第十話 遺された道
治療室には、薬草と蝋の匂いが満ちていた。
灰色の石壁に囲まれた室内には寝台が四つ並び、その間を厚手の布が仕切っている。壁際の燭台に揺れる火が、盆に置かれた治療具へ細い光を返していた。
エインは寝台で上半身を起こし、脇腹へ巻かれる新しい布を眺めていた。修道女の手が離れ、軽く身じろぎしても、傷が痛むことはなかった。
治療を終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「これで大丈夫です。脚の痛みはどうですか?」
寝具の下で右膝を曲げると、わずかに張る感覚はあったものの、動きを妨げるほどではない。
「ほとんどありません」
「では、今夜はそのまま休んでください。明日の朝、もう一度確認します。痛みが戻ったら、我慢せず呼んでくださいね」
修道女は使い終えた治療具を盆へ戻し、血に染まった布をまとめた。
「ありがとうございます。それと一つ、お願いがあります」
「何でしょう?」
「エドガー司祭へ取り次いでいただけますか。養父から預かった手紙があります」
盆を持ち上げかけた手が止まる。
「お名前を伺っても?」
「アウル・ストラウドです」
「もう遅い時間ですから、お会いになれるかは分かりませんが、お伝えしてきます」
「お願いします」
扉が閉じると、修道女の足音が廊下を遠ざかっていった。
寝台の脇には、森から持ってきた布袋と、畳まれた外套が置かれている。エインは外套の内側から手紙を取り出し、革紐が解けていないことを確かめた。
『それを渡せば、ジジイの頼みは終わりだ』
(そうだな)
表には宛名も差出人の名もない。紙の角は少し潰れていたが、血で汚れたり、破れたりしたところはなかった。
手紙を膝へ置いて待っている間にも、廊下では何人かが行き来していた。遠くで扉が開き、低い声で交わされる会話が途切れる。
やがて足音が近づき、扉が二度叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、細身の中年男だった。灰色の混じった髪を後ろへ撫でつけ、細い銀縁の眼鏡を掛けている。黒い法衣の胸には、太陽を象った金色の刺繍が施されていた。
「エドガー・ロウェルです。私に手紙をお持ちだと聞きましたが」
「はい。養父から、あなたへ渡すよう言われました」
差し出された手紙を受け取り、エドガーは表と裏へ目を通した。
「お父様のお名前は?」
「ガレス・ストラウドです」
革紐へ掛けていた指が止まった。
「……ガレス殿の?」
眼鏡越しの視線が、手紙からエインの顔へ移る。しばらく面影を探すように見つめてから、エドガーは紐を解き、折り畳まれた紙を開いた。
エドガーへ。
昔、一度お前のところへ連れていったクソガキだ。名はアウル。
俺が拾い、俺が鍛えた。
俺が死んだあとは、お前に任せる。
甘やかす必要はない。あとは頼む。
ガレス・ストラウド。
最後まで読み終えても、エドガーはすぐには顔を上げなかった。最初の行へもう一度目を戻し、それから寝台の傍へ歩み寄る。
「アウルくん。あのときの子でしたか」
「以前、お会いしたことが?」
「ええ。もっとも、覚えていなくても無理はありません。まだ、私の腰ほどの背丈でしたから」
エドガーは自分の腰へ手を添え、少し笑った。
「ずいぶんと落ち着きましたね。あの頃は、私を見るなり細っこいだの弱そうだの、なかなか手厳しかったものですが」
『俺、そんなこと言ったか?』
(私に聞くな)
『俺の記憶を勝手に見てるだろ』
(全て見えるわけではない)
「……失礼なことを言いました」
「子供の言うことですから。それに、ガレス殿の隣にいたら、たいていの人は弱そうに見えたでしょうね」
口元に残っていた笑みが薄れ、エドガーは手紙へ目を落とした。
「ガレス殿は、いつ亡くなられたのですか?」
「昨日の明け方です。老衰でした。火葬を済ませてから、ここへ向かいました」
「そうでしたか……」
エドガーは眼鏡を外し、目頭へ指を当てた。廊下を通る足音が聞こえなくなるまで、何も言わなかった。
「とうとう、逝ってしまわれたのですね」
手元の眼鏡を見つめ、静かに息を吐く。
「この世界で寿命を迎えられたのなら、幸せな最期だったのかもしれません。あなたに見送ってもらえたのですし」
エインの内側でも、アウルは黙っていた。
やがて眼鏡を掛け直すと、エドガーは手紙の折り目を丁寧に揃えた。
「それにしても、最後まであの方らしい。説明はこれだけで、あとは頼む、ですか」
『長々と書くようなジジイじゃねえからな』
エドガーは苦笑し、手紙を法衣の内側へ収めた。
「断られるとは、少しも思っていなかったのでしょうね」
寝台の脇から椅子を引き寄せ、腰を下ろす。座った目線は、上半身を起こしたエインより少し低かった。
「ハロルドから、おおよその事情は聞いています。森の中で暮らし、ガレス殿から戦い方を教わっていたそうですね」
「はい。戦い方と、森で生きる方法を」
「それで、一人でここまで」
視線が脇腹の布へ下がったが、傷について問い直すことはなかった。
「しばらくの寝場所と食事は、こちらで手配します。まずは傷が治るまで、ゆっくり休んでください」
エインは傍らの布袋へ目を向けた。小袋には数枚の硬貨が残っているが、宿や食事にいくら必要なのかも知らない。
「助かります」
「ガレス殿から頼まれましたからね。着いたばかりのあなたを、放り出すわけにはいきません」
エドガーは膝の上で手を組んだ。
「それで、身体がよくなったら、あなたはどうしたいですか?」
答えを急かす様子はなかった。エインは少し考えるように視線を落とし、意識を内側へ向けた。
(どうする?)
『何か仕事は探すつもりだった。いつまでも世話になる気はねえし、持ってきた金だって使えばなくなる』
(…… 聖灯士というのは、遺跡の調査もするのだろう? 私たちの目的にも都合がいいのではないか?)
『かもしれねえがな。俺も正直、詳しくは知らねえんだ。こいつに一度聞いてみたらどうだ?』
エインは顔を上げた。
「聖灯士には、すぐになれるものなんですか? どのような仕事をするのかも、詳しくは知らなくて」
「外の巡回や魔物の討伐、人や物資の護衛など、仕事はいろいろありますが……何か、気になるものが?」
「遺跡の調査もすると聞きました」
「ええ。調査に向かう者を護衛することもあります。ただ、最初から任務に出てもらうわけではありませんよ。まずは候補生として、魔力の扱い方や戦い方、外で生きて帰るための知識を学んでもらいます」
そこで一度言葉を切り、エドガーはエインへ柔らかな笑みを向けた。
「それにしても、聖灯士ですか。血の繋がりはなくとも、こういうところは似るものなのですね」
エインが首を傾げると、エドガーは微笑んだまま、軽く首を振った。
「いえ、こちらの話です」
エインはそれ以上尋ねず、今聞いた話をアウルへ持ちかけた。
(訓練を受けられるなら、この身体の扱いに慣れるのにも良さそうだ。君はどう思う?)
『ジジイに教わったことも使えるだろうしな。悪くねえんじゃねえか』
「では、その候補生になるには、どうすればいいのでしょうか」
「まず、魔力を扱えるか見せてもらいます。アウルくんは使えますか?」
「はい。ガレスに教わりました」
「では、身体がよくなったら、一度見てもらいましょう。ハロルドに話をしておきます。巡回などの仕事もありますから、日が決まったら知らせますね」
「お願いします」
エドガーが頷くのを見届け、エインは膝の上に置いていた手の力を抜いた。
今夜の寝場所があり、傷が治った後にすることも決まった。傍らの布袋へ目をやってから、ゆっくりと寝台へ身体を預ける。
ガレスの手紙は、無事に届けた。もう少しここで休んでから、その先へ進めばいい。
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