第三章 第二十話 巡回
街道の先から、荷車を引いた男が歩いてきた。
エインたちが道の端へ寄ると、男は二人の外套を見て軽く頭を下げた。積まれた籠の間から野菜の葉が覗き、車輪が轍の底で小さく跳ねる。
「村の方からですか?」
エインが声を掛けると、男は荷車を引く足を緩めた。
「ああ。朝に出てきたところだよ」
「道中、何か変わったことはありませんでした?」
「いや、何も。今日も巡回かい?」
「はい。気をつけて」
男を見送り、エインは再び歩き出した。隣には、同じ頃に三等灯士へ認定されたイネス・コルヴァが並んでいる。十七歳の少女で、肩にかかる灰色の髪を耳へかけながら、街道沿いの木々へ琥珀色の瞳を向けていた。
静かな横顔からは、何を考えているのか読み取りにくかったが、並んで歩く間の沈黙は不思議と気にならなかった。
支部を出てから、一時間近く経っていた。今日の任務は近隣の村までの巡回で、道中の安全を確かめた後、村の教会で最近の状況を聞き、聖杭を点検することになっている。
街道には荷車の轍が重なり、森の際には伐採された切り株も並んでいた。人が日々行き来している道だが、村や支部と違い、ここには魔物を阻む結界がない。
エインは道端の藪へ目を向け、それから前方の曲がり角を確かめた。今のところ、魔物の姿も、争ったような跡も見つかっていない。
『地味だな』
(巡回だからな)
『もっとこう、正規になったら魔物狩ったり、遺跡を調べたりするもんだと思ってたぜ』
(それだけが仕事ではないらしい)
『早く身体を取り戻す手掛かりだけでも見つけたいんだけどよ』
(心配しなくとも、君の身体は必ず返す。そういう約束だ)
『……分かってるよ』
エインは外套の内側へ手を添えた。そこには、数日前に支給された聖灯章が収まっている。
太陽の紋章が刻まれた、懐中時計に似た円形の金属具だった。蓋の内側へ魔力を流せば、アウル・ストラウドの名と、三等灯士の階級が浮かび上がる。支給の際に本人の魔力を登録してあり、他人の魔力では刻印が起動しないと説明された。
通信具であると同時に、聖灯士の身分を証明する品でもある。候補生だった頃には持っていなかったものだ。
外套から手を離すと、少し先を歩いていたイネスが振り返った。
「何かあった?」
「いや、何でもない」
「そう」
それ以上は尋ねず、彼女は街道へ視線を戻した。エインも歩調を合わせ、二人で曲がり角の先へ進んだ。
◇
街道は森の縁に沿って伸びていた。
左手には疎らな木々が続き、反対側には草地と低い丘が見える。ときおり商人や村人とすれ違ったが、誰に尋ねても、返ってくるのは異常なしという答えだった。
『大事なのは分かるけどよ。やっぱ退屈だな』
(何も起きない方がいいだろう)
『そりゃそうだけどな』
イネスが外套から聖灯章を取り出し、蓋を開いた。
「そろそろ信号を送る時間だね」
エインも自分の聖灯章を取り出した。蓋の中には時計と、小さな方位表示が収まっている。時刻を確かめて蓋を閉じ、掌の中で魔力を流した。
任務中の無事を知らせるだけなら、定時信号で足りる。異常や予定の変更があったときには、通信室へ直接声を繋ぐ。
「送れた?」
「ああ」
二人は聖灯章をしまい、再び歩き出した。
『便利だな、それ』
(時計と方位まで付いているからな)
『ジジイの頃にもあったのかね』
(知らないのか?)
『あいつ、自分の仕事の話ほとんどしなかったからな』
エインは外套の内側に収めた金属具へ、もう一度手を触れた。ガレスがこれを使っていた姿を、アウルも見たことがないらしい。
何か聞こうとしたところで、街道の先に木柵が見えた。
◇
村へ着いた頃には、太陽がかなり高くなっていた。
低い石壁と木柵の内側に、二十軒ほどの家が寄り集まっている。その中央には周囲より一回り大きな石造りの建物があり、屋根にはソレイア教会の太陽の紋章が掲げられていた。
門をくぐると、畑仕事をしていた何人かが顔を上げた。二人の外套を確かめると、軽く頭を下げて作業へ戻っていく。
『慣れてんな』
(巡回は珍しくないのだろう)
二人はまず教会へ向かった。担当の聖職者に聖灯章を示し、ここ数日の記録を受け取る。
聖杭の破損も、異常な魔力消費もない。村への魔物の侵入もなく、報告を聞く間に新たな問題が挙がることもなかった。
「何もなかったね」
教会を出たところで、イネスが言った。
「それが一番だろう」
「うん。暇で済むなら、その方がいい」
二人は借りた記録を携え、村の外周へ回った。
木柵に沿って歩いた先に、刻印を施された石柱が立っていた。エインが右手を触れて僅かに魔力を流すと、紋様が反応し、表面へ細い目盛りが浮かび上がる。
「七割くらいだね」
隣で表示を確かめたイネスが、手元の記録へ目を落とした。
「前回は八割。減り方に問題はないね」
「異常なし、でいいか?」
「うん。刻印も傷んでない」
エインは石柱の根元まで目を走らせ、ひびや欠けがないことを確かめてから手を離した。目盛りが薄れていく間に、イネスが新しい数値を書き込む。
村の周囲を回りながら、残る聖杭も順に調べていった。どれも記録と大きく違うところはなく、破損や異常な消耗も見当たらない。
最後の一本を確かめ、イネスが記録をまとめたところで、背後から声がした。
「聖灯士の方々」
振り返ると、五十代ほどの男が立っていた。肩には弓を掛け、腰には短剣を帯びている。革靴についた泥はまだ湿っており、村の外から戻ったばかりらしかった。
「どうしました?」
エインが尋ねると、男は森の方角を指した。
「この二、三日、北東の森で魔物の跡をよく見るんだ。いつも罠を見に行く辺りなんだが、でかい爪跡がいくつかあってな。一匹じゃないと思う」
男は腰の袋から簡単な周辺図を取り出し、広げた紙の一点を示した。
「この辺りだ。道から入って、少し下ったところ」
「魔物の姿も見たんですか?」
「いや、跡だけだ。何の魔物かまでは分からん。人や家畜が襲われたって話も聞かないが……」
そこで言葉を切り、森へ目を向ける。
「俺も長いことこの辺で狩りをしてる。普段より跡が多い気がしてな」
イネスが横から地図を覗き込んだ。
「街道から近いね」
「そうだな」
村からもそれほど離れていない。エインは目印になる道の曲がりと、森へ入る位置を確かめた。
『どうする?』
(確認する)
『ま、点検よりは退屈しなそうだ』
イネスが地図から顔を上げ、こちらを見た。
「見に行こうか」
「ああ。先に通信室へ知らせておこう」
エインは外套から聖灯章を取り出した。掌の中で魔力を流すと、ほどなく応答があった。
「こちらアウル・ストラウド。村の聖杭の点検は終了、異常はありません。ただ、北東の森で魔物の痕跡が増えていると、村の狩人から報告を受けました」
『被害は出ていますか?』
「今のところ、人や家畜への被害はないそうです。イネス・コルヴァと二名で、街道に近い範囲の痕跡を確認します。半刻以内に再度連絡します」
『了解しました。通信位置と予定を記録します。異常があれば、すぐに知らせてください』
「分かりました」
通信を終えると、男が二人の顔を見比べた。
「二人だけで大丈夫か?」
「まずは痕跡を確かめます。危険そうなら戻りますから」
聖灯章をしまいながらエインが答えると、男は少し安堵したように頷いた。
「そうか。気をつけてくれよ」
二人は教会へ点検の記録を返し、狩人から聞いた話を伝えてから、村を出た。
◇
森へ入って十分ほどで、街道は木々の向こうへ見えなくなった。
頭上には枝葉が重なり、足元には湿った落ち葉が積もっている。エインは腰の剣に手を添え、木々の間へ目を配りながら進んだ。
前を歩いていたイネスが足を止め、地面を指した。
「ここ、見て」
落ち葉を裂くように、四本の跡が土を深く抉っていた。エインも隣へ屈み、その間隔を確かめる。
「爪か」
「たぶん。向こうにもある」
指された木の根元にも、よく似た跡が残っていた。その近くでは落ち葉が押し退けられ、剥き出しの土に足跡がついている。
エインは場所を移し、手のひらより少し大きな窪みを覗き込んだ。先端には長い爪の跡があり、その前後にも同じ形のものが続いていた。
『見覚えあるか?』
(いや、ないな)
『俺もねえ』
「一匹じゃないね」
イネスは少し離れた場所に屈み、別の足跡を示していた。
「分かるのか?」
「大きさが違うから。こっちは幅も狭い」
見比べると、その違いはエインにも分かった。一方は僅かに大きく、土へ食い込んだ爪の位置もずれている。
「少なくとも二体か」
「うん。もっといるかもしれない」
イネスが立ち上がり、森の奥へ目を向けた。風に揺れた灰色の髪を押さえ、数歩先を指す。
「あそこの枝が折れてる」
低い枝が途中から折れ、葉をつけたまま垂れ下がっていた。その先にも同じ跡があり、何かが木々を掻き分けて通ったらしい。
二人は周囲へ目を配りながら、折れた枝の先へ進んだ。
間もなく、エインは一本の木の前で足を止めた。幹には縦に四本の傷が刻まれ、削れた樹皮の下に灰褐色の小片が落ちている。
拾い上げ、指先で力を加えてみた。薄いが硬く、ほとんど曲がらない。
「鱗か」
「爬虫類の魔物かな」
イネスが横から覗き込んだ。
「その可能性はあるな」
『気をつけろ』
(分かっている)
エインが立ち上がったとき、少し離れた茂みが揺れた。
二人が同時に顔を向けると、音はすぐに止まった。イネスの右手が剣へ伸び、エインも柄を握る。
何も出てこない。
枝葉の隙間を探っても、見えるのは重なった緑と、その下の暗がりばかりだった。エインは拾った鱗を握り、近くの木の陰や足元にも目を向けた。
隣でイネスが小さく息を吐いた。
「……戻ろうか」
エインはもう一度だけ茂みを確かめた。痕跡は見つかり、一体ではないことも分かっている。持ち帰れる鱗もあり、これ以上奥へ入る必要はなかった。
「ああ。一度報告した方がいい」
「私もそう思う」
二人は茂みから目を離さず、来た方へゆっくりと下がった。エインが鱗を袋へ収め、聖灯章を取り出そうとしたところで、別の音がした。
帰路に近い、低い茂みの奥だった。
硬いものが擦れ合うような音に、聖灯章へ伸ばしかけた手が止まる。イネスもそちらへ向き直り、剣の柄を握り直した。
第三章始まりました。
ようやく女の子のキャラがここにて初登場。
正規の聖灯士になったことで新たな仲間達との出会いも楽しんでいただけたらと思います。
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