5話 拒絶
異形の襲撃を受けた生徒たちと、負傷した教師たちは、そのまま近隣の病院へ運び込まれた。
気がつけば、空は病院の待合椅子に座っていた。白い壁。消毒液の匂い。慌ただしく行き交う看護師の足音。ついさっきまで教室にいたはずなのに、もうそこは遠い場所のように思えた。
診察はすぐに終わった。打撲と軽い裂傷。安静にしていれば問題ないと、医師は事務的に告げた。空にとって、自分の怪我がどうこうはどうでもよかった。
視線の先では、別の生徒が泣いていた。付き添いの教師が何かを説明している。ストレッチャーで運ばれていく人影も見える。おそらく、先ほどまで空たちに授業をしていた教師だろう。
現実感が薄い。それでも、すべてが現実だった。
空はゆっくりと立ち上がる。向かう先を考える必要はなかった。この病院にいるのなら、行く場所は一つしかない。
廊下を進む。見慣れた病室の前で立ち止まり、軽くノックをした。
「……どうぞ」
柔らかい声。
空は扉を開ける。
「お兄ちゃん!」
ベッドの上の海未が、ぱっと顔を上げた。その表情が明るくなったのはほんの一瞬で、すぐに不安げな色が混じる。
「大丈夫!? 怪我したって聞いたけど……っ」
海未は上半身を起こし、苦しそうに眉を寄せた。
「傷、痛くない? 頭とか打ってない? ちゃんと診てもらった? どこ怪我したの?」
矢継ぎ早に飛んでくる言葉。まっすぐな心配だった。何よりも先に、自分のことを心配している。その事実が、空の胸の奥を重く圧迫する。
「……大したことない」
短く返す。だが海未は安心しない。
「でも、学校で異形が出たんでしょ? 先生たちが慌ただしくしてて……私、何があったのかちゃんと分からなくて……」
海未の声は少し震えていた。怖かったのだろう。それでも自分のことではなく、空のことを聞いてくる。
「ほんとに大丈夫なの? 無理してない?」
空は答えない。答えられない。心配されるたび、胸の奥に沈めていたものが浮かび上がってくる。
――また守れなかった。
――また助けられた。
――また何もできなかった。
しかも、そんな自分を海未は心配している。それが、苦しかった。
「……お兄ちゃん?」
海未が、不安そうに名前を呼ぶ。その声音が、さらに空を追い詰める。
耐えきれず、空は視線を逸らした。
「……別に」
低い声だった。
海未が小さく息を呑む。
空はそれでも止まれなかった。
「大したことないって言ってるだろ」
自分でも驚くほど、声が冷えていた。
病室の空気が止まる。海未の表情が、ほんの少しだけ曇る。
「……ごめん」
小さな声だった。責める響きはない。ただ、本当に困らせてしまったと思っているような、そんな謝り方だった。
その一言が、空の胸をさらに抉る。違う。謝るべきなのは海未じゃない。そんなことは分かっているのに、今さら何も言えない。
「……」
沈黙が落ちる。機械の電子音だけが、妙に鮮明に耳に残る。海未は視線を落とし、そっとシーツを握った。さっきまでの明るさが、ほんの少しだけしぼんで見える。空は立ち尽くしたまま、その姿を見ていられなかった。
「……帰る」
ぶっきらぼうに言う。
海未が顔を上げる。
「う、うん……」
少し遅れて返ってきた声は、それでもいつも通りにしようとしていた。
「また、来てね」
その言葉に、空は何も返せなかった。背を向けて、病室を出る。
扉が閉まる。廊下に出た途端、肺の奥に溜まっていた空気を吐き出すように、深く息が漏れた。足が止まる。壁に手をつく。自分の吐いた言葉が、頭の中で何度も反響していた。
――大したことないって言ってるだろ。
違う。本当は、そんなことを言いたかったわけじゃない。心配してくれたことが嫌だったわけでもない。ただ、あの優しさを正面から受け取れるほど、自分を許せなかった。
空はしばらくその場を動けなかった。病室の向こうには海未がいる。今もきっと、さっきと同じように、こっちを気にしている。それが分かるからこそ、余計に戻れなかった。




