第一話 送り火
夜は、まだ明けていなかった。窓の外では月が森を青白く縁取り、風が吹くたび、古びた石造りの家が低く軋んだ。
アウル・ストラウドは寝台の脇へ椅子を寄せ、横たわる老人を眺めていた。乱れた黒髪と鋭い黒い瞳。まだ十五歳だったが、森での暮らしと鍛錬で引き締まった身体つきは、年齢よりも幾分大人びて見えた。
ガレス・ストラウド。血のつながりはないが、物心がつく前からアウルを育ててきた男だった。
かつては外域を歩き、人間が恐れる魔物と何度も戦ったという。本人が語ることはほとんどなく、アウルが知っているのは、古傷だらけの身体と、酔ったときにたまに漏らす昔話くらいだ。
その男も今は、薄い毛布の下で息をするだけで精一杯だった。
「……まだいたのか」
アウルは黒髪をかき上げ、片眉を上げた。
「自分で呼びつけといて何言ってんだ、ジジイ」
「もう用は済んだ。寝ろ」
「一人で死ぬつもりか?」
「人間、死ぬときゃ一人だ」
「じゃあ、俺がここにいても同じだろ」
ガレスは鼻で笑おうとして、ひどく咳き込んだ。アウルは水の入った器を取り、背を支えて口元へ運ぶ。わずかに喉を鳴らしたものの、老人はすぐに顔を背けた。
「まずい」
「水に味なんかあるか」
「お前が汲んだ水は、昔からまずい」
「なら飲むな」
器を戻すと、ガレスは口元を緩めた。その笑いも長くは続かず、アウルは黙って毛布を掛け直した。
助からないことは分かっていた。病でも傷でもない。治療の魔法も薬も、老いた身体を若返らせることはできなかった。
救えないものへ手を伸ばし続けるな。そう教えたのは、ガレス自身だ。
「アウル」
「あ?」
「机の引き出しに、手紙が入ってる」
壁際の机を開けると、革紐で縛られた一通の手紙があった。表には何も記されていない。
「これか?」
「俺が死んだら、それを教会へ持っていけ。そこにエドガー・ロウェルって司祭がいる。そいつに渡せ」
「信用できんのか?」
「お前よりはな」
「なんて書いた」
「お前を拾った。お前を鍛えた。あとは頼む。大体そんなもんだ」
「ほとんど丸投げじゃねえか」
「死ぬ人間の特権だ」
ガレスは目を閉じたまま、呼吸を整えて続けた。
「エドガーなら俺を知ってる。そいつに手紙を見せろ。少なくとも、門前払いにはされん」
「世話になるつもりはねえぞ」
「なら、その場で断れ。どこで野垂れ死のうが、お前の勝手だ」
「言われなくてもそうする」
「ただし――」
老人の目が開いた。濁り始めた瞳が、まっすぐアウルを見る。
「命の使い所を間違えるな」
「何度目だよ、それ」
「お前は強くなった。だが、馬鹿は治らん。だから何度でも言う」
「耄碌して同じことしか言えねえだけだろ」
「口の減らねえクソガキだ」
「あんたが拾ったんだ。諦めろ」
ガレスは小さく笑った。それからしばらく、二人とも何も話さなかった。薪が崩れ、火の粉が舞い上がる。アウルは手紙を手にしたまま、椅子へ戻った。
「……そうだったな」
やがて、ガレスが呟いた。
それが最後だった。
アウルはしばらく老人の顔を見ていた。
「ジジイ?」
返事はない。首筋へ指を当てたが、脈はなく、胸も動いていなかった。
静かに手を離し、瞼を閉じさせた。乱れた白髪を払ってから、消えかけた火に薪を一本くべる。
夜が明けるまで、アウルは寝台の脇を離れなかった。
◇
空が灰色に変わる頃、家の裏手へ薪を運んだ。森から吹き下ろす湿った風が、積み上げた薪の間を抜けていく。
ガレスの身体を布で包み、その上へ横たえた。大柄だったはずの身体は、驚くほど軽かった。
人は死ねば炎へ還り、魂は太陽へ昇る。それがソレイア教会の教えだった。
ガレスが本気で信じていたかは知らない。尋ねたこともあったが、「死んでから確かめる」と笑われただけだった。
「炎よ」
指先へ集めた魔力を炎へ変え、乾いた葉に触れさせた。小さな火が枝へ移り、やがて薪の山を包んでいく。白い布が焦げ、その下の人の形が炎に隠れた。
熱風が頬を撫でる。煙が目に入り、わずかに痛んだ。
「世話になったな、ジジイ」
それ以上は何も言わず、火が小さくなるまで見届けた。
家へ戻り、布袋を広げる。剣と外套、水筒に干し肉。細い縄と、罠に使う数本の杭。銀貨三枚と銅貨を数枚入れた小袋。それに、ガレスの手紙。
必要な物を詰め、残りは置いていく。この家へ戻るつもりはなかった。
一人でも暮らしてはいける。狩りも、水の探し方も、怪我の処置も教わった。それでも、最期の頼みくらいは聞いてやる。その先をどうするかは、手紙を渡してから決めればいい。
荷造りを終え、剣を腰へ吊るした。
家を出たところで、足が止まった。
風に木々が揺れている。
いつもなら聞こえる鳥の声がなかった。枝を走る小獣の気配も、虫の音もない。火葬の残り火が、小さく爆ぜた。
アウルは布袋を地面へ置き、家の周囲へ目を走らせた。朝露に濡れた草も、森の木々も、昨日までと変わらない。
足元に、見覚えのない窪みがあった。
身を屈めて確かめる。獣の足跡に見えるが、大きすぎた。深く沈んだ跡の縁では泥が蹴り返され、草の根が露出している。
跡は森から家の周囲を半周し、裏手の斜面へ続いていた。そこからなら、ガレスを焼いた場所が見下ろせる。
アウルは顔を上げた。
火葬の間、何かがそこにいた。
こちらが気づかないまま、炎の前に立っている姿を見られていた。
「……ちっ」
剣をわずかに鞘から抜いた。金属の擦れる音が、静かな森へ響く。
その奥で、太い枝が一本、ゆっくりと折れた。
はじめまして、葉月あらた(はづき あらた)です。
『灯火の約束』を読んでいただき、ありがとうございます。
本作は、ゴシックホラーを意識した長編ダークファンタジーです。今はまだ見えない、この世界の歴史や遺跡の謎も、物語とともに少しずつ明らかになっていきます。
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