2話 兄妹
放課後。
校舎を出る頃には、空はもう何も考えていなかった。いつものことだ。何も持たないまま、足だけが動く。
気づけば、見慣れた建物の前に立っていた。白い外壁。規則的に並ぶ窓。病院。
自動ドアが、音もなく開く。中は静かだった。消毒液の匂いと、控えめな足音。受付を通り過ぎ、エレベーターに乗る。ボタンを押す指に、迷いはない。
――毎日のことだった。
学校が終われば、ここに来る。それが当たり前になって、もう長い。
扉が開く。廊下を進み、目的の部屋の前で立ち止まる。コンコン、と軽くノック。
「……どうぞ」
中から、柔らかい声。
空は扉を開けた。
「お兄ちゃん」
ベッドの上で、少女が笑った。
蒼月 海未。空の四つ年下の妹だ。長い黒髪を肩のあたりで揺らしながら、どこにでもいそうな無邪気な笑みを浮かべている。その明るさだけを見れば、ここが病室だということを一瞬忘れそうになる。
「今日も来てくれたんだ」
「……ああ」
短く返す。海未が心配だから来ているのか。それとも、あの日守れなかった罪悪感から来ているのか。空自身にも、もうよく分からなかった。
空は部屋の中に入り、いつもの椅子に腰を下ろした。
「今日の学校は?」
「……普通」
「そっか」
海未は嬉しそうに頷く。それだけで満足したように。
「……無理して来なくてもいいんだよ?」
ふと、そんなことを言う。責めるような言い方ではない。本当に、そう思っている声音だった。
「来たいから来てるだけだ」
空は視線を逸らしたまま答える。それが本当なのかどうか、自分でも分からないまま。
「そっか」
また同じ言葉。それでも海未は、どこか嬉しそうだった。
少しの沈黙。窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変えている。
「……ねえ」
海未が、静かに口を開く。
「今日、何かあった?」
空の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。だが、それもすぐに消える。
「……別に」
昼休みのやり取りが、頭をよぎる。だが、それ以上は何も浮かばない。
「そっか」
海未はそれ以上、聞かなかった。まるで、最初から分かっていたかのように。
「でも」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「お兄ちゃん、今日ちょっとだけ元気なかったよ」
断定ではない。けれど、外れてもいない。空は答えない。何も言わない。ただ、黙っている。
「……大丈夫だよ」
海未は、穏やかに笑った。
「私は、お兄ちゃんが来てくれるだけで嬉しいよ」
その言葉に、空の指が、わずかに止まる。
「……」
何も返せない。返す言葉が、ない。
海未は気にした様子もなく、続ける。
「お兄ちゃんは、優しいから」
まっすぐな言葉だった。疑いのない声だった。だからこそ――空は、何も言えなかった。
「……」
沈黙。部屋の中には、機械の小さな音だけが響いている。
空は、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ帰る」
短く告げる。
「うん。また明日ね」
海未は、変わらない笑顔で手を振る。空はそれに背を向けて、部屋を出た。
扉が閉まる。廊下に出た瞬間、わずかに息を吐く。
――優しい。
その言葉だけが、残っていた。毎日ここに来る理由が何であれ、その言葉だけは、少しも受け入れられなかった。




