航編第十五話「暁光の月 九の日」
朝。
商業都市の朝は早かった。
まだ日が昇りきる前だというのに、街の中ではすでに人が動いている。
荷車の車輪が石畳を叩く音。
店を開けるために荷物を運ぶ音。
遠くから聞こえる、聞き慣れない言葉。
航は宿の窓から外を眺めていた。
この世界へ来てから、どれくらい経ったのか。
正確には分からない。
最初の頃は、何も理解できなかった。
人が何を話しているのか。
何を求めているのか。
何を売っているのか。
目の前にあるものを見て、ただ情報として受け取ることしかできなかった。
けれど、最近は少しだけ違う。
分からないものの中に、少しずつ分かるものが増えている。
それだけだった。
それでも、航にとっては大きな変化だった。
「今日は互助会に行こう」
朝食を終えた後、レイがそう言った。
言葉の意味は、まだ全て理解できない。
けれど、最近覚えた単語があった。
「行く」
航は小さく頷いた。
商業都市の互助会本部は、大きな建物だった。
人の出入りが多い。
商人。
旅人。
職人。
子供。
様々な人間が行き交っている。
レイは受付で何かを話していた。
航はその横で、静かに周囲を見ていた。
見たことのない服。
見たことのない道具。
聞いたことのない言葉。
何もかもが違う。
その中で、ふと目に留まる者がいた。
困ったように周囲を見回している人。
言葉が分からず、黙ったまま座っている人。
どこか、自分と似た雰囲気を持つ人間。
航は少しだけ視線を止めた。
自分だけではない。
この世界に来て、何も分からず困っている人間はいる。
その事実が、不思議と少しだけ気持ちを軽くした。
案内された部屋には、机が並んでいた。
紙。
筆。
黒板。
そして、言葉を教える人。
「ここでは言葉を教えています」
説明の全てを理解できたわけではない。
それでも、レイの様子を見る。
ここで学ぶ場所なのだと分かった。
授業は簡単なものから始まった。
物の名前。
挨拶。
数字。
時間。
航は紙に書き込んでいく。
何度も間違える。
文字の形が違う。
発音が違う。
意味が繋がらない。
日本にいた頃なら、当たり前にできていたことだった。
知識がないわけではない。
考える力がないわけでもない。
ただ。
使う場所が違う。
それだけで、今まで積み重ねてきたものが通じない。
その事実に、少しだけ苛立った。
休憩時間。
航は隣に座った男を見た。
その男もまた、紙を眺めながら困ったような顔をしていた。
「……難しいな」
何を言っているのか、航にはまだ分からない。
けれど、その表情で何となく理解できた。
困っている。
自分と同じだ。
航は少し考えた。
そして、覚えたばかりの言葉を口にする。
「……難しい」
男が顔を上げた。
少し驚いた後、小さく笑う。
「そうだな」
返事の意味は、まだ完全には分からない。
それでも。
少しだけ通じた。
そのことが、航には嬉しかった。
夕方。
授業が終わる。
今日覚えた言葉を書いた紙を眺める。
まだ少ない。
まだ足りない。
それでも。
昨日までの自分とは違う。
言葉は、ただ情報を伝えるためだけのものではない。
人と繋がるためのものなのだと、少しだけ分かった。
宿へ戻る。
レイは荷物を整理していた。
航は今日書いた紙を見せる。
レイは目を細めた。
「覚えたんだ」
その言葉は分かった。
航は頷く。
「少し」
レイは笑う。
「十分だよ」
その言葉も、少しだけ分かった。
夜。
航は机の上に紙を置いた。
まだ、この世界のことは何も分からない。
魔法。
国。
人との関係。
知らないことばかりだ。
それでも。
知らないなら。
覚えればいい。
そう思った。
窓の外。
商業都市の灯りは、夜になっても消えることはなかった。




