第十九話 広がる境界
その日の夜、東部方面第七支部の執務室には、まだ灯りが残っていた。
机に広げられた報告書へ目を通しているのは、支部長のロザリア・ケルンだった。濃い灰褐色の髪を耳へかけた横顔は、鼻筋が通り、顎の線もすっきりしている。背筋を伸ばし、切れ長の目で書面を追っていた。
かつては一等灯士として外域へ出ていたが、ある任務で左前腕を失い、今はこの前線拠点の運営と所属する聖灯士たちの管理を担っている。
机を挟んだ向かいには、左腕に包帯を巻いたハロルドが座っていた。
「今朝来たダリオ・ベルグの母親には、私から話した。今夜はこちらで休んでもらう。明日の朝、村まで送る手配も済ませた」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。責任者である私の仕事だからな」
ロザリアは報告書を置き、その隣の一枚へ目を移した。
「ローディ・フェインの家族は?」
「通信室から、最寄りの教会へ連絡を入れています。家族への知らせはそちらから。ただ、距離がありますので、到着にはまだ時間がかかるかと」
「分かった。着いたら私に知らせろ。そちらも私が対応する」
「はい」
ロザリアは二人の報告書を揃えて脇へ置き、別の紙を手に取った。
「では、あの魔物についてだ。お前が直接戦った感触は?」
「戦闘能力だけなら、第四等級程度だと思います。二体同時でも、正面からなら対応できない相手ではありませんでした」
「擬態はどうだ?」
「厄介ですね」
ハロルドの表情が僅かに険しくなった。
「一体は枯れ木、もう一体は倒木にしか見えませんでした。ああいう魔物がいると知らなければ、見抜くのは難しいかと」
「既存の記録に、該当するものは?」
「今のところ、見つかっていません」
ロザリアは報告書に記された特徴を読み直し、少し考えてから顔を上げた。
「なら、暫定で第三等級として警戒情報を回す」
「第三等級ですか」
「第四等級として扱わせて、舐められても困る。危険性が分かるまでは高く見積もっておけ。下げるのは、その後でもできる」
「分かりました」
「名称は未定。大型。鎌状の前肢と、樹皮に似た外殻。枯れ木や倒木に擬態する。まずは確認できた特徴だけ各所へ回せ」
「通信室に伝えておきます」
「頼む」
ロザリアは報告書を横へ移し、その下に広げていた管轄域の地図を引き寄せた。第七支部を中心に、いくつもの村と、それらを繋ぐ街道が描かれている。その東側には、広く森林が続いていた。
「それにしても、また一つ増えたか」
「未知の魔物ですか」
「ああ。この辺りも調査自体は何度も入っている。それでも、まだ知らん魔物が出る」
「東は広いですからね」
「広いだけなら楽なんだがな」
ロザリアは地図の東側を指でなぞり、森に近い村の位置で止めた。
「この数年、第七支部の管轄人口は増え続けている。村も大きくなった。農地も増えている」
「今の守護圏だけじゃ、いずれ足りなくなりますね」
「ああ。この辺りでまとまった土地を確保するなら、東へ伸ばすのが一番現実的だ」
「森と魔物さえなければ、ですけど」
「それを言い始めたら、外域に使える土地などない」
ハロルドは口元を僅かに緩めた。
「違いありません」
「水はある。土も悪くない。森を開けば農地にできる場所も多い」
ロザリアの指が、村から森の奥へ移った。地図では僅かな距離でも、そこに街道はなく、人が暮らせるかどうかもまだ分からない。
「まず聖灯士を入れて調査する。使える土地が見つかれば、簡易拠点を置いて聖杭で守る。そこで継続して維持できるかを確かめなければならん」
「魔物が多すぎても、補給が続かなくても使えませんからね」
「維持できると判断して、ようやく街道を繋ぐ。その後に人を入れ、家を建て、畑を作り、教会を置く」
「村になった後も終わりじゃありませんね」
「当然だ。聖杭は放っておけば消耗する。魔物もいなくなるわけではない」
ロザリアは地図から顔を上げた。
「結局、どこまで広げても聖灯士が要る」
「……人手不足ですね」
「今に始まった話ではない」
椅子の背へ身体を預け、ロザリアは息を吐いた。
「近年は聖域と聖女がいるおかげで、レグナード周辺の大きな被害はかなり減った」
「平穏になるのは良いことですが」
「ああ。だが、危険が身近でなくなれば、わざわざ外域へ出ようとする若者も減る」
ハロルドは机上の報告書へ目を落とした。
「逆に、聖灯士を格好のいい仕事だと思われすぎても困りますが」
「そうだな。だが、来ないよりはましだ。そういう奴らは訓練で矯正すればいい」
「まあ、そうですね」
「そういう意味では、今回の候補生は悪くなかったようだな」
ロザリアは候補生の報告書を手元へ戻した。ハロルドもその紙へ視線を向ける。
「撤退中に遭遇したダスクウルフは十体。ダリオ・ベルグが三体、アウル・ストラウドが五体を倒し、残り二体が逃走」
「アウルからの報告では、その通りです」
「ダリオ・ベルグも、候補生としてはよくやった。複数体を相手に、それだけ戦えたのだからな」
「……申し訳ありません。私の判断ミスです。あの傷を見つけた時点で、調査を切り上げるべきでした」
ハロルドが頭を下げると、ロザリアは手元の報告書を置いた。
「責めているわけではない。聖灯士になる以上、ある程度の危険は許容せざるを得ない。訓練だけを続けて、何が起きても対処できるようになるまで待つわけにもいかない」
ハロルドが顔を上げる。
「それは、分かっています」
「もちろん今回の判断は検証する。だが、犠牲が出たからといって、お前の判断が間違っていたとは限らん。それを決めるのは私だ。お前一人で勝手に背負うな」
ハロルドはしばらく黙ってから、低く答えた。
「……はい」
ロザリアはもう一枚の記録へ目を移した。
「しかし、アウル・ストラウドは五体を倒して、ほとんど傷を負っていないのか」
「はい」
「……有望だな」
ハロルドはすぐには答えなかった。報告書を見つめたまま黙っているため、ロザリアが顔を上げる。
「どうした?」
「いえ……少しだけ、カレン・ライトナーを思い起こしまして」
ロザリアの眉が僅かに上がった。
「あの、最年少で教皇直属の聖灯卿に任じられた少女か。それほどか?」
「同じだとは言いません。ただ、あいつも候補生の頃から、戦闘力に関しては頭ひとつ抜けてましたから。直感的ですが、状況判断も悪くなかった」
「アウル・ストラウドもそうだと?」
「似たようなものかと」
「なるほど」
ロザリアは報告書へ視線を戻し、訓練の記録を確かめた。
「課程は?」
「今回の随伴任務で、必要なものは一通り終わっています」
「なら認定を進めろ」
ハロルドが僅かに目を上げた。
「もうですか?」
「早いか遅いかなど関係ない。条件は満たしているんだろう?」
「はい」
「なら候補生のまま置いておく理由がない」
ロザリアは机の端から認定用の書類を引き寄せた。
「能力のある者を遊ばせておくほど、我々に余裕はないからな」
「……分かりました」
ハロルドが頷くと、ロザリアは羽根ペンを取った。
傍らには、管轄域の地図が広げられたままだった。いくつもの村と、その周囲を守る聖杭。その外側には、まだ深い森が続いている。
昨日の任務で二人が死んだ。それでも、明日になれば別の誰かが外へ出る。
ロザリアは書類へ視線を戻した。アウル・ストラウドの名と、その横に記された文字を確かめ、ペン先を紙へ落とす。
遠くで鐘が鳴ったが、顔は上げなかった。執務室には、紙の上をペンの走る音が静かに続いていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
これで第二章は終わりとなります。
次回より第三章。
正規の聖灯士に昇格したエインとアウルたち、新たな仲間たちとの物語をお楽しみください。
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