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4話 自称姉

「まあ、その怪我で続けるのも厳しいでしょ。陽奈(ひな)ちゃんに診てもらいな」


壁にもたれたままの空を見て、猫屋はいつもの軽い調子で言った。


空は肩を押さえたまま、小さく顔をしかめる。


「え……春日部(かすかべ)さんのところですか……」


思わず本音が漏れた。


春日部(かすかべ)陽奈(ひな)


VEC第4席。

治療担当を任されているSランク隊員であり、その名は本部内でもよく知られている。


空も、入隊初日に功刀につけられた切り傷を診てもらったことがあった。

だが、その時のやたら距離の近い対応と、ふわふわした口調の裏で妙に全部見透かされている感じが、どうにも苦手意識として残っている。


猫屋はそんな空の反応を見て、くすっと笑った。


「なにその嫌そうな顔」

「……嫌っていうか」

「うんうん」

「ちょっと、苦手です」

「正直だねえ」


まるで面白がるように言ってから、猫屋はひらひらと手を振る。


「でも、陽奈ちゃん以上にこういうの上手い人いないし。諦めて行っといで」

「……猫屋さんのせいなんですけど」

「それはごもっとも」


まったく反省の色のない返しだった。


空は小さく息を吐く。

このままここで言い合っていても無駄だと分かっていた。


「……行ってきます」


「はーい。ちゃんと診てもらうんだよ」


その言い方が、少しだけ子ども扱いみたいで気に障る。

だが、言い返す元気も今はなかった。


肩と背中の鈍い痛みを抱えたまま、空は訓練室を後にした。



春日部隊(かすかべたい)の隊室は、本部の中でも少し空気が違っていた。


医務室というほど無機質ではない。

けれど、治療用のベッドや器具、整頓された薬品棚が並ぶ様子は、普通の隊室とは明らかに違う。


空が扉の前で一度だけためらい、小さくノックをすると、中から柔らかい声が返ってきた。


「はぁい、どうぞ」


その声を聞いただけで、少しだけ肩が重くなる。


空は静かに扉を開けた。


「失礼します……」


その瞬間、部屋の奥にいた人物がぱっと顔を上げる。


「空くんだぁ! どうしたの? 猫屋さんにいじめられた?」


肩までの長さに揃えられた亜麻色のボブカットが、ふわりと揺れた。


春日部陽奈。


白衣の下に柔らかなニットを着たその姿は、医療担当というよりどこか優しげなお姉さんに見える。整った顔立ちに浮かぶ笑みもやわらかく、声も甘い。

けれど、その明るさに反して、空はこの人を前にすると妙に落ち着かない。


春日部は椅子を引くより先に、ぱたぱたとこちらへ駆け寄ってきた。


「あ、いえ……ちょっと壁に体をぶつけただけで……」


空がそう言った瞬間、春日部の目がすっと細まる。


「こーんな大あざ作っちゃって」


言いながら、遠慮なく空の肩や脇腹の辺りを覗き込む。

距離が近い。


「っ……春日部さん、近いです」


「んー? だって診なきゃ分かんないでしょぉ」


まるで悪びれず、春日部は空の訓練着の裂けた箇所や、紫色に変わり始めている打撲の痕を確認していく。


「初日から切り傷だらけにするし、猫屋さんには後で言っておかないとな」


その最後だけ、声が少し低かった。


本当に小さな声だった。

空にはほとんど聞き取れない程度だったが、普段のふわふわした調子とは違う響きだけは、はっきり分かった。


「……え?」


思わず聞き返すと、春日部はすぐにいつもの笑顔へ戻る。


「ううん、なんでもなぁい」


何でもないわけがない。

だが、それ以上踏み込んでいい気はしなかった。


春日部はくるりと踵を返し、治療用のベッドをぽんぽんと叩く。


「ほら、空くん。そこ座って」

「……失礼します」


空がぎこちなく腰を下ろすと、春日部は正面にしゃがみ込むようにして視線を合わせた。


「痛いの、肩と背中?」

「主にそこです」

「息吸うときは?」

「ちょっと響きます」

「なるほどねぇ」


頷きながら、春日部の指先がそっと空の肩口に触れる。


びくりと身体が揺れたのを見て、春日部が少しだけ困ったように笑った。


「そんなに警戒しなくていいのに」

「……してません」

「してるよぉ」


断言だった。


空は言い返せない。


春日部は、その反応ごと受け流すように柔らかく続ける。


「まあ、空くん無茶するもんねぇ」

「無茶させられてるんです」

「うんうん、それも知ってる」


それが本当に知っている人の言い方だったから、空は小さく黙り込むしかなかった。


春日部はそっと立ち上がり、白衣の裾を揺らしながら空の背中に手を当てる。


「じゃあ、診るねぇ。ちょっと疲れるかもしれないけど、我慢して」

「……はい」


空が身構えるのを見て、春日部はまた少し笑った。


「大丈夫、大丈夫。ちゃんと治してあげるから」


その言い方はひどく優しいのに、どこか逆らえない。

空は小さく息を吐いて、されるがまま肩の力を抜いた。


「”活性(リジェネレート)”」


春日部のやわらかな声が、すぐ背後で落ちる。


次の瞬間、背中に触れていた手のひらから、じんわりと熱が広がった。


痛みが消える、というより薄れていく感覚だった。

鈍く重たかった背中の痛みが、内側からほぐれていく。肩の奥に刺さっていた嫌な違和感も、少しずつ遠のいていくのが分かった。


「……っ」


空は思わず小さく息を呑む。


やはり不思議な感覚だ。

ただの治療とは違う。自分の身体そのものが、無理やり修復されているような、そんな感覚だった。


けれど、それと同時に。


身体から、妙に力が抜けていく。


痛みは薄れているのに、代わりに虚脱感が増していく。

肩や背中の重さは取れたはずなのに、今度は全身がじわじわと沈んでいくようだった。


春日部はそんな空の反応を見越していたように、ふっと笑う。


「うんうん、こんなもんかなぁ」


やがて手を離し、軽くひとつ頷いた。


「はい、おしまい」


春日部がそう言って離れると、空はゆっくりと肩を回した。


さっきまでの鈍い痛みは、たしかにかなり薄れている。

背中を動かした時の嫌な引っかかりも、もうほとんどない。


その代わり、身体ははっきりと重かった。


「前も説明したけど」


春日部は白衣の袖を整えながら、いつものやわらかい口調で続ける。


「私の”感覚(センス)”は、あくまで自己修復能力の増加だからねぇ。君の体力を使っての回復だよ」


「……やっぱり、そういう感じなんですね」


空が小さく呟くと、春日部はにこりと笑う。


「そういう感じです」


それから、少しだけ指を立てる。


「だから今日は無理しないよーに」

「……無理しない予定だったんですけど」

「ほんとかなぁ?」


疑いのない顔で疑われた。


空は言葉に詰まる。


訓練室で猫屋相手にあんなことをしておいて、説得力があるとは自分でも思えなかった。


春日部はそんな空を見て、くすっと笑う。


「今日はちゃんと休んで、しっかり食べて、水分も取ること。分かった?」

「……はい」

「よろしい」


満足そうに頷いてから、春日部は少しだけ身を屈めて空の顔を覗き込んだ。


「それとねぇ」

「……何ですか」

「猫屋さん相手に張り切りすぎないこと」


その言葉に、空はわずかに目を逸らす。


春日部はもう全部分かっているようだった。


「……善処します」

「うん、そう言うと思った」


やわらかい笑みのまま返されて、空は小さく息を吐くしかなかった。


痛みは引いた。

けれど、代わりに身体の芯に重い疲労が残っている。


春日部の”活性(リジェネレート)”はたしかに優秀だ。

ただ、それは傷を無かったことにする力ではなく、自分の身体を前借りして治しているだけなのだと、こうして身をもって分かる。


春日部はそんな空の様子を見ながら、ふわりと笑った。


「でもまぁ、ちゃんと治ってよかったぁ」


その言い方があまりにも自然で、空は一瞬だけ言葉に詰まる。


「……ありがとうございます」

「うん」


春日部は素直に頷いた。


「何かあったらお姉さんに言うんだよ?」


その言い方は、まるで本当に弟にでも向けるみたいに自然だった。


空はそれ以上何も返せず、ただ小さく会釈することしかできなかった。


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