第八話 取引
斜面を下り始めて、しばらくが経った。
月明かりの途切れる木々の下には、濡れた落ち葉が積もっていた。エインはその下に隠れた石や根を避け、足場を確かめながら進んだ。
振り返ると、枝の向こうに遺跡を出た岩肌が見えた。裂け目は影に紛れ、もう見分けがつかない。
「あそこは、何だったんだ……」
『分からねぇって言ってんだろ。何度も言わせんな』
エインは岩肌を見上げたまま、歩調を緩めた。
『……だが、何かあるのは確かだ。気づいたらお前が俺の身体を動かしてた。何もないわけがねえ』
「そうだな。調べたいところだが――」
『ダメだ。傷も塞がってねえし、お前がどこまで戦えるかも分からねえ。戻ったところで、また魔物が出たらどうすんだ』
「……分かった」
視線を戻し、地面を横切る根を跨いだ。外套がずれ、脇腹に巻いた布が引っ張られる。
結び目を押さえて立ち止まると、頭の奥から声がした。
『どうした』
「戻るべきではないのは分かった。ただ、一度傷を見ておきたい。休める場所はないか?」
『……少し下に、岩が張り出したところがある。そこまで行け』
◇
張り出した岩の下は、雨風を避けられる程度の浅い窪みだった。
エインは布袋を下ろし、背中を岩壁へ預けて座った。外套を脱ぎ、脇腹の布をほどく。乾いた血で張りついた端を少しずつ剥がすと、その下に塞がりきっていない傷が見えた。
「これを治す方法はないのか?」
『治療魔法ってのがある。俺は得意じゃねえが、少しはましになる』
「やり方を教えてくれ」
『手に魔力を集めろ。傷へ流して、塞ぐところを思い浮かべるんだ』
傷の脇へ手を添え、魔力を導いた。全身を巡らせるときとは違い、掌へ集めた魔力を傷へ移そうとすると、流れが乱れた。
『集めすぎだ。そんなに力むな』
息を吐き、送り込む量を減らす。指先に集まった力を傷へ向けると、掌がわずかに温かくなった。
『そこで「治療」と唱えろ』
「治療」
淡い光が指の隙間から漏れた。
『……やっぱり塞がらねえか』
「だが、多少はマシになった」
手を離し、身体を少しひねって確かめた。まだ傷は気になったが、先ほどより動きを妨げない。比較的汚れていない布を裂き、脇腹へ巻き直した。
『長居はすんなよ。血の臭いは残ってる』
「ああ。少し休んだら出よう」
布袋から水筒を取り、口をつけた。干し肉と、縄や杭、数枚の硬貨を入れた小袋が残っているのを確かめ、袋を閉じる。
外套を持ち上げたとき、内側に収められていた手紙が覗いた。
『それは開けるな』
革紐へかけかけた指を止める。
「君宛てか?」
『違う。ジジイに頼まれた』
「あの老人に?」
『教会にいるエドガー・ロウェルって奴へ渡せってな』
「中身は知っているのか?」
『ジジイが、俺をエドガーに任せるって手紙らしい』
「随分と簡潔だな」
エインは手紙を外套の内側へ戻した。
「その手紙を届けるために、教会へ向かっていたのか?」
『ああ』
「君は、その相手の世話になるつもりなのか?」
『そこまでは決めてねえ。手紙を渡すって頼みは聞く。それだけだ』
「エドガーという人物は信用できるのか?」
『知らねえ』
「知らない?」
『俺は覚えてねえ。ジジイは俺より信用できるって言ってた』
「判断材料としては少ないな」
『会ってから決めりゃいい。どっちにしろ気に入らなきゃ、その場で出ていくつもりだった』
迷いのない声だった。
外套を着直し、岩壁へ頭を預ける。水を飲んで落ち着いた喉を、冷たい夜気が通った。
行き先があるのは、この身体の持ち主だ。自分には、どこへ行けばいいのかを判断する知識さえなかった。
「一つ、確認したい」
『なんだ』
「あの、古い遺跡というやつは、ほかにもあるのか?」
『ああ。ジジイから話を聞いたことがある。外域じゃ、ほかにも幾つか見つかってるらしい』
「調べられているのか?」
『教会の連中が調査に出ることもあるって話だ』
「教会……ならば、そこへ行けば遺跡について何か分かる可能性がある」
『まあ、森をうろついて探すよりはましだろうな』
エインは斜面の上へ目を向けた。ここからでは、木々と岩に遮られて遺跡のあった場所さえ見えない。
「私の記憶と、私が君の中にいる理由。どちらについても、今のところ手掛かりはあの遺跡しかない」
『……そうだな』
「ならば、取引を提案する」
『取引?』
「君は私に、この世界のことを教える。魔法や、この身体の扱いもだ」
『それで?』
「私は君の身体を動かし、生存させる。教会へ向かい、遺跡について調べる」
『随分と偉そうだな。俺が教えるまで、魔力の使い方も知らなかったくせに』
「だから取引を提案している」
『……俺の身体を元に戻す方法も探せ』
「方法が見つかれば、君へ返す」
『見つかればじゃねえ。見つけて返すって言え』
「結果を保証することはできない」
『なら俺も、お前に協力する保証はできねえな』
エインは黙った。
風が木々の間を抜け、濡れた葉を揺らす。遠くで低い鳴き声が響き、それに応えるように別の方角からも声が返った。
「……方法を見つけ、君へ返す」
『最初からそう言え』
「代わりに、君も必要な情報を隠すな」
『はんっ、いいぜ。それなら取引成立だ』
エインは膝へ置いた手を見た。指を曲げれば、思ったとおりに動く。この手を動かそうとしても動かせない相手が、今も同じものを見ている。
「君の名前を、まだ聞いていなかったな。改めて私はエインだ」
『……アウルだ。アウル・ストラウド』
「分かった、アウル。これから頼む」
『まずはその身体を、まともに教会まで運べよ』
エインは頷き、水筒を布袋へ戻した。
◇
短い休息を終えて歩き出す頃には、木々の向こうの空が白み始めていた。
脇腹にはまだ違和感があったが、足取りは先ほどより軽かった。木の根を跨いだところで、アウルが進む先を示した。
『右だ。その岩の間を抜けろ』
「教会まで、どれくらい掛かる?」
『普通に歩いて半日くらいだ。今の調子なら、多少は余計にかかるだろうな』
「今日中には着けそうか」
『途中で何もなけりゃな』
岩の間を抜けると、斜面は次第に緩やかになった。
木々を避けて進んでいると、遠くで硬いもの同士がぶつかる音がした。
「……今のは?」
『待て』
アウルの声が低くなる。
耳を澄ませると、再び金属のぶつかる音がした。今度は何度も続き、枝の折れる音が重なる。その直後、太い咆哮が森を震わせた。
『……誰か戦ってる』
「人間か?」
『まだ分からねえ』
音は木々の奥で鳴っていた。金属を打ち合わせる間隔が詰まり、何か重いものが地面へ倒れる。
「人がいるなら、教会まで同行を頼めるかもしれない」
『いきなり出てくなよ。まず何と戦ってるか見ろ』
エインは剣の柄へ手を添え、音のする方へ足を向けた。
木々を間に挟み、足元の枯れ枝を避けながら音へ近づく。太い幹の陰まで来ると、その向こうに開けた場所が見えた。
薄明かりの中で大きな影が動き、刃が閃いた。
『そこで止まれ』
身を低くし、倒木の陰から覗いた。
剣を握った男が、一頭の魔物と向かい合っていた。飛びかかる魔物の爪を弾き、その胴へ斬りつける。少し後ろでは、もう一人、武器を手にした女が位置を変えていた。
エインは息を潜めた。
この身体で目覚めてから初めて見る、アウル以外の人間だった。
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