表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/40

2話 兄妹

放課後。


校舎を出る頃には、空はもう何も考えていなかった。いつものことだ。何も持たないまま、足だけが動く。

気づけば、見慣れた建物の前に立っていた。白い外壁。規則的に並ぶ窓。病院。


自動ドアが、音もなく開く。中は静かだった。消毒液の匂いと、控えめな足音。受付を通り過ぎ、エレベーターに乗る。ボタンを押す指に、迷いはない。


――毎日のことだった。


学校が終われば、ここに来る。それが当たり前になって、もう長い。

扉が開く。廊下を進み、目的の部屋の前で立ち止まる。コンコン、と軽くノック。


「……どうぞ」


中から、柔らかい声。


空は扉を開けた。


「お兄ちゃん」


ベッドの上で、少女が笑った。


蒼月 海未(うみ)。空の四つ年下の妹だ。長い黒髪を肩のあたりで揺らしながら、どこにでもいそうな無邪気な笑みを浮かべている。その明るさだけを見れば、ここが病室だということを一瞬忘れそうになる。


「今日も来てくれたんだ」


「……ああ」


短く返す。海未が心配だから来ているのか。それとも、あの日守れなかった罪悪感から来ているのか。空自身にも、もうよく分からなかった。

空は部屋の中に入り、いつもの椅子に腰を下ろした。


「今日の学校は?」


「……普通」


「そっか」


海未は嬉しそうに頷く。それだけで満足したように。


「……無理して来なくてもいいんだよ?」


ふと、そんなことを言う。責めるような言い方ではない。本当に、そう思っている声音だった。


「来たいから来てるだけだ」


空は視線を逸らしたまま答える。それが本当なのかどうか、自分でも分からないまま。


「そっか」


また同じ言葉。それでも海未は、どこか嬉しそうだった。


少しの沈黙。窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変えている。


「……ねえ」


海未が、静かに口を開く。


「今日、何かあった?」


空の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。だが、それもすぐに消える。


「……別に」


昼休みのやり取りが、頭をよぎる。だが、それ以上は何も浮かばない。


「そっか」


海未はそれ以上、聞かなかった。まるで、最初から分かっていたかのように。


「でも」


少しだけ、声が柔らかくなる。


「お兄ちゃん、今日ちょっとだけ元気なかったよ」


断定ではない。けれど、外れてもいない。空は答えない。何も言わない。ただ、黙っている。


「……大丈夫だよ」


海未は、穏やかに笑った。


「私は、お兄ちゃんが来てくれるだけで嬉しいよ」


その言葉に、空の指が、わずかに止まる。


「……」


何も返せない。返す言葉が、ない。

海未は気にした様子もなく、続ける。


「お兄ちゃんは、優しいから」


まっすぐな言葉だった。疑いのない声だった。だからこそ――空は、何も言えなかった。


「……」


沈黙。部屋の中には、機械の小さな音だけが響いている。

空は、ゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ帰る」


短く告げる。


「うん。また明日ね」


海未は、変わらない笑顔で手を振る。空はそれに背を向けて、部屋を出た。

扉が閉まる。廊下に出た瞬間、わずかに息を吐く。


――優しい。


その言葉だけが、残っていた。毎日ここに来る理由が何であれ、その言葉だけは、少しも受け入れられなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ