3話 異変
翌朝。
空は、いつもと変わらない足取りで登校した。
校門をくぐり、廊下を歩き、教室へ向かう。その一つ一つが、何度も繰り返してきた動作だった。考えるまでもない。止まる理由も、急ぐ理由もない。ただ足だけが前に進んでいく。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が集まっていた。笑い声。机を引く音。朝の気だるい空気。どこにでもある学校の風景だった。
ただ、その中に自分の居場所だけはない。
空は何も言わず自分の席に向かい、鞄を置いた。誰とも目を合わせない。合わせる必要もなかった。
「おー、蒼月。今日も朝から死んだ目してんな」
気の抜けた声が飛んでくる。
見ると、斜め前の席に腰掛けた星馬が、片手をひらひらさせていた。相変わらず締まりのない笑みを浮かべている。
「……普通だ」
「それ普通って言うの、お前だけだと思うぞ」
星馬は肩をすくめる。
空はそれ以上返さず、椅子を引いた。
教室の前方では、白雪 美景がすでに席についていた。背筋を伸ばし、机の上に開いた教材へ視線を落としている。その横顔には昨日と同じく隙がない。周囲のざわめきから切り離されたような、静かな在り方だった。
ふと、美景が顔を上げる。
一瞬だけ、空と視線が交わった。
ただ、それだけだった。
すぐに彼女は何事もなかったかのように視線を落とす。空もまた、特に何も思わないまま前を向いた。
やがて、始業のチャイムが鳴る。
担任が教室に入り、いつものように出席を取り、簡単な連絡事項を告げる。そのあとには、”感覚”理論の講義が控えていた。
担当教師が教壇に立ち、電子黒板に資料を映し出す。
『”感覚”の発現傾向と個人差について』
そんな題名が表示される。
教室のあちこちから、微妙に気の抜けた空気が漏れた。聞き慣れた内容なのだろう。だが教師は構わず話し始める。
「”感覚”は個人ごとに性質が異なる。出力、持続、条件、適性――そのすべてに差がある。戦闘向きのものもあれば、知覚や補助に寄るものもある。重要なのは、自分の”感覚”を正しく理解し、制御することだ」
板書の音が響く。
「また、”感覚”の暴発や過剰行使は身体と精神の双方に負荷を与える場合がある。個人差はあるが、無理な使用は命に関わる。軽視するな」
教室は静かだった。
真面目に聞いている者もいれば、聞き流している者もいる。
空は、ただ座っていた。
耳には入っている。だが、何も引っかからない。
自分には関係のない話だと、どこかで線を引いている。
教師は一度黒板の表示を切り替える。
そこには、歪んだ輪郭をした異様な生物の図が映し出された。
「異形は、十年前に突如出現した、人間を襲う怪物だ。その姿や性質は一体ごとに異なるが、共通して極めて高い危険性を持つ。いつどこに現れるかも予測できない。遭遇した場合は、とにかく生存を優先しろ」
教室の空気が、ほんのわずかに引き締まる。
「異形との遭遇時に最も重要なのは、自己判断で突出しないこと、対異形に特化した集団であるVECに任せることだ」
教師の声が少しだけ強くなる。
「特に市街地では、一般人の独断行動が被害を拡大させる。発見時は即座にVECに通報、避難、待機。分かったな」
数人が曖昧に返事をした。
そのときだった。
ピシッ、と。
教室の窓が小さく震えた。
一瞬、誰も反応しなかった。
風か何かだと、そう思ったのだろう。
だが次の瞬間、今度はもっと大きな音が響いた。
ガンッ、と鈍い衝撃音。
窓ガラスではない。建物のどこか外側を、何か重いものが叩いたような音だった。
教室の空気が止まる。
「……なんだ?」
誰かが呟く。
教師が眉をひそめ、窓の外へ視線を向けた、その直後。
廊下の向こうから、短い悲鳴が聞こえた。
それは、一つでは終わらなかった。
二つ、三つと重なり、あっという間にざわめきへ変わる。
「きゃっ――」
「な、何……!?」
「おい、待てよ!」
椅子が鳴る音。
立ち上がる生徒。
教師が鋭く声を張り上げる。
「全員、席を離れるな!」
だが、遅かった。
教室後方の窓が、外側から凄まじい衝撃を受ける。
バキン、と甲高い音が響いた。
ガラスが砕け散る。
悲鳴。
降り注ぐ破片の向こうから、“それ”は現れた。
人の形をしているようで、していない。
捻じれた四肢。異様に長い腕。皮膚なのか殻なのか分からない、濁った表層。顔があるべき位置には、裂けたような穴が開いていた。そして異質なほどの白さ、そのすべてが物語る。
異形。
教室の誰かが息を呑む。
その一瞬で、日常は終わった。




