第七話 生存条件
ダスクウルフが地面を蹴った。
開いた口が喉元へ迫る。身を引こうとした瞬間、身体はすでに横へ動いていた。牙が外套の襟を掠める。踏み直して向き直ると、剣先も獣を追っていた。
数歩先で、ダスクウルフが振り返った。エインは剣を握り直す。避けようとしたのは自分だ。だが、足の運びまで考えたわけではない。それでも、身体は迷わず動いていた。
「……次は、どうすればいい?」
『そいつを見てろ。まず魔力を回せ』
「魔力?」
『胸の奥に感じるものがあるだろ。そいつを全身へ流すんだ』
「グルルル……」
獣は切っ先を避けるように、横へ歩き始めた。その動きを追いながら、胸の内へ意識を向ける。心臓の鼓動と、まだ整わない呼吸。その奥に、熱とも痛みとも違う何かがあった。
掴みかけたところで、獣が跳ねた。
黒い影が飛び込んでくる。咄嗟に剣を薙いだが、獣は刃の手前で身を翻した。
『大振りすんな! 外したあとに食いつかれるぞ!』
剣を構え直し、胸の奥にある力へ意識を戻す。腕へ流そうとすると、それは僅かに動いた。指を伸ばすときのように、その先へ動かすつもりで意識を向ける。細い流れが指先へ届き、胴から脚へも広がっていった。
無色透明の魔力が身体を覆うと、剣を支える腕が軽くなった。足を踏み直しても、先ほどより楽に身体が動く。
「……これか」
『ああ。そのまま維持してろ』
ダスクウルフは頭を低くし、剣先の動きを窺っていた。
「どう斬ればいい?」
『飛び込んできたところで首を狙え。正面で受け止めようとすんなよ』
先ほどは、近づいてくる獣を遠ざけようとして振った。それでは、相手も刃を見て退ける。エインは剣を構え、今度は飛び込んでくるのを待った。
鼻先が沈み、黒い身体が地面を離れる。迫る牙を見据えて斜めに踏み出し、すぐ脇へ伸びてきた首へ刃を合わせた。
「ギャンッ!」
黒い毛を裂く手応えとともに血が散った。ダスクウルフは着地を崩し、肩から地面を転がる。だが、すぐに四肢を突っ張り、こちらへ牙を剥いた。
『浅い。まだ気を抜くな』
「ああ」
切っ先を向けると、獣もすぐには襲ってこなかった。首から血を垂らし、低い姿勢で横へ回っていく。剣先を向ければ離れ、こちらが足を止めると、さらに横へ動いた。
『背中に回らせるなよ』
「分かっている」
獣に合わせて向きを変えながら下がると、踵が硬いものに触れた。背後には、遺跡を出てきた岩壁がある。
『そこで止まれ。後ろに回られずに済む』
エインは足を止め、両手で柄を握り直した。ダスクウルフも横へ動くのをやめる。首から落ちた血が、足元の落ち葉を濡らしていた。
低い唸り声を聞きながら、剣を構えて待った。獣の目が切っ先を追う。やがて鼻先が沈み、後脚が地面を蹴った。
『来るぞ!』
「ガァッ!」
牙を剥いた獣が、全身をぶつける勢いで迫る。
避けて、首を斬る。
そう決めると、足が動いた。突進を斜めにかわし、すれ違いざまに剣を振り抜く。
今度は刃が深く食い込んだ。腕にかかる重みを振り切ると、獣の首筋から血が噴き出した。ダスクウルフは岩壁の手前へ落ち、地面を転がる。立ち上がろうと前脚を突いたが、身体を支えきれずに横倒しになった。
エインは切っ先を向けたまま待った。荒く開閉していた口が止まり、四肢の動きも消える。淡い目は開いていたが、もうこちらを追っていなかった。
「……死んだのか」
『ああ。だが油断すんな。まずは周りを確認しろ』
木々の間へ目を走らせる。枝葉が風に揺れているほかに、動くものは見つからなかった。唸り声も、近づいてくる足音もない。エインは剣を下げ、ようやく息を吐いた。
「すごいな……」
『何がだ』
「避けて斬ろうとした。それだけで、足も腕も動いた。どう動かすかまでは考えていなかったのに」
『俺の身体だからな。身体に染みついたもんは、そう簡単に抜けねえよ』
剣へ目を落とすと、刃を伝った血が切っ先から滴った。
「君は、これまで何度もこうして戦ってきたんだな」
『勝手に使ってんだから、せいぜい役立てろ。俺の身体に余計な傷つけんじゃねえぞ』
「……分かった」
落ち葉で刃の血を拭い、鞘へ戻した。張り詰めていたものが緩むと、脇腹の痛みが強まった。巻かれた布を確かめたが、新しく血が流れた様子はない。
「魔力は、このままでいいのか?」
『いい。外じゃいつ襲われるか分からねえ。魔力は常に流しておけ』
胸から全身へ続く流れを確かめる。一度巡らせてしまえば、最初ほど意識を向けなくても維持していられた。
『長居すんな。血の臭いで、また寄ってくる』
エインは頷き、下ろしていた布袋を拾った。眼下では、斜面が木々の間を抜けて森へ続いている。
「どっちへ行けばいい?」
『そこを下りろ。岩の脇を通れば、足場は悪くなさそうだ』
袋を肩へかけ、斜面へ足を踏み出した。月明かりの届く岩を伝って下りていくと、背後に残した獣の姿は、すぐに木々へ隠れた。
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