8話 一歩
「”氷華”!」
美景は一人で三体の異形を相手取っていた。
放たれた氷が床を這い、一体の足元を瞬時に凍りつかせる。
だが、その間に別の一体が横合いから飛び込む。
美景は咄嗟に身を捻り、掠めるようにその爪を避けた。
コートの裾が裂ける。
すぐさま手を振る。
床から氷柱が突き上がり、異形の進路を遮る。
だが一体を抑えれば、残る二体が動く。
二体を牽制すれば、最初の一体が氷を砕く。
自分の実力を上回る中位種、それも三体。
しかも、人の多いモール内だ。
攻撃の角度も範囲も、常に制限される。
「っ……!」
息が上がる。
額を伝う汗が視界に入り、すぐに溶けるように消える。
一体の腕を凍結で止める。
その隙にもう一体の足元へ氷を走らせる。
だが、三体目が天井近くの装飾柱を蹴って飛び込み、美景の肩口を弾き飛ばした。
鈍い衝撃。
体が床を滑る。
「……っ、は……!」
すぐに立ち上がる。
止まれば終わる。
だが呼吸は確実に乱れていた。
“感覚”の出力はまだ維持できる。
それでも、集中力と体力は着実に削られていく。
一体を凍らせても、その拘束を維持しながら他の二体に対処しきれない。
他へ意識を向けた瞬間、凍結が甘くなり、拘束を破られる。
その繰り返しだった。
じわじわと、美景は追い詰められていく。
周囲にいた一般客はほとんど避難した。
だが、完全ではない。
遠くでうずくまって動けない人影も見える。
だから下がれない。
一歩も。
異形の一体が、正面から突っ込んでくる。
「”氷華”!」
正面に氷壁を展開する。
激突音。
壁が軋む。
その瞬間、左右から別の二体が同時に動いた。
美景の表情が、初めてはっきりと強張る。
片方を防げば、もう片方が通る。
避けても、その先にあるのは倒れた一般人だ。
選べない。
選べる余地が、ない。
「……っ」
息を呑む。
絶体絶命――その言葉が、頭をよぎった瞬間だった。
背後から、足音が響く。
人混みを裂くように、一直線に駆けてくる音。
美景が目を見開く。
「……蒼月君!?」
振り向いた先にいたのは、戻ってきた空だった。
肩で息をしながら、それでもまっすぐ前を見ている。
その目には、いままでの空洞さとは別のものが宿っていた。
「なんで……」
美景の声が、掠れる。
逃がしたはずだった。
美晴を連れて、この場から遠ざけたはずだった。
なのに、空は戻ってきた。
三体の異形もまた、新たな乱入者へ視線を向ける。
裂けた穴のような顔が、一斉に空を捉えた。
「下がって!」
反射的に、美景が声を張る。
だが、空は止まらない。
ぼろぼろになった美景と異形たちの間に、まっすぐ割って入る。
「蒼月君、駄目!」
美景の制止は、もう届いていないようだった。
空の目には、目の前の異形も、美景の姿も、けれどそれだけではない何かも映っているように見えた。
呼吸が荒い。
喉の奥が焼けるように痛む。
それでも、足は止まらなかった。
目の前には、傷ついた美景がいる。
守るために前へ出た背中。
なのに、自分はまた遅れている。
また、守られてからここに立っている。
――何も守れなかった自分が、今更何をしようというのか。
頭の奥で、声がする。
――お前には何もできない。
――あのときだってそうだった。
――届かなかった。動けなかった。守れなかった。
――今更前に出たところで、何が変わる。
それでも。
脳裏に浮かぶのは、泣きそうな顔でこちらを見上げた美晴の姿だった。
そして、その向こうに重なる、十歳の海未。
あの日、言えなかった言葉。
伸ばせなかった手。
何一つ守れなかった自分。
ここでまた立ち止まれば、それをもう一度繰り返すだけだ。
だが、同時に別の躊躇いが胸を締めつける。
この”感覚”を使えば、あいつに一歩近づいてしまう。
ずっと目を背けてきたものに、自分から寄っていくことになる。
嫌悪してきたものと、自分の境界が曖昧になる。
そんなのは、嫌だった。
認めたくなかった。
けれど――
異形の一体が、美景へ向かって再び腕を振り上げる。
もう迷っていられる距離ではない。
空は奥歯を噛みしめた。
逃げるためではなく、前へ出るために。
声が、喉の奥から絞り出される。
「――”模倣”」
その瞬間、空気が変わった。
美景の目が、はっきりと見開かれる。
空は目の前の異形を睨んだまま、続けた。
「”氷華”」
凍気が爆ぜた。
空の足元から放たれた氷が、衝撃波のように一気に広がる。
床を駆け、壁を這い、吹き抜けのガラス手すりまで呑み込みながら、モール一帯を白く染め上げていく。
三体の異形が、反応する間もなく氷に捕らわれる。
腕を振り上げた姿勢のまま。
跳びかかろうとした瞬間のまま。
逃げ場も、抵抗も許されず、まとめて凍てついていく。
氷はそれだけでは止まらない。
砕けた床も、散ったガラスも、崩れた装飾も、すべてを巻き込みながら、まるで世界そのものを白に塗り潰すように広がっていく。
「……なっ」
美景が息を呑む。
自分の”氷華”ではありえない規模だった。
出力が違う。
広がりが違う。
同じ”感覚”のはずなのに、自分の知るそれとは別物のようだった。
モールを包んだ悲鳴が、一瞬遅れて止まる。
その場にいた誰もが、何が起きたのか理解できず、ただ目の前の光景に凍りついていた。
氷の中で、異形たちが微かに軋む。
だが、その軋みすら長くは続かない。
空は前を向いたまま、かすれた呼吸を繰り返す。
頭の奥が割れそうに痛い。
胸の中で、何かが激しくぶつかり合っている。
吐き気にも似た不快感と、焼けつくような熱。
それでも、視線だけは逸らさなかった。
「……終われ」
掠れた声が落ちる。
次の瞬間、三体を閉じ込めた氷が内側から砕け、弾け飛ぶ。
白い氷片と、濁った破片が周囲へ舞い散る。
轟音の余韻が、遅れて空間に満ちた。
静寂が落ちる。
凍りついたモールの中で、動いている異形はもう一体もいなかった。
空の膝が、わずかに揺れる。
立っていることさえ、ぎりぎりだった。
「蒼月君……」
背後で、美景の声がする。
その声には、安堵よりも、困惑と警戒が強く混じっていた。
当然だった。
自分の”感覚”を、目の前の少年が使った。
しかも、自分以上の規模で。
空は振り返らない。
振り返るだけの余裕が、もう残っていなかった。
視界の端が暗く狭まっていく。
遠くで誰かが叫んでいる。
走ってくる足音も聞こえる。
けれど、それらはもうひどく遠い。
最後に、ほんの少しだけ思った。
守れたのかどうかさえ、まだ分からない。
それでも、今回は――
何もしないままでは、終わらなかった。
…
その直後、空の身体から完全に力が抜けた。
白く凍りついた床へ、崩れ落ちる。
倒れ込む寸前、誰かが息を呑む音だけが、妙にはっきりと耳に残った。




