4話 氷華
「きゃああああっ!」
「逃げろ!」
「うそだろ、おい……!」
生徒たちが一斉に立ち上がり、入口へ殺到する。机が倒れ、椅子が滑り、教室は一瞬で混乱に飲まれた。
教師が鋭く声を張り上げる。
「落ち着け! 窓から離れろ!」
咄嗟に手を上げる。
生徒たちを庇うように、”感覚”を発動しようとしたのだろう。
だが、それより早く異形の腕が振るわれる。
壁が抉れ、教壇が吹き飛ぶ。
教師の体が床を転がった。
「――ッ」
誰かの喉が、ひきつる。
逃げ遅れた生徒が尻餅をつく。
異形は迷いなく、そちらへ向いた。
空もまた、その場に立ち尽くしていた。
足が動かない。
目の前の光景が、今のものなのか、昔のものなのか、その境界が曖昧になる。
悲鳴。
壊れた床。
届かない距離。
守れない背中。
脳裏に過るのは、別の誰かの姿だった。
十歳の海未。
あの日と同じように、喉が締まる。
体が強張る。
前に出なければならないと分かっているのに、指先一つ動かせない。
異形が、こちらを見る。
裂けた穴の奥に、視線のようなものを感じた。
空の呼吸が止まる。
――来る。
その瞬間。
白いものが、視界を横切った。
次の瞬間、異形の腕が途中で止まる。肘から先が、分厚い氷に閉じ込められていた。
「下がって!」
鋭い声が響く。
白雪 美景が、空と異形の間に立っていた。
片手を振り抜いた姿勢のまま、床を這うように氷を広げていく。その表情に怯みはない。だが、張りつめたものだけは確かにあった。
教室の空気が、一気に凍りつく。
異形が軋むような声を上げ、氷を砕こうともがく。
美景はもう一度手を振る。今度は床から突き上がるように氷柱が生まれ、異形の胴を穿った。
「私はVEC隊員よ! 早く避難して!」
その声で、止まっていた生徒たちがようやく動き出す。
空だけが、動けなかった。
目の前で戦う美景の背中と、記憶の中の光景が重なる。
守られている。
また、自分は何もできない。
その事実だけが、鈍く胸の奥に沈んでいった。
美景は、異形から視線を外さないまま一歩だけ踏み込んだ。
呼吸を整える。
目の前の異形は一体。形状の歪みも、放つ圧も、過去に討伐記録で見た下位種の範疇を出ていない。
――下位種一体。
それだけ分かれば十分だった。
脅威ではある。だが、対処不能ではない。
視界の端で、生徒たちが教室の外へ流れていくのを確認する。入口付近の混雑も、さっきよりは薄い。逃げ遅れていた数人も、今はもう動き出していた。
教師も意識はある。
床に崩れたままではあるが、少なくとも今すぐ死ぬような傷には見えない。
――避難は進んでいる。
なら、あとは速い。
異形が凍りついた腕を無理やり振り抜こうとする。氷が軋み、亀裂が走る。
美景は冷静に手をかざした。
「”氷華”!」
床一面に広がった氷が、まるで意思を持つようにうねる。
異形の足元が一気に凍りついた。
動きが止まる。
その隙を逃さず、美景はもう一歩踏み込む。
「――終わり」
短い声。
振り下ろした手に応じるように、氷が立ち上がる。
鋭い氷柱が、異形の腹部を下から貫いた。
ぐしゃり、と湿った音。
異形の体が大きくのけぞる。
だが、それでもまだ倒れない。
裂けた穴の奥から、耳障りな軋み声が漏れる。長い腕がもがくように動き、氷を砕こうと暴れる。
美景の表情は変わらない。
慌ても、焦りもない。
ただ、確実に仕留めるための手順をなぞるだけだった。
「……っ」
小さく息を吐く。
次の瞬間、美景の唇が小さく動く。
「雪月花」
異形の体を貫いていた氷柱が、内側から一気に広がった。
胴体を中心に、白い氷が花弁のように咲く。
胸部、肩、首。
逃げ場を失った異形の全身が、瞬く間に氷に呑まれていく。
暴れる動きが、止まる。
軋む音も消える。
最後に、美景は静かに手を握った。
――パキン。
乾いた音とともに、異形の体が砕け散る。
白い氷片と、濁った破片が床へ降り積もる。
教室に、静寂が戻った。
荒れた机。
砕けた窓。
怯えた気配だけを残して、異形の姿はもうどこにもなかった。
美景はしばらくその場を動かなかった。
本当に動きが止まったのか、他に気配はないか、教室の外まで含めて確認する。
異常なし。
そこでようやく、張りつめていた息をひとつだけ吐いた。
「……もう大丈夫」
誰に向けたのか分からないほど小さな声だった。
それから振り返る。
教室の中には、まだその場に立ち尽くしている空の姿があった。
「……蒼月君」
美景が眉をひそめる。
逃げ遅れた、というより――動けなかった。
そんなふうに見えた。
空は何も答えない。
ただ、砕けた異形の残骸と、美景の姿を見ていた。
教室の外から、慌ただしい足音が近づいてくる。
遅れて到着した教員たちと、VECの増援だろう。
だがその前に、美景は空から目を離さなかった。
さっき、自分が庇わなければ確実に死んでいたはずの少年。
なのに、その顔には安堵も、感謝も、何一つ浮かんでいない。
ただ、空洞みたいにそこに立っているだけだった。
そのことが、美景には妙に引っかかった。




