かせる。
「……子供?」
「お前、一人か?」
「はい。道中、魔物に襲われました。ソレイア教会へ向かう途中です」
「……武器を鞘ごと地面へ置け。両手は見えるところに出したままだ」
『言うとおりにしろ』
エインはゆっくり剣を腰から外して地面へ置き、両手を上げた。
二人はすぐには近づいてこない。ミラが指先の光を周囲へ向け、エインの背後や森の奥を確かめていく。
男もしばらく木々の間へ目を凝らしていたが、やがてエインへ視線を戻した。
エインは、目の前の男を見た。四十ほどだろうか。剃り上げた頭に太い眉、髭のない角張った顎。外套越しにも肩幅は広く、襟元から覗く首も太かった。
男はまだ警戒を解かず、やや落ち窪んだ目でこちらを見定めていた。その視線が、血に染まった脇腹へ移る。
「……随分やられてるな」
ミラも傷に気づき、指先の光を脇腹から右脚へ下げていった。
「その傷で、ここまで歩いてきたの?」
「はい。教会へ着けば、治療してもらえるかと思って」
男はようやく剣を鞘へ戻した。
「名前は?」
「アウル・ストラウドです」
「俺はハロルド・ヴェイン。ソレイア教会の聖灯士だ。階級は二等灯士」
「同じく。ミラ・エルデンよ」
ハロルドは地面の剣を顎で示す。
「武器は拾っていい。ただし、妙な動きをすれば斬る」
「分かりました」
エインが腰を屈めて剣を拾うと、脇腹の傷が鈍く引き攣った。動きが一瞬止まったのを見て、ミラがすぐに近づき、傍へ屈み込む。襟足で短く切った栗色の髪が揺れ、頬には薄いそばかすが見えた。
「動かないで。先に傷を見せて」
「……はい」
外套を開くと、ミラは脇腹へ巻かれた布を慎重に外した。塞ぎきらなかった傷には、新しい血が薄く滲んでいる。
「ひどい……。これ、自分で治したの?」
「はい。塞ごうとしたのですが、うまくいきませんでした」
「傷口を無理に塞いだだけね。まともな治療にはなってない。じっとしていて」
ミラは傷へ両手をかざした。
「治療」
指の間から漏れた淡い光が脇腹を覆う。熱を持っていた痛みが少しずつ引き、裂けた皮膚が寄るにつれて、滲んでいた血も止まっていった。
「ここではこれで十分ね。残りは教会へ戻ってから、きちんと治しましょう」
「ありがとうございます」
「右脚も見せて」
腫れた箇所にも同じように治療が施されると、張りついていたような重さがいくらか薄れた。
その間もハロルドは森の奥へ注意を向けていたが、やがて木々の間を指した。
「詳しい話は戻りながら聞く。ここで長居する必要はない」
エインは右脚へゆっくりと体重を乗せた。痛みはまだ残っているものの、歩くことに支障はなさそうだった。
「問題ありません」
「無理なら言え。途中で倒れられる方が面倒だ」
◇
木々の間に、人の踏み跡が続く細い道があった。
ハロルドを先頭に、三人はその道を歩き始めた。エインがその後ろに続き、ミラは少し距離を空けて後方の森へ注意を向けている。
しばらく進んだところで、ハロルドが前を向いたまま尋ねた。
「さっき、魔物に襲われたと言ったな。何と戦った?」
「一体はダスクウルフです。もう一体は見たことのない魔物で、両腕と両脚で歩いていました。馬よりも大きく、灰黒色の毛に覆われていて、腕だけが異様に長い。顔には毛がありませんでした」
「そいつから逃げてきたのか?」
「いえ。二体とも倒しました。ただ、その大きな方は、人の声を真似しました」
ハロルドが振り返った。後ろを歩くミラも、エインへ目を向けている。
「人の声……ミラ、聞いたことがあるか?」
「ないわね。少なくとも、この辺りでは聞いたことがないわ」
「死体は、斜面の上にある遺跡の中です。戻るつもりなら案内できます」
『余計なことまで話して大丈夫か?』
(隠す理由はない)
『まあ、ここで置いていかれるよりはましか』
「いや、今は戻らん」
ハロルドは前方へ注意を戻した。
「俺たちはこの辺りの巡回中だ。二人で未知の魔物がいた遺跡へ入る任務じゃない。戻ったら報告を上げる。明日の朝には調査班を出してもらう」
「分かりました」
しばらく歩いてから、ハロルドは話を変えた。
「お前はどこから来た。近くの村か?」
「この森の奥です。物心がついた頃から、養父と暮らしていました」
ハロルドはこちらを見たが、すぐには何も言わなかった。
「養父が亡くなったので、火葬を済ませてから教会へ向かいました。手紙を届けるようにと、言われていたんです」
「……そうか」
それきり、しばらく三人の足音だけが続いた。
「その手紙は、誰に渡すものなんだ?」
「エドガー・ロウェルという人です」
「エドガー司祭か。なら、俺たちの戻るところで合ってる」
「知っているのですか?」
「ああ。すぐに会えるかは分からんが、着いたら取り次ぎを頼め」
「ありがとうございます」
その後は、遺跡までの道順や周囲の地形を確かめられた。
エインは岩の裂け目から下ってきた経路を思い返し、分かる範囲で説明する。
木々の間から差す光が、次第に高くなっていった。途中で何度か足を休めながら、三人は森の中の道を進んだ。
木々の影が長く伸びる頃、道を横切るように、見慣れない杭が並んでいるのが見えた。
さらに進むと、木々の向こうにいくつもの火が浮かび上がった。
◇
森を抜けた先には、灰色の石壁が立っていた。
壁の向こうには夕空を背に尖塔と鐘楼がそびえ、その周囲を幾つもの低い石造りの建物が囲んでいる。門の両脇では火が焚かれ、薄暗くなり始めた道を照らしていた。
「あれが教会か」
『教会だけじゃねえ。聖職者や聖灯士が寝泊まりする、外域近くの拠点だ。あまり覚えてねぇが、ガキの頃、ジジイに連れられて来たことがある』
三人が近づくと、閉ざされた門の上から声が飛んだ。
「誰だ!」
「ハロルド・ヴェイン、東側の巡回の帰りだ! 負傷者を一人保護した!」
門の小窓が開き、中から灯りが差す。
「確認した。開門する!」
内側で重い閂が外され、石の門が低い音を立てて開いた。そこから二人の聖職者が担架を持って駆けてくる。
「魔物による負傷だ。脇腹と右脚を診てくれ」
「分かりました。こちらへ」
差し出された担架を見下ろし、エインは首を横に振った。
「自分で歩けます」
「治療室まで運びます。悪化させないためにも乗ってください」
それならば断る理由はない。エインは大人しく担架へ身体を預けた。
頭上で鐘楼の鐘が、深い音を響かせる。
担架が門を越えると、背後で重い石の扉が閉じ始めた。
森の闇を外へ残したまま、エインとアウルはソレイア教会の内側へ運ばれていった。
第九話で、ようやく本作の主要な組織となる「聖灯士」が登場しました。
魔物の討伐をはじめ、巡回や護衛、調査など、人々の暮らしを守るために活動するソレイア教会所属の戦闘員です。
ここまでは森の中を中心に進んできましたが、カンデルの登場とともに、ここから少しずつ世界も広がっていきます。
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