第二話 森の視線
アウルは剣の柄を握ったまま、枝の折れた方角を睨んだ。木々の向こうは薄暗く、幹の間にも茂みの下にも、動くものは見当たらない。
(出てこねえなら、こっちから行く義理もねえ)
剣を鞘へ戻し、布袋を拾った。背を向けるのは気に入らないが、正体も分からない相手を探して茂みへ入る方が危険だ。
――外域じゃ、絶対に気を抜くな。出会うものは全部、敵だと思え。
ガレスに何度も叩き込まれた言葉だ。森へ足を踏み入れても、しばらくは背後へ耳を澄ませていた。
◇
家の周りだけが、木々の途切れた開けた場所だった。そこを離れれば、朝でも薄暗い森が続く。獣道はあっても、人の行き来する道はない。この広大な森の中で、アウルはガレス以外の住人に会ったことがなかった。
昔、どうしてこんな場所に住むのか尋ねたことがある。
「人がいねぇからだ」
「なんで人がいねぇ方がいいんだよ」
「静かでいいだろうが。ほら、手を止めるな」
薪割りの続きを命じられ、それきりだった。何度聞いても、まともな答えが返ってきた覚えはない。
今なら、あの家はうるさくないどころか、静かすぎるくらいだ。
アウルは踏み慣れた道を外れ、岩の多い斜面へ入った。柔らかな土を避け、石の上を選んで進む。鼻の利く獣なら足跡を消しても追ってくるだろうが、わざわざ跡を残してやる必要はない。
斜面を下ると、その先は細い川が横切っていた。岸から張り出した岩へ上がり、対岸を確かめる。流れの向こうにも足を置ける岩がある。
跳び越えて着地すると、茂みから鳥が飛び立った。
振り返り、川の向こうを眺めた。通ってきた斜面にも、水際にも、追ってくるものは見えない。
(……気のせいなら、それでいい)
それでも家の周囲にあった足跡は、見間違いではない。水面へ視線を戻してから、アウルは再び歩き始めた。
ガレスに教わった方角へ進み、森を抜けて街道へ出る。そこまで行けば、教会へ向かう道も分かるはずだった。
(それにしても、教会か……)
外套の内側へ手を当てた。ガレスの手紙はそこにある。
ソレイア教会は、祈りを捧げるためだけの場所ではない。身寄りのない子供を引き取り、魔物と戦う者を育て、人間の暮らしを守っているという。
「ったく。頼むなら、もう少し説明しろよな」
文句を言っても、あの返事は聞こえてこない。アウルは手紙から手を離し、行く手の枝を押し退けた。
◇
昼を過ぎた頃、木々の間に崩れた屋根が見えた。
近づくと、その奥にも石壁や傾いた家が残っていた。倒れた扉は草に埋まり、黒く煤けた壁には蔦が絡んでいる。裏手の畑らしき土地でも、腰まである草が揺れていた。
かつては人が暮らしていたのだろう。アウルは家々の間へ目を配りながら、その脇を通り過ぎた。
人間の町や村は、魔物を遠ざける聖杭に守られている。その外に広がるのが外域だ。守りのない土地では、家を建て、畑を耕しても、魔物に目をつけられれば暮らしごと失う。
ここも、そうして捨てられた場所に見えた。
自分たちの家に聖杭はなかった。無事に暮らせたのは、ガレスがいたからだ。あの家も、いずれこんなふうに草へ埋もれていくのだろうか。
外套の留め具を締め直し、崩れた家から目を離した。
周囲は木々が少なく、森の中より見通しがよかった。前方では鳥が鳴き、草の間を小獣が走っていく。その音を聞いているうちに、アウルは歩みを緩めた。
後ろが静かだった。
通り過ぎてきた木立からは、鳥も獣も声を上げない。川を渡った後にも、同じ静けさがなかったか。
足を止め、背後を振り返った。木々の間には何も見えない。
(……やっぱり、厄介なのがいるな)
姿を見せないまま、ついてきている。ただ腹を空かせた獣なら、とっくに襲ってきてもよさそうなものだった。
剣の柄へ手を添えたまま、集落を離れた。
◇
日が傾いても、追跡者は現れなかった。せめて、背後を気にせずに済む場所が欲しい。
周囲を探しながら進むと、岩壁が浅く窪んでいた。奥は行き止まりだが、左右も岩に囲まれている。ここなら、近づいてくる相手を正面で待てる。
アウルは窪みへ入り、布袋を下ろした。火を起こすか迷ったが、やめておく。追跡者が炎を恐れるのか、逆に寄ってくるのかも分からない。
日が落ちる前に周囲を確かめようとしたとき、入口近くの湿った土に足跡を見つけた。
家の周囲にあったものと同じ、巨大な足跡だった。森から入口の手前まで近づき、引き返している。
アウルは布袋へ手を伸ばし、木々の間へ目を向けた。
後ろを警戒していた。
だが、違う。追跡者は自分を追い越し、先にここへ来ている。
「アウル」
森の奥から、声がした。
ガレスの声だった。寝台の上で聞いた、あの掠れた声と変わらない。
アウルは布袋を引き寄せ、ゆっくりと剣を抜いた。
「……趣味の悪い化け物だな」
ガレスは、自分の手で葬った。
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