4話 自称姉
「まあ、その怪我で続けるのも厳しいでしょ。陽奈ちゃんに診てもらいな」
壁にもたれたままの空を見て、猫屋はいつもの軽い調子で言った。
空は肩を押さえたまま、小さく顔をしかめる。
「え……春日部さんのところですか……」
思わず本音が漏れた。
春日部陽奈。
VEC第4席。
治療担当を任されているSランク隊員であり、その名は本部内でもよく知られている。
空も、入隊初日に功刀につけられた切り傷を診てもらったことがあった。
だが、その時のやたら距離の近い対応と、ふわふわした口調の裏で妙に全部見透かされている感じが、どうにも苦手意識として残っている。
猫屋はそんな空の反応を見て、くすっと笑った。
「なにその嫌そうな顔」
「……嫌っていうか」
「うんうん」
「ちょっと、苦手です」
「正直だねえ」
まるで面白がるように言ってから、猫屋はひらひらと手を振る。
「でも、陽奈ちゃん以上にこういうの上手い人いないし。諦めて行っといで」
「……猫屋さんのせいなんですけど」
「それはごもっとも」
まったく反省の色のない返しだった。
空は小さく息を吐く。
このままここで言い合っていても無駄だと分かっていた。
「……行ってきます」
「はーい。ちゃんと診てもらうんだよ」
その言い方が、少しだけ子ども扱いみたいで気に障る。
だが、言い返す元気も今はなかった。
肩と背中の鈍い痛みを抱えたまま、空は訓練室を後にした。
◇
春日部隊の隊室は、本部の中でも少し空気が違っていた。
医務室というほど無機質ではない。
けれど、治療用のベッドや器具、整頓された薬品棚が並ぶ様子は、普通の隊室とは明らかに違う。
空が扉の前で一度だけためらい、小さくノックをすると、中から柔らかい声が返ってきた。
「はぁい、どうぞ」
その声を聞いただけで、少しだけ肩が重くなる。
空は静かに扉を開けた。
「失礼します……」
その瞬間、部屋の奥にいた人物がぱっと顔を上げる。
「空くんだぁ! どうしたの? 猫屋さんにいじめられた?」
肩までの長さに揃えられた亜麻色のボブカットが、ふわりと揺れた。
春日部陽奈。
白衣の下に柔らかなニットを着たその姿は、医療担当というよりどこか優しげなお姉さんに見える。整った顔立ちに浮かぶ笑みもやわらかく、声も甘い。
けれど、その明るさに反して、空はこの人を前にすると妙に落ち着かない。
春日部は椅子を引くより先に、ぱたぱたとこちらへ駆け寄ってきた。
「あ、いえ……ちょっと壁に体をぶつけただけで……」
空がそう言った瞬間、春日部の目がすっと細まる。
「こーんな大あざ作っちゃって」
言いながら、遠慮なく空の肩や脇腹の辺りを覗き込む。
距離が近い。
「っ……春日部さん、近いです」
「んー? だって診なきゃ分かんないでしょぉ」
まるで悪びれず、春日部は空の訓練着の裂けた箇所や、紫色に変わり始めている打撲の痕を確認していく。
「初日から切り傷だらけにするし、猫屋さんには後で言っておかないとな」
その最後だけ、声が少し低かった。
本当に小さな声だった。
空にはほとんど聞き取れない程度だったが、普段のふわふわした調子とは違う響きだけは、はっきり分かった。
「……え?」
思わず聞き返すと、春日部はすぐにいつもの笑顔へ戻る。
「ううん、なんでもなぁい」
何でもないわけがない。
だが、それ以上踏み込んでいい気はしなかった。
春日部はくるりと踵を返し、治療用のベッドをぽんぽんと叩く。
「ほら、空くん。そこ座って」
「……失礼します」
空がぎこちなく腰を下ろすと、春日部は正面にしゃがみ込むようにして視線を合わせた。
「痛いの、肩と背中?」
「主にそこです」
「息吸うときは?」
「ちょっと響きます」
「なるほどねぇ」
頷きながら、春日部の指先がそっと空の肩口に触れる。
びくりと身体が揺れたのを見て、春日部が少しだけ困ったように笑った。
「そんなに警戒しなくていいのに」
「……してません」
「してるよぉ」
断言だった。
空は言い返せない。
春日部は、その反応ごと受け流すように柔らかく続ける。
「まあ、空くん無茶するもんねぇ」
「無茶させられてるんです」
「うんうん、それも知ってる」
それが本当に知っている人の言い方だったから、空は小さく黙り込むしかなかった。
春日部はそっと立ち上がり、白衣の裾を揺らしながら空の背中に手を当てる。
「じゃあ、診るねぇ。ちょっと疲れるかもしれないけど、我慢して」
「……はい」
空が身構えるのを見て、春日部はまた少し笑った。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと治してあげるから」
その言い方はひどく優しいのに、どこか逆らえない。
空は小さく息を吐いて、されるがまま肩の力を抜いた。
「”活性”」
春日部のやわらかな声が、すぐ背後で落ちる。
次の瞬間、背中に触れていた手のひらから、じんわりと熱が広がった。
痛みが消える、というより薄れていく感覚だった。
鈍く重たかった背中の痛みが、内側からほぐれていく。肩の奥に刺さっていた嫌な違和感も、少しずつ遠のいていくのが分かった。
「……っ」
空は思わず小さく息を呑む。
やはり不思議な感覚だ。
ただの治療とは違う。自分の身体そのものが、無理やり修復されているような、そんな感覚だった。
けれど、それと同時に。
身体から、妙に力が抜けていく。
痛みは薄れているのに、代わりに虚脱感が増していく。
肩や背中の重さは取れたはずなのに、今度は全身がじわじわと沈んでいくようだった。
春日部はそんな空の反応を見越していたように、ふっと笑う。
「うんうん、こんなもんかなぁ」
やがて手を離し、軽くひとつ頷いた。
「はい、おしまい」
春日部がそう言って離れると、空はゆっくりと肩を回した。
さっきまでの鈍い痛みは、たしかにかなり薄れている。
背中を動かした時の嫌な引っかかりも、もうほとんどない。
その代わり、身体ははっきりと重かった。
「前も説明したけど」
春日部は白衣の袖を整えながら、いつものやわらかい口調で続ける。
「私の”感覚”は、あくまで自己修復能力の増加だからねぇ。君の体力を使っての回復だよ」
「……やっぱり、そういう感じなんですね」
空が小さく呟くと、春日部はにこりと笑う。
「そういう感じです」
それから、少しだけ指を立てる。
「だから今日は無理しないよーに」
「……無理しない予定だったんですけど」
「ほんとかなぁ?」
疑いのない顔で疑われた。
空は言葉に詰まる。
訓練室で猫屋相手にあんなことをしておいて、説得力があるとは自分でも思えなかった。
春日部はそんな空を見て、くすっと笑う。
「今日はちゃんと休んで、しっかり食べて、水分も取ること。分かった?」
「……はい」
「よろしい」
満足そうに頷いてから、春日部は少しだけ身を屈めて空の顔を覗き込んだ。
「それとねぇ」
「……何ですか」
「猫屋さん相手に張り切りすぎないこと」
その言葉に、空はわずかに目を逸らす。
春日部はもう全部分かっているようだった。
「……善処します」
「うん、そう言うと思った」
やわらかい笑みのまま返されて、空は小さく息を吐くしかなかった。
痛みは引いた。
けれど、代わりに身体の芯に重い疲労が残っている。
春日部の”活性”はたしかに優秀だ。
ただ、それは傷を無かったことにする力ではなく、自分の身体を前借りして治しているだけなのだと、こうして身をもって分かる。
春日部はそんな空の様子を見ながら、ふわりと笑った。
「でもまぁ、ちゃんと治ってよかったぁ」
その言い方があまりにも自然で、空は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……ありがとうございます」
「うん」
春日部は素直に頷いた。
「何かあったらお姉さんに言うんだよ?」
その言い方は、まるで本当に弟にでも向けるみたいに自然だった。
空はそれ以上何も返せず、ただ小さく会釈することしかできなかった。
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