5話 自覚
春日部に念入りに釘を刺された空は、結局そのまま帰ることにした。
さすがにあそこまで言われて、さらに訓練室へ戻る気にはなれない。
春日部の”活性”で痛みそのものはかなり薄れていたが、代わりに身体の芯へ居座ったような重い疲労だけは消えていなかった。
隊室を出る前に猫屋へ一応声をかけると、返ってきたのは軽いものだった。
「うんうん、今日は帰った方がいいよ」
「……そうします」
「ちゃんと休むんだよ?」
「春日部さんにも言われました」
「それならなおさらだねえ」
他人事みたいに笑うその顔に、少しだけ言いたいことはあった。
けれど、今日はもうそれを口にする気力もない。
空は小さく会釈だけして、本部を後にした。
外へ出ると、夕方の空気が少しひんやりしていた。
陽はまだ落ちきっていない。けれど昼の熱はもう引いていて、街の輪郭が少しずつやわらかくなり始めている。
このまま真っ直ぐ帰ることもできた。
だが、少し考えてから、空は足の向きを変えた。
病院へ行こうと思った。
海未の顔が浮かんだからだ。
最近はVECのことや任務のこともあって、以前と比べて顔を出せない日も増えていた。
それを海未が口に出して責めたことはない。
ないからこそ、余計に気になった。
空は無言のまま、見慣れた道を歩く。
病院の白い外壁が見えてくると、不思議と少しだけ呼吸が浅くなる。
昔からここへ来る時はそうだった。
安心するような、息苦しいような、どちらともつかない感覚が胸の奥に残る。
受付を通り、廊下を進み、見慣れた病室の前で足を止める。
軽くノックをして、扉を開けた。
「海未」
ベッドの上の少女が、ぱっと顔を上げる。
「お兄ちゃん!」
明るい声だった。
今日は調子が良さそうだ、と空はすぐに分かった。
顔色もここ数日ではましな方で、声にも力がある。何より、その笑顔に無理をしている感じが薄かった。
それを見た瞬間、空の肩から少しだけ力が抜ける。
「……よう」
短く返した自分の口元が、わずかに緩むのが分かった。
海未は、その変化を見逃さなかったらしい。
「お兄ちゃん……」
空が首を傾けると、海未は少しだけ目を丸くしたまま、ぽつりと言った。
「笑ってるとこ、久々に見た……」
思わず、というふうに零れた言葉だった。
その一言に、空ははっとする。
自分ではそんなつもりはなかった。
けれど、海未にそう言われてしまえば、どれだけ長いこと妹に心配をかけていたのか、嫌でも分かる。
空は病室の中へ入り、いつもの椅子に腰を下ろした。
「……心配かけて悪かったよ」
海未が少しだけ目を瞬く。
空は視線を落としたまま、言葉を続けた。
「最近は大変だけど、いいこともあったんだ」
その言い方が自分でも少し照れくさくて、空は軽く咳払いをする。
「学校では友達ができたし」
「えっ」
海未の声が少し弾む。
「友達!?」
「……そんな大した反応するなよ」
「だって、お兄ちゃんが友達って言った!」
「うるさいなぁ」
思わずそう返したが、海未は嬉しそうに笑っている。
空は少しだけ視線を逸らす。
「VECでは……おっかない先輩もいるけど、まあ、うまくやってる」
「おっかない先輩?」
「いるんだよ、いろいろ」
「ふふっ」
海未は楽しそうに笑った。
その笑い声を聞きながら、空は少しだけ肩の力を抜く。
自分が話した内容は、どれもまだ曖昧で、整理しきれているわけではない。
それでもこうして口にすると、少しだけ現実味が出る気がした。
海未はベッドの上で身を乗り出すようにして言う。
「すごいじゃん、お兄ちゃん」
「別に」
「別に、じゃないよ。だってすごく明るくなった」
その言い方が妙にくすぐったい。
空は頬を掻くようにして、小さく息を吐いた。
「……まあ、前よりは少しだけ、ましになったのかもな」
それは誰に聞かせるでもない呟きだった。
けれど海未には十分に聞こえたらしい。
「うん」
迷いのない返事だった。
「きっと、そうだよ」
その声があまりにも自然で、空は何も言い返せなかった。
病室の窓の外では、夕方の光がゆっくりと色を変えている。
白い部屋の中で、海未の笑顔だけが少しだけやわらかく見えた。
空はそんな妹の顔を見ながら、静かに息を吐く。
大変なことは多い。
海未の笑顔を守るために足りないことは、まだ山ほどある。
それでも――少なくとも今は、少しだけ前へ進めているのかもしれないと、そう思えた。
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