7話 兄
「……助かった。おかげで、いいものが買えた」
結局白雪姉妹に頼りきりで選んで購入した紙袋を見下ろしながら、空は短くそう言った。
隣を歩いていた美景が、ほんのわずかに目を瞬く。
「そう」
それだけの返答だったが、どこか力の抜けた声だった。
美晴はすぐに口を尖らせる。
「ちょっと、お姉ちゃん。それだけ?」
「何?」
「もっとあるでしょ。『どういたしまして』とか」
「別に、強制されて言うものじゃないでしょ」
呆れたように返す美景に、美晴は「むー」と不満げな声を漏らした。
その様子を横目で見ながら、空は紙袋の持ち手を軽く握り直す。
中には、小ぶりなぬいぐるみと、病室でも食べやすい個包装の焼き菓子が入っている。
雑貨店では美晴が「あ、それかわいい」と次々に棚の商品を指差し、美景が「病室に置ける大きさにしなさい」と冷静に絞り込み、最後は空が黙って選んだ。
菓子の方も同じだった。
美晴は見た目で選びたがり、美景は日持ちと食べやすさを気にし、空はその二人のやり取りを聞きながら、一番海未が受け取りやすそうなものを手に取った。
一人では、たぶんここまで早く決められなかっただろう。
「妹さん、喜ぶといいね」
美晴が、屈託なく言う。
空は少しだけ間を置いてから、
「……たぶんな」
とだけ返した。
それでも、さっきよりは少しだけ声が柔らかい。
美景はそれを聞いても特に何も言わず、ただ前を向いたまま歩いていた。
休日のショッピングモールは相変わらず人が多い。
吹き抜けの上階からは子どもの笑い声が落ちてきて、遠くでは催事場の呼び込みが響いている。明るすぎるほどの照明と、人の熱気。日常そのものの景色だった。
その出口付近まで来たところで、美景が足を止めた。
「じゃあ、私たちはこっちだから」
「ばいばい、空さん」
美晴が軽く手を振る。
空も小さく会釈を返した。
「……白雪」
「何?」
「その……助かった」
さっきの礼とは少し違う言い方だった。
買い物のことだけではない。
先日の教室のことも、少しだけ混ざっている。
美景は一瞬だけ空を見て、それから小さく首を振った。
「気にしなくていいわ」
短い言葉だった。
けれど、それ以上言わせない程度には十分だった。
空が何か返しかけた、そのときだった。
――ウゥゥゥゥゥゥゥン
館内に、耳をつんざくような警報音が鳴り響いた。
途端に、ざわめきが止まる。
次いで、天井のスピーカーから機械的な音声が流れた。
『緊急警報。緊急警報。館内に異形反応を確認。お客様は係員の指示に従い、直ちに避難してください。繰り返します――』
空気が、一瞬で変わる。
さっきまでの雑踏が、一気に恐慌へと転じていく。
「え……?」
「異形って、うそ……」
「おい、早く行けって!」
悲鳴、怒鳴り声、走り出す足音。
人の流れが一方向へ雪崩れ、モール全体が揺れるようにざわついた。
空の背筋に、冷たいものが走る。
美景の表情が一瞬で変わった。
私服の少女ではなく、教室で異形に立ち向かったあの顔。
張りつめた視線が、周囲を素早く見渡す。
「美晴、私から離れないで」
「う、うん……」
さっきまで明るかった美晴の声が、目に見えて強張る。
その瞬間、近くのガラス張りの店舗の奥から、何かがぶつかるような鈍い音が響いた。
ドンッ。
二度、三度。
店内の客が悲鳴を上げて飛び退く。
次の瞬間、強化ガラスが弾け飛んだ。
砕けた破片の向こうから、白い影が躍り出る。
一体、二体、三体。
床へ着地したそれらは、人の輪郭を模していながら、人ではありえない歪みを持っていた。
細長く伸びた手足。関節の向きすら曖昧な四肢。表皮のような白い膜に覆われた身体。そして、そのどれもが先日学校で見た下位種より、明らかに大きい。
しかも、三体。
その場にいた誰かが、喉をひきつらせるように呟く。
「中位種……?」
三体の異形は散らばるように着地し、それぞれ違う方向へ顔を向けた。
周囲の人々が一斉に後ずさる。
だが、逃げ場は十分ではない。
人が多すぎる。
美景の表情が、わずかに硬くなった。
この場にいるのは、一般人ばかりだ。
避難経路は人で詰まり、異形は三体。しかも距離が近い。
美景は一瞬で判断したのだろう。
すぐに空を見る。
「蒼月君」
その声に、空の肩がわずかに強張る。
「美晴を連れて逃げて」
即答だった。
頼む、ではない。
そうするべきだと、判断した声だった。
「お姉ちゃんは!?」
美晴が美景の腕を掴む。
美景はその手をそっと外した。
「私は足止めする」
「無理だよ! 三体もいるのに――」
「無理でもやるしかないの」
その声は冷静だった。
冷静すぎるほどに。
けれど、その冷静さの奥にある緊張を、空は見逃せなかった。
「蒼月君、早く!」
強い声だった。
空は一瞬だけ躊躇い、それから美晴の手首を掴む。
「行くぞ」
「でも、お姉ちゃんが――」
「早く!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
美晴がびくりと肩を震わせる。
そのまま空は、人の流れを縫うように美晴を引いて走った。
背後では、すでに氷の砕けるような音が響いていた。
振り返らない。
振り返れば、足が止まる気がした。
エスカレーター脇の避難導線は人で溢れていた。泣き叫ぶ子ども、誰かを呼ぶ声、転びそうになる足音。押し合うように流れる人波の中、美晴の小さな手首だけは離さないように強く掴む。
「……っ、お姉ちゃん……!」
美晴の声が震える。
その響きが、胸の奥に刺さる。
空は黙ったまま、人の少ない従業員通路側の誘導口へ向かった。警備員が避難客を外へ流しているのが見える。
ようやく安全圏と呼べる場所まで来たところで、空は足を止めた。
「ここにいろ」
息を切らしながら、美晴を振り返る。
美晴の目には涙が滲んでいた。
「……嫌だよ」
小さく、首を振る。
「お姉ちゃんが……お姉ちゃんが……」
その顔を見た瞬間、空の視界が揺れた。
泣きそうな少女の顔が、別の誰かのものと重なる。
十歳の海未。
痛みに歪んだ顔。
震える手。
助けを求める目。
あの日、自分は何も言えなかった。
何もできなかった。
動けなかった。
美晴が、縋るように空を見上げる。
「お願い……助けて」
声が、遠い過去と重なる。
頭の奥で、何かがひび割れるような音がした。
空はゆっくりとしゃがみ込み、美晴と目線を合わせる。
震えるその肩に、そっと手を置いた。
「……大丈夫だ」
喉の奥から、絞り出すように声が出る。
「お兄ちゃんに任せろ」
それは、あの日言えなかった言葉だった。
美晴が目を見開く。
空自身も、その言葉に一瞬だけ息を止めた。
だが、もう引き返せなかった。
「ここから動くな。絶対に」
美晴は泣きそうな顔のまま、小さく頷いた。
空は立ち上がる。
足が、今度は迷わなかった。
走り出す。
人の流れに逆らい、さっき離れた場所へ戻っていく。
胸の奥で鼓動が暴れている。
怖くないわけがない。
足が震えていないわけでもない。
それでも、止まれなかった。




