第十七話 その先の言葉
ローディは乱れた地面へ目を落としながら、枯れ木の手前まで進んだ。踏み潰された下草の間には蹄の跡が重なり、土に染みた血が黒ずんでいる。
「……蹄の跡ばかりですね」
少し横へ回り、さらに一歩踏み出した。
枯れ木の枝が動いた。
「――ローディ!」
ハロルドの声とともに、乾いた枝だと思っていたものが横薙ぎに振るわれた。ローディが顔を上げるより早く、その身体が横へ弾かれる。
「っあ――」
地面へ落ちたローディを見て、エインの息が止まった。胸元から肩にかけて深く斬り裂かれ、外套の下から血が広がっていく。
動かない。
何が起きたのか理解が追いつかないうちに、枯れ木が立ち上がった。樹皮に見えた表面の隙間から節のある脚が伸び、細長い胴を持ち上げる。枝に紛れていた二本の前肢は、その先が大きな鎌のように湾曲していた。
『魔物だ!』
アウルの声に、エインは剣へ手を掛けた。ハロルドはすでに前へ出ている。
「灯よ、魔を断つ刃を与え給え」
刻印の浮かんだ刀身で、振り下ろされた鎌を受け流す。金属を叩いたような硬い音が響き、魔物が次の一撃へ身を沈めた。
『そっちも動くぞ!』
視線を転じると、地面に横たわっていた倒木が動いていた。
「もう一体――!」
苔と泥をまとった巨体が持ち上がり、伸びた脚が地面を掴む。エインたちは二体の間近まで、気づかずに入り込んでいた。
「アウル! ダリオ! 撤退だ、急げ!」
「でも、ローディさんが――」
「ローディは俺が見る!」
ハロルドは一体目の鎌を弾き、倒れたローディへ目を向けるダリオに言った。
「だからお前らは撤退だ。いいな?」
二体目がエインたちへ身体を向けたが、その前へハロルドが割り込んだ。伸びてきた鎌を剣で押し返し、二人の逃げる隙を作る。
「行け!」
『行くぞ』
(……ああ)
エインは倒れたローディから目を離し、隣へ声を掛けた。
「ダリオ」
「……分かった!」
二人が走り出すと、背後で激しく刃のぶつかる音が響いた。
エインは振り返らず、来た方角へ走り続けた。
◇
ハロルドは二体から距離を取り、剣を構え直した。一体が正面を塞ぎ、もう一体が右へ回り込んでくる。その向こうでは、ローディが倒れたまま動かない。
「……くそ」
外套の内側へ左手を入れ、聖灯章を握って魔力を流した。
「通信室、緊急」
正面から鎌が迫り、身体を捻って避ける。続けて踏み込もうとするもう一体へ剣を振り、近づかせずに報告を続けた。
「東外域調査班。未知の魔物二体と遭遇。樹木に擬態する大型種。鎌状の前肢を確認」
『こちら通信室。受信しています』
「ローディ・フェインは重傷。候補生二名を撤退させた」
一体が低く身を沈める。ハロルドはその動きを追いながら、剣先を向け直した。
「救援を寄越せ」
『通信位置を確認しました。救援を手配します』
「頼む」
聖灯章から手を離すと、二体が左右から距離を詰めてきた。
ハロルドは一度だけ、ローディへ視線を向けた。さっきまで小言に言い返していた後輩の笑顔が浮かぶ。
「……ったく。お前はいつも、気を抜きすぎなんだ」
返事はない。
剣を握り直し、正面へ向き直った。
「来い」
二本の鎌が動いた。
◇
エインとダリオは森を走っていた。
来た道を戻ろうにも、足元に一本の道が続いているわけではない。折れた枝や岩、傾いた木を頼りに、進むときに見ていた目印を逆に辿っていく。
「こっちだ」
「分かってるよ!」
ダリオの声を背に聞きながら、エインは斜面を登った。息は切れているが、身体はまだ動く。木の根を越え、次に足を置く場所を探す余裕もあった。
『もっと飛ばせるぞ』
(ダリオがついて来られない)
『……置いてくわけにもいかねえか』
(当たり前だ)
背後から追ってくる気配はない。それでも、木々の間や藪へ目を向けずにはいられなかった。あの魔物は、すぐ目の前にいても分からなかったのだ。
「ハロルド教官とローディさん、置いて行って大丈夫かよ!」
ダリオが走りながら言った。
「分からない。どちらにせよ、命令だ」
「そうだけどよ。ローディさんも動けないのに、一人でどうにかなるのか?」
エインは答えられなかった。
ついさっきまで、ローディは候補生の頃の話をしていた。ハロルドに小言を言われても、笑って言い返していた。その声が、地面に倒れた姿とうまく結びつかない。
「今は戻ることだけを考えよう」
「……ああ」
ダリオもそれ以上は言わず、斜面を登り続けた。
木々の向こうへ耳を澄ませても、聞こえるのは二人の足音と荒い呼吸ばかりだった。教会の鐘は、まだ聞こえない。
◇
『止まれ』
アウルの声に、エインは足を止めた。
「ダリオ、止まれ」
「何だ?」
ダリオも立ち止まり、呼吸を抑えた。左手の茂みで葉が擦れ、間を置かずに右からも同じ音がする。背後では、落ち葉を踏む音が近づいていた。
「……何かいる」
ダリオが剣を抜くと、茂みの奥から灰黒い影が姿を現した。その後ろにも、木の陰にもいる。エインは視線を動かし、見えている頭数を確かめた。
『十頭』
(いつの間に……多いな)
『走って逃げるのは無理だ。背中見せりゃ追いつかれる』
エインも剣を抜いた。
「……囲まれたな」
ダスクウルフたちは一斉には来なかった。低く唸りながら左右へ散り、木々の間から少しずつ距離を詰めてくる。
「ダリオ」
「ああ。ここでやるしかねえ」
二人は背中を合わせ、剣へ魔力を通した。
「灯よ、魔を断つ刃を与え給え」
刀身に刻印が浮かび上がる。エインは身体に纏う魔力を緑色へ変え、正面の狼へ剣先を向けた。背後ではダリオが足を開き、腰を落としている。
唸り声が一段低くなった。
三頭が同時に地面を蹴った。
◇
ダリオは正面から迫る牙を横へかわし、すれ違う胴へ剣を振るった。灰黒い毛が裂け、血が飛ぶ。だが、刃は脇腹を浅く斬っただけだった。
狼は着地と同時に身を捻り、こちらへ爪を振るってきた。
ダリオは剣で爪を弾いた。すぐさま開いた牙が迫り、引き戻した刃で防ぐ。だが、狼はそのまま刀身へ噛みついてきて、離そうとしなかった。引き抜こうと腕へ力を込めると、顎を振って逆に引き寄せてくる。
「くそっ! 離せっ!」
踏ん張った靴底が土を擦る。その視界の端で、右の茂みから別の影が飛び出した。
もう一頭。
ダリオは剣を引く手を止め、目の前の狼へ踏み込んだ。身体を回し、赤い魔力を纏った脚をその横腹へ叩き込む。
鈍い手応えとともに牙が刃から外れ、巨体が落ち葉の上を転がった。
蹴り足を下ろし、その勢いのまま右へ向き直る。
すでに、次の牙が迫っていた。
身を屈めて斜め前へ踏み込み、すれ違う狼の腹へ剣を振り抜いた。刃に重みがかかり、背後で巨体が地面へ落ちる。
振り返ると、狼は腹から血を流し、脚を痙攣させていた。起き上がってはこない。
「よし……!」
ようやく一頭。
息を吐いた途端、また別の一頭が飛び出した。
剣を戻すのが間に合わない。咄嗟に身体を投げ出すと、左腕を爪が掠め、服の下まで裂いた。
「ぐっ……!」
肩から地面へ転がり、すぐさま身を起こして立ち上がると、正面では狼がこちらへ向き直っていた。
その奥で、先ほど蹴り飛ばした一頭も起き上がる。脇腹から血を流し、脚をふらつかせながら低く唸っていた。
「はぁ……はぁ……っ」
額から汗が流れ、顎を伝って落ちる。剣を握り直すと左腕の傷が痛んだが、二頭は待ってくれなかった。手前の狼がじりじりと近づき、低く身を沈める。
「何頭でも来やがれ!」
声を張り、剣を構え直した。
手前の狼が地面を蹴り、跳んだ。
ダリオは身を低くし、両脚へ魔力を集めた。頭上へ爪が迫る中、狙いを奥の一頭へ定め、一息に地面を蹴りつける。
低い姿勢のまま飛び込み、弱った狼の目前へ迫った。
血に濡れた顔がこちらを向く。狼は踏みとどまり、爪を振り下ろしてきたが、その腕を剣で弾き上げた。
「おらぁっ!」
開いた胸元へ、返す刃を叩き込む。
毛と肉を裂いた剣が深く入り、狼の身体が傾いた。倒れ込む重みから刃を引き抜き、すぐに振り向く。
三頭目は、すでにこちらへ迫っていた。
ダリオは退かず、剣を構えて前へ踏み出した。
その足が、落ち葉に隠れた窪みへ沈む。
「っ――!」
姿勢を崩した瞬間には、開いた牙が目前へ迫っていた。
◇
正面から飛び込む一頭を、エインは横へかわしながら斬り倒した。倒れた身体を越え、左右の茂みから次の二頭が飛び出してくる。
『右を先にやれ』
エインは右の狼へ踏み込み、首を斬った。そのまま身を沈めると、左から迫った爪が頭上を掠める。跳び越えていく腹へ剣を突き上げ、重みがかかったところで引き抜いた。
二頭が相次いで落ち葉の上へ崩れる。
『後ろだ!』
地面を蹴って前へ逃れると、背後で爪が空を切った。振り返った先では、狼が着地して再び身を沈めている。
もう一度跳ばせるつもりはなかった。
一気に間合いを詰め、振り下ろした剣で胸元を深く裂く。倒れる狼から刃を抜くと、木の陰からもう一頭が進み出た。
すぐには飛びかかってこない。身体を低くして左右へ動き、その後ろでは二頭が距離を取っている。
エインは剣を構え直し、目の前の一頭へ向きを合わせた。
『焦んな。あっちも飛び込む隙を探してる』
(ああ)
狼が横へ回っても踏み込まず、剣先を向け続けた。やがて痺れを切らしたように唸り声が強まり、灰黒い身体が地面を蹴る。
エインも踏み込んだ。
開いた牙の脇へ身をかわし、すれ違いざまに剣を振り抜く。五頭目が地面へ倒れると、残った二頭は足を止めた。
低く唸りながら仲間の死体とこちらを見比べ、少しずつ後退していく。
『逃げる気だな。追うなよ』
(そのつもりはない)
剣先を向けたまま待つと、一頭が身を翻し、もう一頭も茂みの奥へ消えた。
遠ざかる足音を確かめてから、詰めていた息を吐き、剣を下ろした。
「これで大方は――」
言いかけて、ダリオの方へ振り返る。
少し離れた場所に二頭のダスクウルフが倒れ、その先では三頭目が喉に剣を突き刺されたまま動かなくなっていた。
すぐ横の木に、ダリオがうなだれるように寄りかかっている。
「……ダリオ?」
返事はない。
駆け寄ると、肩口から首の付け根にかけて、服が赤黒く染まっていた。傍らに倒れた狼の牙も血に濡れている。噛みつかれてなお、喉へ剣を突き立てたのだろう。
エインは膝をつき、傷口へ手を当てて治療の魔力を流した。掌の下に淡い光が灯ったが、指の間から溢れる血は止まらない。押さえる手に力を込めても、温かなものが手首を伝って落ちていく。
『……おい』
(分かってる)
「ア……ウル……か?」
掠れた声に顔を上げると、ダリオが虚ろな目でこちらを見ていた。
「倒した……ぞ」
「ああ」
「……そっち、は……」
「こっちも片付いた」
「……はっ」
呼吸の合間に、僅かな笑い声が混じった。
「やっぱり……すげえな……」
「そんな話は後でいい」
ダリオは答えなかった。傷を押さえた手の下で、呼吸が次第に浅くなっていく。
「ダリオ」
エインはその顔を見つめ、血に濡れた手を動かさずに尋ねた。
「……何か、言い残すことはあるか?」
「……母ちゃん……に……」
唇がもう一度僅かに動いたが、その先は言葉にならなかった。
「……分かった。伝えよう」
ダリオの表情がほんの少しだけ緩み、やがて、ゆっくりと目を閉じた。
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本日のみ2話更新させていただきました。
そろそろ二章が終わります。
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