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第六話 身体の主

『てめぇ……俺に何しやがった!!』


 怒声が頭の奥を叩いた。


 思わず振り返ったが、石柱の間にも、黒い台の向こうにも人影はなかった。傍らで燃える松明が、床を走る細い溝を照らしている。


「誰だ? どこにいる」


『今てめぇが勝手に動かしてる身体の持ち主だ!』


 少年は自らの両手へ目を落とした。


「……どういうことだ?」


『そのままだ! てめぇが今動かしてる身体が俺なんだよ!』


 声の出所を探ろうと耳へ手を当てても、響きは変わらなかった。耳元でも、背後でもない。自分が考えるのと同じ場所に、知らない声が割り込んでくる。


 頬に触れ、そのまま顎へ指を滑らせた。指先にも、触れられた頬にも感触がある。動かそうと思えば、手は動く。それなのに、自分の身体ではないと言われている。


「意味が分からない。私は……」


 言いかけて、止まった。自分のものだと言い返そうとして、ここで目を覚ますより前のことを何も思い出せないと気づいた。


『聞いてんのか!』


「待ってくれ。私にも……」


 何が分からないのか、うまく言葉にならなかった。ここへ来る前のことを辿ろうとしても、何も思い浮かばない。


 どこにいた。誰といた。


 自分は、何者だ。


「……エイン」


『あ?』


「私の名前だ」


 口にしてみると、その響きだけは覚えがあった。誰かに呼ばれていたはずなのに、その声も顔も出てこない。


「それ以外は、思い出せない」


『ふざけんな。知らねえで済むと思ってんのか』


「済ませようとしているわけじゃない。目が覚めたらここにいて、君の声が聞こえた。それしか分からないんだ」


『こっちは急に身体が動かなくなったんだぞ。見えてもいるし、声も聞こえる。それなのに、指一本動きやしねえ』


 エインは口を閉じた。自分の名が思い出せたのなら、ほかにも何か残っているはずだった。目を閉じ、ここで目覚める直前を探る。


 広い部屋が見えた。いくつもの光る面に細かな模様が浮かび、その下では、小さな灯りが色を変えていた。誰かがその前にいて、こちらへ顔を向ける。


 声が聞こえかけたところで光景が途切れ、代わりに薪の爆ぜる音がした。


 寝台に横たわる老人。

 灰色の森。

 白い顔をした生物。

 崩れる床。


 目を開いても、知らない光景が次々に浮かんでは消えた。その中で、老人の名だけが口をついた。


「ガレ、ス?」


『……なんでお前がその名前を知ってる』


 声が低く沈んだ。


「今、老人の姿が見えた。寝台に横たわっていた。君はこれが何か分かるか?」


『身体だけじゃなく、俺の頭の中まで盗む気かよ』


「君の記憶なのか、今のは……」


 思い出しかけたはずの老人の顔が、薄れていく。名は分かるのに、その人と自分が過ごした場面を一つも思い浮かべられない。


『勝手に見てんじゃねぇ』


「そんなつもりではない。自分がここにいる理由を思い出そうとしただけだ」


『……お前、本当に何も覚えてねえのか?』


「ああ」


『クソッ! ……何がどうなってやがる!』


 頭の奥で舌打ちがした。エインは目を伏せ、膝に置いた手を握った。姿勢を変えようとすると、脇腹が引き攣れ、顔をしかめた。


 巻かれた布へ手を当てる。外套もその下の服も大きく裂けていたが、布についた血は乾き始めていた。


『おい、傷口を押すな。開くだろうが』


「……君は、痛くないのか?」


『ねえよ。自分の傷なのに、何も感じねえ』


 指を離すと、痛みは次第に薄れた。布の結び目を確かめていると、頭の奥から急かす声がした。


『いつまで座ってる。とりあえず剣持って立ちやがれ』


 エインは傍らの剣へ手を伸ばした。


 握り直そうとする前に、指が自然な位置へ収まった。左手で鞘を押さえて剣を抜き、手首を返す。その動きに迷いがないことが、かえって落ち着かなかった。


「不思議だ……持ち方は分かる」


『俺の身体だからな。妙な使い方すんじゃねえぞ』


 剣を鞘へ戻し、横の石柱へ手をついて立ち上がった。右脚には鈍い痛みが残っていたが、体重をかけても支えられる。足を数歩動かして確かめてから、松明を拾った。


「ここが何の場所か、君は知っているのか?」


『知らねえよ。だが、何が起きるか分からねぇ。余計なもんに触るなよ』


「そんなことは――」


 入口の向こうで、爪が石を引っ掻いた。


 言葉を止めて振り向く。通路の暗がりから、低い唸り声が近づいていた。


 松明を掲げると、光の端に淡い二つの目が浮かんだ。


『まずい、黄昏狼(ダスクウルフ)だ。血を嗅ぎつけてきやがった!』


 剣を抜き、入口へ切っ先を向けた。四足の獣が鼻先を床へ寄せ、落ちていた血を嗅ぐ。その目がこちらへ上がった。


「これで追い払えるか?」


『大した魔物じゃねぇ。だがお前、戦い方も分かってねえだろ! 今は逃げろ!』


 ダスクウルフが頭を低くし、石室へ一歩入ってきた。


 後ずさった拍子に、松明の炎が横へ流れた。石柱の間から冷たい風が吹いている。光を向けると、壁に人一人がどうにか通れるほどの隙間が開いていた。


『そっちだ。そこから出ろ!』


 剣を鞘へ戻し、松明を先に差し入れた。横向きに身体を滑り込ませると、背後で爪が石床を掻いた。


 隙間の先は、上りの通路になっていた。エインは松明を前へ掲げ、右脚を庇いながら駆け上がる。狭い壁の間に、自分の足音と獣の爪音が重なって響いた。


『急げ! 追ってきてるぞ!』


「分かっている……!」


 低く張り出した岩を避け、前方に見えた月明かりへ向かう。裂け目から外へ抜けると、冷たい夜風が顔を打った。


 眼下に黒い森が広がり、その上で月が大きく傾いている。


 木々へ向かおうとしたところで、背後から石を蹴る音がした。


 振り返ると、岩の裂け目から獣が這い出してきた。狼に似ているが、灰を混ぜたような黒い毛の間で、二つの目が淡く光っている。


 鼻先をこちらへ向け、低く唸った。


『ダメだ! やるしかねぇ! おい、お前。俺が指示を出してやる。だから死ぬ気で動けよ』


「……分かった」


 エインは松明を地面へ置き、剣の柄に手をかけた。その刃を抜ききる前に、ダスクウルフが身を沈めた。


『来るぞ!』


 ダスクウルフが地面を蹴った。

お読みいただき、ありがとうございます。

毎日お昼12時に更新予定です。


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