第二十五話 石壁の戦い
クラリッサは壁画の前から動かなかった。横へ避けた蔦を押さえたまま、巨大な胴体と、そこから伸びる脚を目で辿っている。
「これが、さっき話してた巨像ですか?」
「ああ。形がよく似ている」
蔦からそっと手を離し、鞄から新しい紙を取り出した。
「現存している巨像は知られていても、こうして描かれた資料はほとんど残っていないんだ。少なくとも、私が直接見るのは初めてだよ」
声は落ち着いていたが、紙を広げる手は先ほどまでより僅かに早い。クラリッサは壁から少し離れ、残された線を写し始めた。
エインも、その横から壁画を見た。
巨像の脚は一様に地面へ伸びているわけではなかった。幾つかは大きく曲がり、その一本は向かいにいる人影の方へ持ち上がっている。人影の側にも腕を前へ伸ばしたものや、身を低くしたものがあり、ただ並んで立っている姿には見えなかった。
「戦っているんでしょうか」
「そう見えるね。動かない像ではなく、何かと戦うものとして描かれている。これが巨像の記録なら、当時の使われ方を考える手掛かりになる」
クラリッサは胴体の輪郭を書き終えると、向かい側の人影へ目を移した。
「問題は、相手が何者かだが……」
大半は石の表面ごと削れ、手足の形さえ曖昧になっていた。ただ、一体だけは頭部が比較的はっきりと残っている。額の辺りから左右へ伸びる突起を見つけ、レオンが身を屈めた。
「これ、角じゃないですか?」
「私にもそう見える」
「教本に載ってたザルヴァも、こんな角がありましたよね」
エインも頷いた。講義で見た挿絵には、人間によく似た姿と、頭部の二本の角が描かれていた。
クラリッサは紙へ人影の輪郭を写しながら答えた。
「人型で、頭部に角がある。断定はできないが、おそらく悪魔族だろうね」
レオンは壁画から目を離さず、少し声を落とした。
「昔から、この辺りにいたのか……」
「今も東の森で遭遇が報告されているからね。この壁画と、さっきの刻文を合わせて考えれば、旧文明とザルヴァの間に争いがあったと見るのは不自然ではない」
「逃げるように促してるってやつですね」
「ああ」
エインは巨像と人影を見比べた。
瞼なきものは門を越す。
先ほど聞いた言葉に、角を持つ者たちの姿が重なった。だが、壁画の人影には、目元を確かめられるほどの線は残っていない。
「旧文明は、こうして魔人と戦っていた……」
レオンが呟くと、クラリッサは写した巨像へ目を落とした。
「巨像が戦いに使われたのなら、ほかにも似た記録が残っているかもしれないね。帰ったら、これまで見つかった壁画と比べてみよう」
「全部、覚えてるんですか?」
「まさか。そのために記録を残すんだよ」
クラリッサは紙へ目を戻し、人影の傍へ短く何かを書き添えた。
「……大変ですね」
「楽しいよ?」
即答だった。レオンは何か言いかけ、結局、苦笑して口を閉じた。
クラリッサは再び紙へ向き直った。薄れた線の前では筆を止め、見る角度を変えてから続きを写していく。
エインは彼女のそばを離れず、壁の切れ目から森へ目を向けた。枝葉の間に動くものはなく、遠くで鳥の声が聞こえている。
『あれだけで、よく形が分かるもんだな』
(実物を見ているからだろう。私たちだけなら、何の絵かも分からなかった)
『……そうだな。脚が多いってくらいしか分かんねぇ』
もう一度壁画を見ると、先ほどは途切れた溝にしか見えなかった線が、曲げられた脚の続きに思えた。それが正しいのか確かめたくなったが、クラリッサはまだ黙々と筆を動かしていた。
◇
壁画の記録が終わる頃、奥を確かめていたレオンが戻ってきた。
「ここから先は無理そうですね。通路が完全に潰れてます」
彼の視線を追うと、崩れた石材が幾重にも積み重なり、その上へ壁の一部が倒れかかっていた。人が通れる隙間は見当たらない。
クラリッサも近くまで行って確かめたが、瓦礫には手を触れなかった。
「そうだね。これを退けたところで、その先まで安全とは限らない。今日はここまでにしよう」
「奥にも残ってそうですけど、いいんですか?」
「気にはなるよ。だが、無理をして資料まで壊したら本末転倒だろう?」
壁画の前へ戻り、広げていた紙をまとめる。エインはその間に来た道を見回し、戻る足場を確かめた。
「それに、十分すぎるほど収穫はあった。刻文に、巨像の壁画。持ち帰って調べることはいくらでもある」
クラリッサは紙の端を揃え、鞄へ収めた。荷物を肩へ掛けると、名残惜しそうに壁画へ目を向けてから、二人の方へ歩いてくる。
「待たせたね。戻ろうか」
三人は来た道を引き返した。
途中、クラリッサは何度か立ち止まり、入ってきた時には見落としていた文字や装飾を書き留めた。新たに読める文章は見つからなかったが、彼女は欠けた文字にも時間をかけ、残った形を確かめていた。
正面のアーチを抜けると、傾き始めた陽が木々の隙間から差し込んでいた。クラリッサは眼鏡の奥で目を細め、空を見上げる。
「思っていたより時間を使ったな」
レオンが外套の内側から聖灯章を取り出し、蓋を開いた。
「今から戻れば、日没前には着けそうです」
「なら、これ以上引き止めるわけにはいかないね」
レオンが聖灯章をしまい、森へ続く道へ足を向けた。エインも後に続こうとしたが、クラリッサが振り返ったことに気づいて立ち止まる。
彼女は崩れたアーチの向こうを見ていた。奥の壁画はここからは見えず、石柱の間に薄暗い通路が続いているだけだった。
「……何故滅んだのか。そして、何故今は滅んでいないのか」
小さな呟きが聞こえた。
「さっきの話ですか?」
「ああ。持ち帰るものが、もう一つあったと思ってね」
クラリッサは肩の鞄を掛け直し、エインへ向き直った。
「行こう。帰ったら、やることが増えそうだ」
先で待つレオンのもとへ追いつくと、三人は遺跡を後にした。
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