第十六話 鐘の届かない場所
朝の鐘が鳴る前、中庭にはすでにハロルドとダリオが来ていた。傍らにはもう一人、外套を着た男が立っている。
「来たな。まずは剣を渡す」
エインは差し出された制式刻印剣を受け取り、腰へ取りつけた。ダリオも隣で留め具を締め、鞘の位置を確かめている。
「こっちはローディ・フェインだ。今日は俺とこいつでお前たちを見る」
紹介された男が、軽く手を上げた。まだ三十には届いていないだろう。短い砂色の髪に、やや下がった眉。腰には同じ制式刻印剣を帯びている。
「よろしくお願いします」
二人が頭を下げると、ローディは目元に細かな皺を寄せて笑った。
「そんなに固くならなくていいよ。俺も候補生だった頃は、初めての任務となると落ち着かなかったから」
「余計なことを言って緊張を解くな」
「え、駄目なんですか?」
「緊張してるくらいでちょうどいい」
「先輩、相変わらずですね……」
ローディが苦笑すると、ダリオも僅かに口元を緩めた。
「出発するところですか」
回廊から声がした。エドガーがこちらへ歩いてくる。
「エドガー司祭。ええ、ちょうど二人を連れて、聖杭の周辺を調べに行くところです」
ハロルドが答えると、エドガーは頷き、エインとダリオへ目を向けた。
「朝食は食べましたか?」
「はい。ちゃんと食べてきました」
ダリオの返事に、エインも頷いた。
「それならよかった。出かける前に、無事を祈りましょう」
エドガーが四人の前で足を止めると、ハロルドとローディが胸に手を当て、静かに頭を垂れた。エインも二人に倣い、隣のダリオも姿勢を正す。
「灯がその道を照らし、汝らを再び我らがもとへ導かんことを」
「光よ」
差し上げた手の先に、小さな光が灯った。光は四人の頭上へ浮かび、細かな粒へとほどけた。
ゆっくりと降る光が、四人を包み、エインの目の前にもひと粒が揺れ、肩へ触れる頃には消えていた。
顔を上げると、エドガーは手を下ろし、微笑んだ。
「気をつけて。帰ったら、話を聞かせてくださいね」
「はい。行ってきます」
エインが答えると、ダリオも頭を下げた。
ハロルドはエドガーへ軽く会釈し、門へ向かって歩き出した。二人がその後を追い、ローディが最後尾につく。
東門を抜ける頃には、朝の鐘が鳴り終わっていた。
◇
街道を外れ、森へ続く細い道の前でハロルドが足を止めた。
「ここから先は外域だ」
朝日が届くのは木々の手前までだった。枝葉の影が重なる奥へ細い道が続き、曲がった先から見えなくなっている。
エインは胸の奥から魔力を巡らせ、身体へ纏わせた。隣ではダリオが剣の位置をもう一度確かめている。
ハロルドが地図を広げながら言う。
「昨日、この森に面した区画の聖杭で、異常な魔力消耗が確認された」
地図の一点を指で押さえる。
「杭そのものに目立った破損はない。補填からそれほど経っていないのに、周囲より明らかに減りが早かった」
「魔物が来てるんですか?」
ダリオが覗き込むと、ハロルドは指を守護圏の外側へ動かした。
「そうだな。杭の近くに足跡と、地面を掻いた跡が残っていた。魔物が近づいて、何度か結界に弾かれた可能性がある」
「まだ近くにいるかもしれないんですね」
「ああ。今日は周辺を調べる。何が来たのか、今もいるのか。それを確かめる」
地図を畳み、二人を順に見た。
「座学でもやったな。何か見つけたからといって、勝手に動くなよ。どうするかは俺が判断する」
「はい」
「ただ、実地訓練でもある。自分で周りを見て、気づいたことがあれば遠慮なく知らせろ」
ダリオが頷く。ハロルドは横目でローディを見た。
「お前も油断するなよ」
「分かってますよ、先輩」
「なら行くぞ」
四人は森へ入った。
◇
人の通った跡は、ほどなく薄れた。
湿った落ち葉の下には木の根が走り、踏む場所によって靴底の沈み方が違う。先頭のハロルドに続いてエインとダリオが進み、最後尾をローディが歩いていた。
「痕跡だけに集中するな」
ハロルドが歩きながら言った。
「下を見てるときほど、上と横が死角になる」
エインは視線を上げ、張り出した枝と、その向こうの藪を見た。ときおり振り返って、通ってきた木々の並びも確かめる。
『やっと外域らしくなってきたな』
(嬉しそうだな)
『こっちの空気の方が慣れてるからな』
前を歩いていたハロルドが屈み、落ち葉を木の枝で払った。
露出した土に、蹄の跡が残っていた。その先では下草が踏み倒され、低い枝が折れている。
「これが、聖杭のところに来たやつですか?」
ダリオが膝へ手をついた。
「可能性はある。だが、ここに足跡があるだけでは分からん。どちらへ向かっているか見てみろ」
ダリオは土の窪みを見比べ、倒れた下草の先へ目を向けた。
「……こっちですか?」
「ああ。新しい跡だ。近くにいるかもしれん」
ハロルドがそう言った直後、前方の藪で枝が折れた。
「動くな」
低い声に、ダリオが顔を上げた。ローディもすぐに剣の柄へ手を置く。
『二頭いるぞ』
エインが剣へ手を掛けると、黒い塊が藪を割って現れた。
猪に似た魔物だった。全身を煤のような剛毛が覆い、口元から太い牙が突き出している。続いて出てきたもう一頭も四人を見つけ、荒い鼻息を漏らした。
「黒牙猪」
ローディが言った。
片方が前脚で土を掻く。もう片方も頭を低くした。
「五等級だ。特殊な魔法は使わん。牙と突進に気をつけろ」
ハロルドは候補生二人へ目を向けた。
「一頭ずつやれ」
「俺たちで?」
「訓練のできは見た。足りないのは実戦だからな。今のお前たちでも、実力を発揮できればやれるはずだ」
ハロルドとローディが左右へ離れる。ローディは剣を抜き、二人の動きを妨げない位置で構えた。
「危ないと思ったらすぐ入るから。君たちは目の前の相手に集中して」
エインも剣を抜き、魔力を通した。刀身の刻印が浮かび上がる。
「灯よ、魔を断つ刃を与え給え」
隣でダリオも聖句を唱えた。
「頭は硬い。斬るなら脚か腹を狙え」
ハロルドの声を聞き終えるより先に、二頭が地面を蹴った。
◇
ダリオは横へ跳んだ。
太い牙がすぐ脇を抜け、黒い巨体が駆け抜けていく。振り向いたときには、グルームボアは土を削りながら向きを変えていた。
「速いな……!」
剣を握り直す。牙をかわしたつもりでも、身体ごと巻き込まれそうだった。打ち合ってきた候補生とは、大きさも勢いも違う。
荒い鼻息とともに、黒い頭が低く沈んだ。
ダリオは剣を引き、全身に纏う魔力を赤色へ変えた。迫る巨体を見据え、牙が届く寸前に脚へ魔力を集めて横へ跳ぶ。そのまま通り過ぎる後脚へ斬りつけ、刃が触れる瞬間に斬撃を増幅する。
剛毛の下へ刃が入り、血が散った。
グルームボアが大きくよろめく。
だが、倒れない。踏みとどまるなりこちらへ向き直り、牙を突き出してきた。
「っ!」
地面を転がって逃れると、背後で牙が土を抉った。グルームボアはさらに追おうとしたが、傷ついた後脚が滑り、動きが止まる。
その隙に立ち上がり、間合いを取り直した。
「焦るな。相手をよく見ろ」
「はい!」
ハロルドの声に答え、息を吐く。
脚は斬った。それでも、正面から突っ込んでくる勢いは衰えていない。
ダリオは牙の届かない距離を保ち、横へ回った。グルームボアもこちらを追って向きを変えるが、傷ついた後脚を引きずり、先ほどのようには回りきれない。
さらに横へ踏み込むと、魔物が牙を振り向けようとした。だが、傷ついた後脚では踏ん張れず、巨体が傾く。
ダリオは踏み込みを増幅し、一気に間合いを詰めた。
「おおっ!」
両手で突き出した剣が、首の付け根へ深く沈む。暴れる巨体に引き倒されそうになりながらも柄を握り締め、魔物が崩れるところで刃を抜いて飛び退いた。
黒い身体が地面へ倒れ、落ち葉が舞った。
それでも剣は下ろさなかった。土を掻く脚が止まるまで、切っ先を向けて待つ。
「……よし」
ようやく息を吐くと、柄を握る手が僅かに震えていた。
そこで、もう一頭のことを思い出す。
「アウルは――」
少し離れた木の根元に、黒い巨体が倒れていた。エインはその傍らに立ち、剣についた血を払っている。
呼吸もほとんど乱れていなかった。
「……もう終わってんのかよ」
ダリオは眉間へ皺を寄せ、自分の倒した魔物を見下ろした。
「くそっ。やっぱりアウルの方が早いか」
「お前もそう悪くはなかったぞ」
ハロルドが近づいてきた。
「脚を斬った後、すぐに飛びつかなかったのはいい。ただ、ここで速さを競うな。倒しても傷を負えば、その後が続かん」
「はい」
「初めての実戦で一頭仕留めたなら、十分じゃないですか、先輩」
ローディが言うと、ハロルドは横目を向けた。
「だから悪くないと言っただろ」
「もうちょっと分かりやすく褒めてもいいと思うんですけどね」
ダリオが小さく笑った。
そのとき、ハロルドの視線が魔物の背中で止まった。
「待て。この傷は、お前がつけたのか?」
◇
黒い剛毛の間に、長い裂傷が走っていた。
腰から背へ、皮膚と肉が鋭く切り開かれている。血は縁で固まり始めていたが、古い傷には見えなかった。
「いえ。俺が斬ったのは脚と、最後の首だけです」
ハロルドは屈み、傷の端へ目を寄せた。
「爪ですか?」
ダリオの問いに、ローディも横から覗き込む。
「どうだろうね。一本だけ、ずいぶん綺麗に切れてるけど」
傷は刃物を滑らせたように真っ直ぐだった。ハロルドはしばらく見てから立ち上がり、もう一頭へ顎を向けた。
「アウルの方はどうだ?」
ローディがエインの倒した個体へ向かう。その脇腹を確かめたところで、動きが止まった。
「先輩。こっちにもあります」
深さは違うが、よく似た切創だった。剛毛ごと断たれ、その下で血が固まっている。
「これも、私がつけたものではありません」
エインが言うと、ハロルドの表情が僅かに険しくなった。
「二頭ともか」
「何かに襲われたんですかね」
「この傷を負わせる相手が近くにいる、とは考えておくべきだな」
ローディは二頭が現れた藪へ回り、倒れた下草を持ち上げた。
「血も残ってます。奥から続いてますよ、先輩」
赤黒い滴は、その先の落ち葉にも点々とついていた。
「襲われて逃げた先で、聖杭にぶつかったんでしょうか」
ダリオが尋ねると、ハロルドは魔物の傷と藪を見比べた。
「そうかもしれん。だが、聖杭へ来たのがこいつらかは、まだ分からん」
外套の内側から円形の金属具を取り出す。懐中時計に似た形で、外蓋には教会の太陽の紋章が刻まれていた。
蓋を開き、内側へ目を落とした。
「半刻だけ調べる。どこで襲われたのか、痕跡を確かめるぞ。何がいるか分からん。常に周囲を警戒しろ。時間が来れば、手掛かりがなくても戻る」
ハロルドは聖灯章をしまい、二頭が現れた藪へ向き直った。
「では、行くぞ」
エインは振り返り、魔物の倒れている木と、その向こうの斜面を確かめてから歩き出した。
◇
血痕は途切れながらも、森の奥へ続いていた。
低い枝に剛毛が引っかかり、木の根には擦れたような血が残っている。グルームボアは傷を負ったまま、藪を突き抜けてきたらしい。
「こっちにもあります」
ローディが低い枝を示した。葉の裏についた血を確かめ、ハロルドが進路を直す。
遠くで鐘が鳴った。
ハロルドが外套の内側へ手を入れ、先ほどの金属具を握った。少しして手を離すと、ダリオが尋ねた。
「今、何をしたんですか?」
「定時信号だ。聖灯章へ魔力を流して送る」
ハロルドは歩調を落とさずに答えた。
「誰が、どこから送ったかは、それで向こうに分かる。必要があれば、直接繋いで話すこともできる」
「じゃあ、通信室では俺たちの居場所が分かってるんですね」
「最後に送った場所はな。歩いている間も追ってくれるわけじゃない」
ダリオが一度、背後を振り返った。来た方角にも木々が重なり、もう街道は見えない。
「逆に、決まった時間に信号が来なければ、向こうは確認に動くんだ」
ローディが後ろから言った。
「君たちも正規になって持つようになったら、忘れないようにね」
「お前は一回忘れたな」
「先輩、それ候補生の前で言います?」
「事実だ」
「あれ一回だけじゃないですか」
「一回あれば十分だ」
「……ほんと、昔のことよく覚えてますね」
ローディはそう言いながらも、視線を森から外してはいなかった。
◇
道筋は緩やかな下りへ変わり、足元に湿った土が増えてきた。
ハロルドは聖灯章を取り出して蓋を開いた。内側には時計と小さな方位表示が収まり、その周りに薄い刻印が見える。
時刻を確かめてから、地図と周囲の地形を見比べた。
「あと四半刻」
ダリオは頷き、斜面の下へ目を向けた。
土には、蹄が深く食い込んだ跡があった。根を避けずに踏み越えた箇所では、木の表面が削れている。横に続く別の足跡も、同じように斜面を駆け上がっていた。
二頭が来た方を辿ると、木々の間に小さく開けた場所が見えた。
「止まれ」
ハロルドが手を上げた。
そこだけ下草が踏み潰され、土が大きく抉れていた。端には葉の落ちた木が一本立ち、その手前に、苔をつけた太い倒木が横たわっている。
蹄の跡は幾つも重なっていたが、斜面へ向かう二頭分の跡は見分けられた。その脇には血を浴びた葉があり、土にも赤黒い染みが残っている。
「ここから走ったんですね」
ダリオが足元を指した。
ハロルドは頷き、踏み荒らされた場所を目で辿った。
「向こうから入ってきて、ここで向きを変えたらしい」
倒木の脇へ続く蹄の跡には、見える範囲で血がなかった。そこから地面が荒れ、四人が辿ってきた血痕が始まっている。
エインは周囲へ目を向けた。
斜面を上って逃げた二頭。その前に、ここで何かに襲われたのだろう。だが、グルームボアの蹄の跡に混じる、別の足跡は見つからなかった。
「襲った方の跡は、ありますか?」
「ここからでは分からん」
ハロルドは木々の間を見渡した。高い枝で鳥が鳴き、少し離れた葉陰を小さな影が飛び移る。
ローディが剣の柄へ手を添えたまま、ハロルドの横へ出た。
「先輩、俺が見てきます」
「気をつけろよ。お前たちは俺とここにいろ」
ローディがゆっくりと進んだ。血のついた葉を踏まないよう足を置き、乱れた地面へ目を落とす。
風が吹き、頭上の枝葉が擦れ合った。
『……嫌な感じだな』
アウルの声に、エインも剣の柄へ手を置いた。
(何か分かるか?)
『いや』
短い沈黙があった。
『だから嫌なんだよ』
エインは倒木の向こうから木々の間へ視線を移した。あの傷をつけた相手が、まだ近くにいるのか。それとも、もう立ち去ったのか。
ローディが、もう一歩進んだ。
教会の鐘は、もう聞こえなかった。
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本日のみ2話更新したいと思います。
次の17話を17時より公開させていただきます。
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