第四話 狩り場
「おら、来いよ」
アウルの全身と剣を覆う魔力が淡い緑色を帯びる。
魔物が四足へ身を沈め、長い指で石を掴んだ。次の瞬間、アウルへ飛びかかった。
アウルは横へ跳び、迫る鉤爪をかわした。石の地面が抉れ、飛び散った破片が頬を打つ。
「シッ!」
着地と同時に踏み込み、伸びた腕を剣で斬り裂くと、厚い毛の下から黒ずんだ血が飛んだ。しかし、魔物は意に介さず斬られた腕を振り、鉤爪を返してきた。身を引いたアウルの胸元を、その先端が掠める。
「浅かったとはいえ……もう少し、斬られた顔しろよな」
回り込んで、石段を背に剣を構えた。あの腕は、こちらの剣より長い。外から斬りつけても止まらないのなら、懐へ入って毛の薄い喉元を狙うしかない。
魔物が上体を起こした隙に、地面を蹴った。振り下ろされる腕を外へ逸らそうと剣を合わせたが、予想以上の力で弾かれ、剣が背後の石段へ飛んでいく。
「っ……!」
魔物が両腕を広げ、一気に迫ってくる。だが、アウルは退かず、その懐へ踏み込んだ。
「バカが! 俺はこっちの方が得意なんだよ!」
緑色の魔力を集めた右拳が、無防備な顎を突き上げた。白い顔が跳ね、裂けた口から唾液が飛ぶ。その腹へ膝を叩き込み、下がってきた顔をもう一度殴りつけると、巨体がよろめいた。
「オォッ……オオォ!」
魔物が足を踏ん張った。血に濡れた顔をこちらへ向け、口を大きく開く。その喉元へ、青い魔力が集まり始めた。
「させるかよ!」
喉へ右拳を突き出した。だが、魔物は避けなかった。長い指が待ち構えたように伸び、届く寸前の手首を掴む。
青い魔力が消えた。
魔物は小さな目でこちらを見下ろし、不気味な笑みを浮かべた。
「しまった!」
――誘われた。
振りほどく間もなく身体が浮き、背中から石段へ叩きつけられた。
「がっ……!」
息が抜け、視界が揺れた。頭上で、もう片方の爪が振り上がる。アウルは身を捩り、魔物の顎下へ靴底を蹴り上げた。
白い顔が仰け反ったが、爪は止まらなかった。左肩から脇腹まで、外套と服を引き裂いていく。
「くそ……っ」
手首を締めつけていた指が緩む。その隙に腕を引き抜き、石段の脇へ転がり落ちた。すぐさま魔物が爪を振るうが、地面を蹴って距離を取る。
「いってぇな!」
片膝をついて傷口を押さえると、掌がすぐに血で濡れた。魔物は顎を揺らしながら近づいてくる。唇が裂け、片方の目も腫れているが、倒れる様子はなかった。
左腕を動かすと、肩から脇腹まで焼けるように痛んだ。もう一度懐へ入っても、今の腕では押し切れない。
「ア……ウル」
魔物の喉から、掠れた声が漏れた。
「……その声で喋るんじゃねえよ」
剣の落ちた先へ目を走らせる。石段の上には暗い入口があり、その奥に傾いた柱が覗いていた。支えている梁にも亀裂が走り、月明かりの下へ砂が零れている。
(あの下へ引き込めれば)
傷口から手を離し、立ち上がった。遺跡の入口まで走り、剣を拾って飛び込む。すぐ後ろで、鉤爪が石を掻いた。
◇
短い通路の先には、広間があった。天井の割れ目から差す月明かりが、床に散らばった石材を照らしている。
右側では、外から見えた柱が太い梁を支えていた。根元はひび割れ、梁との継ぎ目も大きくずれている。剣を鞘へ戻してその前まで下がり、左手の壁際へ目を向けた。崩れた石材が積み重なっている。落ちてくる天井から逃れるなら、あそこだ。
魔物が身を屈めて広間へ入ってきた。足を緩め、白い顔を左右へ動かす。その目が、柱を背にしたアウルへ戻った。
「どうした。ビビってんのか」
石を擦っていた爪の音が止まった。魔物が低く身を沈めている。
来い。
四肢が床を蹴った。柱に背をつけたまま、迫る巨体を見据える。まだだ。まだ引きつけられる。
両腕が広がり、白い顔が目前へ迫った。血と獣の臭いが鼻をつく。
その瞬間、アウルは左へ跳んだ。
外套の裾が引かれたが、構わず身体を捻る。布の裂ける音に続いて、石を砕く轟音が広間を揺らした。
魔物が柱へ激突していた。ひび割れた根元が折れ、頭上の梁が大きくずれる。降り始めた石片を避け、壁際の石材へ向かって跳んだ。
「潰れやがれ!」
陰へ飛び込むと同時に、背後で梁が落ちた。魔物の声が途切れ、続けざまに重い石塊が床を打つ。腕で頭を庇って身を伏せると、細かな破片が背中を叩いた。粉塵に塞がれ、伸ばした手の先も見えなくなる。
崩れる音が遠のき、ようやく息を吐きかけた。そのとき、身体の下で石が軋んだ。
「おい、まさか――」
床が沈む。
手を伸ばした石材もろとも足場が崩れ、身体が宙へ投げ出された。落ちた先へ頭と背中を打ちつけ、全身に衝撃が走る。
息が詰まり、目の前が真っ白になった。
◇
アウルは咳き込み、口へ入り込んだ埃を吐いた。頭上には崩れた床の縁があり、その向こうから差す月明かりが、漂う粉塵を青白く照らしている。
起き上がろうとしたが、大きな石が右脚を押さえていた。
「ぐっ……あいつは、どうなった?」
石へ両手をかけて押した。肩と脇腹に痛みが走る。それでも少しずつずらし、脚を引き抜いた。壁へ背を預けたところで、瓦礫の下から濁った呼吸が聞こえた。
剣を支えに立ち上がり、近づくと、白い顔が石の隙間に挟まっていた。胴も両腕も埋まっているが、小さな目だけは動いている。こちらを捉え、裂けた口が震えた。
「ア……ゥ、ル……」
「……まだ生きてんのかよ」
魔物は石へ爪を立てたが、埋まった腕は持ち上がらなかった。アウルは魔物を見下ろしながら、剣を抜く。
「だがこれで――」
顎の下へ切っ先を突き立てた。刃が深く食い込み、瓦礫の下で巨体が跳ねる。
「おしまいだ」
両手で柄を押し込み、刃を捻った。鉤爪が二度、床を掻いて止まる。呼吸が途絶えてもしばらく待ち、目も指も動かなくなったことを確かめてから、剣を引き抜いた。
「手こずらせやがって」
魔物から離れた壁際へ腰を下ろし、傷口へ手を押し当てる。
「治療」
指の間から淡い光が漏れたが、傷を塞ぐには足りなかった。
「……まともに塞がりゃしねぇか」
どうにか出血を抑え、裂いた外套の布を傷へ巻く。結び目を締めると脇腹が痛んだが、新しく滲む血は少なくなっていた。
剣を手元へ置き、壁に背を預ける。
もう、あの声は聞こえない。
それでも白い顔からは目を離さず、乱れた呼吸が落ち着くのを待った。




